第9話:アスピック
ほら、そんなにバゲットのことが気になるなら、代わりにこいつを楽しもうぜ、相棒」
プロフが鞄から取り出したのは、透き通った煮汁の中に具材を閉じ込めたアスピックだ。だが、私の視界はそれどころではなかった。
黄金色の並木道。先ほど私と肩がぶつかり、そのまま雑踏へ消えたはずのあの男が、数歩先で倒れていた。
彼を避けようともせず、目に見えないレールの上を歩く群衆の足が、無慈悲に男の四肢を蹴り、踏み抜いていく。
「あ……」
鈍い音。男の傷口から、鮮やかな赤が噴き出す。
だが、その「血」が地面に触れた瞬間、周囲の空気が細かく振動を始めた。
街路樹から、ビルの壁から、そしてアスファルトの隙間から、無数の塵――ナノマシンが琥珀色の霧となって溢れ出し、男の体に群がっていく。
傷を治すのではない。
ナノマシンは男の肉を、服を、そして流れた血の一滴までもを「ノイズ」として分解し、街のテクスチャを修復するための材料へと変えていくのだ。
「……あ、あ……」
消滅の寸前、男の濁っていた瞳に、ふと、強烈な人間らしい光が宿った。
彼は震える手を私の方へと伸ばし、何かを必死に訴えようと口を動かす。
だが、その声が届く前に、彼は透明な粒子の中に溶けた。最初からそこに誰もいなかったかのように、美しい黄金色の歩道が瞬時に復元される。
「どうした、相棒。アスピックが口に合わないか?」
プロフは平然と笑っている。彼の視界には、今の惨劇も、鼻を突く生々しい鉄の臭いも、一切届いていない。
パニックに陥り、私は**メガネ(PED)**の端にある緊急連絡ボタンに指をかけた。
だが、画面に表示されたのは冷酷なエラーメッセージだった。
『User Recognition Failed: 生体データ内に管理用ナノマシンを検知できません。未登録個体として、現時刻をもって拘束プロトコルを起動……』
システムにとって、私は守るべき市民ではなく、排除すべき「未登録の異物」だった。
警察へ通報すれば、私が「消される側」になる。
本日の事故、0件。
記録上、何も起きていない。それがこの世界の正解だった。
第9話、読んでいただきありがとうございます。
アスピックはなかなか聞き慣れない料理ですね。
【こだわりレシピ:彩り野菜のアスピック】
透明なゼリーの中にすべてを閉じ込める料理。
アスピックは、あのプルプルとした食感と、透き通った見た目が綺麗でいいですよね。
でも、よく見てください。
その透明な膜の中に閉じ込められているのは、本当に野菜だけでしょうか。
プロフが笑いながらそれを私に勧める時、私には、ついさっき消えた男の指先が、その琥珀色の中でまだ微かに動いているように見えて仕方がないのです。




