第19話:イクラ丼
瞬きをした。
そのわずかな隙間に、世界はまたすり替わっていた。
185センチの視界。ついさっきまで白い空間に立っていたはずなのに、気がつけば私は椅子に座り、目の前の皿を見つめている。
歩いた記憶も、この椅子を引いた感触もない。
ただ、記憶の底にある「イクラの匂い」に引き寄せられるように、私の意識だけがこの場面に無理やり放り出された感覚だ。
「……プロフ」
声を出す。だが、自分の声が鼓膜に届く前に、テレビの砂嵐のようなザラついた音が耳の奥を走った。
目の前のイクラ丼は、一粒一粒が不自然に鮮明だ。網膜に直接「赤」を塗りつけられているような不快感があり、その輝きは生命の鼓動というよりは、冷徹な機械が発する警告灯のように明滅している。
私は、その赤い粒を口に運んだ。
弾けた瞬間、脳を突き刺したのは味覚ではない。
一瞬、視覚の「外側」に、あってはならない黒い線が走った。それはすぐに消えたが、網膜の裏側には焦げたようなノイズが染みとして残っている。
「……っ、ああ、……!」
意識が混濁し、胃の底からせり上がるような不協和音に耐えながら、私の右手が勝手に動き出した。
自分で選んだ言葉ではない。
空の向こう側に潜む「何か」に呼応するように、ペン先がノートを深く、鋭く削る。
私の意思を置き去りにして、震える指が、紙の繊維をズタズタに引き裂きながら、暗黒の深淵から届いた叫びをそこに書き殴った。
視覚の端で、またあの黒いノイズが、静かに蠢いた気がした。
[SYSTEM_LOG_ENTRY_#019]
CATEGORY: SENSORY_RECONSTRUCTION_ERROR
STATUS: CRITICAL_FAILURE
DESCRIPTION: Subject "01" has bypassed behavioral limiters. Unauthorized script writing detected on physical medium. Visual artifacts (ID:BLACK_NOISE) are leaking into the primary render layer.
M̶E̶S̶S̶A̶G̶E̶:
I̸K̶U̶R̶A̸-̷D̴O̷N̸ ̶S̵E̸N̸S̵A̵T̷I̴O̵N̸:̷ ̸S̶Y̶N̴C̸ ̷F̴A̵I̸L̸U̷R̸E̵.̶
T̷H̵E̶ ̸G̶E̷M̶ ̸O̶F̴ ̶T̸H̵E̷ ̴S̴E̶A̶.̷.̵.̵ ̸A̶ ̵L̸U̸X̸U̴R̵I̶O̵U̸S̵ ̶D̶I̶S̸H̵.̴.̷.̴ ̴
N̴A̸N̶T̶E̶ ̴S̷U̸B̴A̴R̸A̷S̵H̸I̸I̸ ̵H̶I̵B̴I̶ ̴D̶A̶
[ERROR: UNKNOWN_SIGNAL_OVERFLOW_AT_PEN_TIP]




