献身 ― 無理をする主と過保護すぎる護衛たち
午前。
城の執務室は、いつも通り淡々とした空気に包まれていた。
書類の束。
筆の音。
規則正しく流れる時間。
その中で――
レイラは、ふいに手を止めた。
視界が、わずかに揺れる。
腹の奥から、鈍く、逃げ場のない痛みが込み上げてきた。
(……来た、か)
顔色が、すっと青ざめる。
だが、声は出さない。
レイラは“耐える”ことに慣れている。
多少の不調など、仕事の前では些細なものだと、そう思ってしまう。
だから周囲は、誰も気づかない。
――ただ一人を除いて。
(……レイラ様?)
テュエル。
呼吸の乱れ。
額に浮いた、うっすらとした汗。
椅子にかけた体の、ほんの僅かな傾き。
それだけで、彼は察してしまう。
レイラは、
何事もないように筆を取ろうとする。
だが。
指先に、
うまく力が入らない。
かた、と。
筆が手から滑り落ちた。
「……っ」
腹の奥を掻き回されるような鈍痛。
一瞬だけ、
視界が白く霞む。
それでも、
レイラは何も言わない。
紙へ視線を戻そうとする。
だが。
「……レイラ様」
隣から、
静かな声が落ちた。
「顔色が悪いです」
「……平気だ」
反射的に返す。
いつものように。
だが、
その声にはわずかに力がなかった。
テュエルは黙ったまま、
そっとレイラの手首へ触れる。
冷たい。
その細い指先が、
普段よりずっと冷えている。
「……無理です」
低い声。
「大丈夫――」
「駄目です」
即答だった。
珍しく、
一歩も引かない。
このままでは、
本格的に休まされる。
そう思ったレイラは、
誤魔化すように席を立とうとした。
その瞬間。
ふらり、と視界が揺れる。
「……っ」
崩れかけた身体を、
テュエルは迷いなく支えた。
テュエル
「今日は休みましょう。無理です」
有無を言わせない声音だった。
レイラ
「……テュエル、大袈裟だ……」
そう言いかけた言葉は、
彼がそのままレイラを抱き上げたことで、喉の奥に消えた。
テュエル
「レイラ様以上に、
優先するものなどありません」
「私室へ戻ります」
それだけ告げて、足早に執務室を後にする。
⸻
私室。
寝台にそっとレイラを横たえ、
テュエルは手際よく布団を整えた。
体温を測り、
湯を沸かし、
熱すぎず、冷たすぎない温度まで
丁寧に冷ましてから、差し出す。
テュエル
「……少し、飲めますか?」
レイラは黙って頷き、
小さく口をつける。
さらに――
腰と腹を温めるために、湯たんぽ。
髪が頬に落ちれば、そっと耳にかける指。
何度も聞かない。
ただ、必要な時に、必要なことだけ。
テュエル
「……少し、眠れそうですか……?」
頼りなさとは、正反対の献身。
生活そのものを、静かに支える力。
レイラはほとんど喋らないまま、
その安心感に包まれて、ゆっくりと意識が沈んでいく。
レイラは、
苦しい時ほど黙る。
弱音を吐けば、
周囲に負担をかけると知っているからだ。
だから。
「平気だ」と言ってしまう。
いつも。
だが。
テュエルだけは、
誤魔化されない。
(本当に……)
(無理しないでほしい……)
レイラが眠りに落ちる直前。
テュエルは、ほとんど吐息のような声で言った。
テュエル
「レイラ様が苦しいのは……胸が痛みます。
どうか……俺に、頼ってください」
⸻
少し遅れて、シャガルが事情を知った。
「なぜ余に知らせぬ?!」
城内に響く、不機嫌な怒声。
完全に八つ当たりである。
だが、レイラの部屋の扉を開けた瞬間――
その表情は、嘘のように和らいだ。
寝台の横にしゃがみ込み、
眉を寄せて、レイラの顔を覗き込む。
シャガル
「……レイラ……大丈夫か……?
そんな苦しそうな顔をするな。
余が、どうにかしてやる」
そう言って、
布団ごと、そっと抱き寄せる。
レイラが眉を寄せるたびに、
「よしよし、余がここにおるぞ」と頭を撫で。
言葉もなく、手を握り。
「痛みよ、余の妻に触れるな」
――本気で、呪う。
シャガルは、
レイラの冷えた指先を包み込む。
その眉間には、
深い皺が刻まれていた。
「……なぜ、
こんなものがお前を苦しめる」
本気で納得していない声だった。
妖王にとって、
“愛しいものを傷つける存在”は、
敵でしかない。
シャガルは、
苦しげに眉を寄せるレイラの髪を、
ゆっくり撫で続ける。
少しでも、
安心するように。
そうしているうちに――
寝返りを打ったレイラが、
無意識にシャガルの胸元へ顔を埋めた。
「……っ」
シャガルは一瞬息を呑み、
そのまま静かに額を押さえた。
「……無防備すぎるだろう……」
困ったように笑いながら、
そっと髪を撫でる。
(…かわいい)
(くそ……)
(痛みよ、殺すぞ)
妖王は、
割と本気だった。
⸻
昼を過ぎても、
二人は部屋を離れなかった。
湯が冷めれば替え。
苦しそうに眉を寄せれば、
すぐ傍へ寄る。
眠れば静かに見守り。
目を覚ませば、
安心させるように声を掛ける。
まるで、
壊れ物でも扱うようだった。
しばらくして。
痛みが少し和らぎ、レイラは目を開ける。
片側では、テュエルが静かに冷えた水を用意し、
反対側では、シャガルが眉間に皺を寄せたまま見つめている。
「……二人とも……
大袈裟だぞ……そんなに心配するな……」
弱々しい声。
テュエルは、即座に首を振った。
「大袈裟ではありません。
あなたは、苦しい時くらい……頼っていいんです」
シャガルも、低く言う。
「余の妻が痛みに耐えるなど、許さん。
余らが世話を焼くのは、当然だ」
レイラは視線を逸らしながら
「……すまない」
小さな声だった。
「皇務も…途中なのに……」
すると。
テュエルは、
わずかに眉を寄せる。
「……そんなことで、
謝らないでください」
シャガルも不満げに鼻を鳴らした。
「余の妻が苦しんでおるのだぞ。
皇務など後でよい」
(……本当、
大袈裟だ……)
そう思うのに。
責める声は、
どこにもない。
苦しい時は頼れと、
二人とも当然のように言ってくれる。
その事実が、
じんわりと胸を温かくした。
レイラは小さく目を閉じる。
すると。
湯を替えていたテュエルが、
静かにその顔を見つめた。
苦痛に強い人だ。
弱音も吐かない。
だからこそ、
無理をしてしまう。
(代われるものなら……)
(俺が全部、
引き受けたいのに……)
その願いは、
声にはならないまま消える。
⸻
夜。
レイラは、
二人に挟まれる形で横になっていた。
片側からは、
穏やかな体温。
もう片側からは、
包み込むようなぬくもり。
だが。
夜が更けるにつれ、
痛みは再び強くなる。
「……っ」
小さく、
レイラの眉が寄った。
その瞬間。
「……痛みますか?」
テュエルがすぐに気づく。
静かに立ち上がり、
冷え始めていた湯を替えに向かう。
その間。
シャガルは、
レイラの背をゆっくり撫で続けていた。
「……眠れ」
低く、穏やかな声。
苦しそうに呼吸が乱れるたび、
その手が額へ触れる。
熱を確かめるように。
安心させるように。
そこへ戻ってきたテュエルが、
自然な動作で湯たんぽを替えた。
冷えないよう、
布団を整え直す指先は、
驚くほど優しい。
言葉はない。
だが、
どちらが何をするべきか、
二人とも分かっていた。
シャガルが静かにレイラを抱き寄せる。
レイラが無意識に胸元へ額を寄せれば、
その腕に、そっと力がこもる。
まるで、
壊れてしまわぬように。
守るように。
反対側では、
テュエルの手がそっと腹部を撫でていた。
少しでも楽になるように。
痛みが和らぐように。
願うような手つきだった。
「……眠れそうですか?」
「……ん……」
掠れた返事。
それだけで、
二人は少し安心したように目を細める。
レイラが眠れば、
二人は起こさぬよう静かに見守った。
苦しそうに眉を寄せれば、
すぐに手が伸びる。
背を撫でる手。
冷えを逃がさぬ温もり。
少しでも、
痛みを遠ざけるように。
レイラの呼吸が、
少しずつ穏やかになっていく。
それを確認してから、
テュエルは静かに息を吐いた。
シャガルも、
ようやく眉間の皺を緩める。
二人とも、
自分が休むことより先に、
レイラの痛みが落ち着くことを気にしていた。
そして――
夜中。
ふと目を覚ましたレイラは、
小さくぽつりと呟いた。
「……ありがとう。
お前たち……側にいてくれて」
(……なんだかんだで……)
(……いい夫たちだな……)
苦しいのに。
不思議と、
心はずっと温かかった。
誰かに頼っていいのだと、
二人が何度も教えてくれるから。
そう思いながら、
レイラは再び、
静かな眠りへ落ちていった。
――しかし、この時は、まだ。
この“安心”が、
次の盛大な自己評価クラッシュに繋がるとは、
誰も知らなかった。




