妻として何もしていないと気づいたレイラ様、なぜか嫁修行を始めてしまう
皇務の一環として、
レイラは村へ視察に訪れていた。
畑の様子を確認し、
井戸の水量を確かめ、
村人たちと形式的な言葉を交わす。
――いつも通りの仕事。
いつも通りの距離感。
そのはずだった。
「ねえねえ、聞いてよ〜」
不意に、風に乗って声が届いた。
井戸のそば。
桶を抱えた村の女たちが、
輪になって笑い合っている。
――井戸端会議だ。
「うちの人、ほんっとよく食べるのよ〜
だからさ、ご飯いっぱい作ってさぁ」
「分かる分かる!
胃袋つかんじゃえばこっちのもんよね!」
くすくすと笑い声が弾む。
レイラは足を止めるつもりはなかった。
ただ、たまたま耳に入っただけのはずだった。
「洗濯も大変でさぁ、毎日山みたいになるのよ」
「でも夜はちゃんと相手してあげてるわよ?
ほら、あれ大事じゃない?♡」
その一言で、ほんの少しだけ空気が変わる。
「わたしも頑張っちゃう〜♡」
「そうそう、尽くしてるって実感あるわよね〜」
――その瞬間。
レイラの足が、ぴたりと止まった。
(……尽くす……?)
笑い声。
生活の匂い。
“妻”としての、当たり前の会話。
胸の奥で、何かがひっかかった。
(私は……)
ご飯を作っているわけでもない。
洗濯をしているわけでもない。
夜の相手――
それは……関係はあるが……
あれが“尽くす”と言えるのか……?
(……あれ……?)
(私……)
(妻として……何をしている……?)
気づけば、
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
レイラは、ただ立ち尽くしていた。
(……そうなのか)
それだけが、頭に残った。
(……私は……)
(もしかして……)
(なにも……返せていないのでは……?)
(あんなに……二人には尽くされているのに……)
レイラは、何も言わずその場を離れた。
背筋を伸ばし、
表情を変えず、
いつも通りに。
――だが、その心は、確実に揺れていた。
⸻
その夜は、シャガルと眠る日だった。
部屋に入ったレイラは、
いつもより言葉が少なかった。
座っていても、
立っていても、
視線が定まらない。
指先を、もじもじと擦り合わせている。
それに気づかぬシャガルではない。
すぐに距離を詰め、
レイラのそばに座り直す。
「……どうした」
低い声。
「疲れたのか?」
「……いや……」
レイラは、小さく首を振った。
「その……」
言葉が続かない。
普段なら、
用件は簡潔に、
無駄な前置きなどしないレイラが。
沈黙が落ちる。
やがて――
レイラは、ぎゅっと指先を握りしめて、
小さく、呟いた。
「……私は……
シャガルの妻として……」
一瞬、言葉が詰まる。
「……ちゃんと……
務まっているだろうか……?」
声が、わずかに沈む。
しゅん、と。
⸻
その瞬間。
シャガル:理性・終・了。
ほんの数秒。
妖の王は、完全に固まった。
理解が、追いつかない。
ゆっくりと顔を上げたレイラの瞳には、
いつもの凛とした静けさの奥に――
不安。
期待。
そして、確かな愛。
それが、静かに揺れている。
その健気さが、
シャガルの胸を、真正面から撃ち抜いた。
――ズキュウウウウン♡
「……レイラ……」
次の瞬間、
考えるより先に、身体が動いていた。
ぎゅっと、抱き寄せる。
普段は、
触れる力加減に気を遣う男が。
今は、止められない。
「お前が……
余の妻であることが……」
声が、震える。
「どれほど誇らしいか……
分かっておるのか……?」
「……っ」
レイラの息が詰まる。
シャガルはさらに顔を寄せ、
囁くように続けた。
「そんなことを……
余に問うでない……」
「嬉しすぎて……
心臓が……持たぬ……」
――完全に、喜びの暴走だった。
背中に手を回し、
半ば押し倒すように寝台へ運ぶ。
額に。
頬に。
こめかみに。
次々と、口付けが落ちる。
「レイラ……
そんな顔で余に縋るな……」
低く、熱を帯びた声。
「抱きしめずには……
いられぬだろう……」
「……ち、違う……
そんなつもりでは……」
必死に否定するレイラ。
だが――
「遅い」
完全にスイッチが入った声。
「……妻として、十分すぎるほどだ」
囁くように。
「むしろ……
余の方が、お前に応えられておるか……
不安になるほどだ……」
そう言いながら、
逃がさぬように、しかし優しく抱き寄せる。
レイラ
(※心臓の音がうるさすぎて死にそう)
シャガル
(※完全にキマった顔で幸せ)
――その後のことは。
語られなかった。
⸻
翌朝。
レイラは、なぜか静かに拳を握りしめていた。
(……よし)
(……私は……)
(妻として……)
(もっと……頑張る……!)
――こうして。
盛大な誤解と愛情過多を原動力にした
レイラの“嫁修行”が、静かに幕を開ける。
――――――
厨房
――――――
普段のレイラであれば、
戦場のど真ん中であろうと、
眉ひとつ動かさず歩いていく胆力を持っている。
だが、その日は違った。
城の厨房――
その隅で、珍しくレイラが、
明らかに“こそこそ”していた。
割烹着を身につけ、
大きな調理台の端に立ち、
背中を丸めて、なにやら真剣な様子。
テュエルは、ただ護衛として
レイラの姿を探していただけだった。
それだけのはずだった。
扉の影から、その光景が目に入った瞬間。
「……レ、レイラ様……?」
思わず、声が漏れる。
呼吸を、忘れた。
レイラは、大きな皿とにらめっこしていた。
片手には、本のように開かれた《料理指南書》。
もう片方の手は――
包丁ではなく。
トゲのついた野菜に、刺さっていた。
指先が、赤い。
「……ッ、なんだこの野菜……
兵器か……?」
真顔で、そんなことを呟いている。
テュエルの心臓が
――ズッッッッッッッキィィィィン♡♡
と音を立てて跳ねた。
だがすぐに正気に戻り怪我をしたレイラに駆け寄る。
「レ、レイラ様?!
お怪我を……!!」
声を上げた瞬間、
レイラははっとして手を引っ込める。
少し気まずそうに、
ほんのり頬を赤くして、視線を落とした。
「……その……
少し……“嫁修行”をな……」
ぽつり、と。
「二人の妻として……
出来ることを……増やした方が……
良いかと……思って……」
(……は?)
(……殺す気か……)
テュエルの頭の中で、
冷静な思考が崩壊する。
(可愛すぎる……ッ!!!!♡)
(いや、違う、落ち着け……!)
(レイラ様が……嫁修行……?)
(もう十分すぎるほど立派なのに……)
(なぜ……そんな……)
震える手で、
テュエルはそっと、レイラの指先を取った。
傷を確かめる指は、
まるで壊れ物を扱うかのように、慎重だ。
顔はもう、真っ赤だった。
「……レイラ様……」
声が、少し掠れる。
「トゲで怪我をするほど……
その……頑張らなくても……」
一度、言葉を選ぶように息を吸って。
「レイラ様は……
立派すぎるほど……
素晴らしいお方です……」
「……だが……」
レイラは、小さく眉を下げる。
「私は……妻として……不安で……
皆……夫のために……
色々していると……聞いて……」
その言葉に、
テュエルは数秒、完全に固まった。
そして理解する”なにかを聞いたのか”と
そして――
限界が来たように、眉を下げる。
潤んだ瞳で、
ほとんど訴えるように、言った。
「………レイラ様…………」
「そんなことを……
思われていたなんて……」
小さく、息を詰めて。
「……可愛すぎて……
胸が……苦しい……」
「――っ?!」
はっとして、
テュエルは慌てて手を離す。
「ち、違います!
いえ!可愛いと言いましたが!
その!意味は!
えっと!……」
完全に混乱。
(まずい…心の声が…!)
「落ち着け、俺……!!」
レイラは、ぽかん、としたまま固まっている。
テュエルは深く息を吸い、
今度は真剣な眼差しで、レイラを見つめた。
「レイラ様は……
そのままで……」
「戦う姿も、
本を読んでいる姿も、
ぼんやりしている姿も……」
少し、声が柔らぐ。
「……全部……
誰よりも……愛おしいです」
レイラの耳まで、
一気に赤く染まった。
テュエルは視線を逸らしつつ、
例のトゲ野菜を手に取る。
慣れた手つきで皮をむき、
あっという間に、食べやすい形に切った。
「……これからは……
ボクが……手伝います」
小さく、しかしはっきりと。
「レイラ様の指に……
一つでも傷がつくのは……
我慢できません」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……すまない……
テュエル……」
「いいえ……」
少しだけ、声が甘くなる。
「……むしろ……
もっと……頼ってほしい……」
その言葉には、長く胸の奥に秘めてきた想いが、ほんの少しだけ、滲んでいた。
レイラは、その言葉を静かに噛みしめる。
頬が熱くなる。胸がじんわりと温かくなる。
目を細めて、少しだけ恥ずかしそうに、テュエルを見上げた。
「……テュエル…」
「……今夜は……一緒に寝よう……?」
声は小さく、けれど真剣だった。
テュエルは一瞬驚くが
(あぁ……添い寝のことだな……)
とすぐに冷静になり、テュエルはいつも通り、
穏やかに頷く。
「はいレイラ様^^」
だがレイラの心は、もう少し複雑だった。
昼間、村の奥様方の井戸端会議で聞いた“尽くす妻”の話。
それを思い出して、胸が熱くなる。
(……私も……何か……できるだろうか……)
――――
夜になり、テュエルと布団に入る
隣に横になるテュエルを前に、
レイラは決心する。
“尽くす”ことを――
“甘える”ことを――
ちゃんと実行しよう、と。
だが、いざ二人きりの布団に入ると、
どうすればいいのか、わからない。
レイラはしばし布団の中でもぞもぞ。
テュエルは、少し困った顔で手を差し伸べる。
「……レイラ様、どうされましたか?」
「……えっと……どうしたら……いいのか……」
明らかにもじもじ
「?レイラ様??」
レイラ
(……どうすれば……尽くせる……?)
(甘えるって……どうやれば……?)
思い悩んだ末。
レイラは、もう開き直った。
【……もう、どうにでもなれ!!】
――とばかりに、いきなりテュエルに飛びつく。
ぎゅーーーーーーーーーーーーーーっと、
全力で抱きつく。
テュエル、動揺。
「レ、レイラ様?!♡♡
ど、どうされましたか?!♡」
しかし内心は――
(レ、レイラ様がご自分から?!?!♡)
(う、嬉しすぎる……!胸が♡痛い……っ♡)
レイラは、ぎゅっと抱きしめながら
恥ずかしそうに小さく呟く。
「……これが……尽くす…なのか…?
甘えるということなのだろうか……」
テュエルは顔を真っ赤にしつつ
震える手でレイラをそっと包む。
「……レ、レイラ様……♡
ボクは…それだけでも……十分……です……♡」
(むしろ、殺す気か………)
もう、頭の中は完全に理性崩壊。
どうしていいかわからず、ただぎゅっと抱きしめ返すしかできない。
テュエル
「レイラ様……ボクも…レイラ様の期待に応えれるよう
頑張ります………♡」
テュエルはそっと体を寄せ、抱きしめたまま布団の中で二人の距離を縮める。
レイラ
「っっっ!!!」
そのまま夜は更け――
その先は語られなかった。
布団の中の二人だけの世界で、
甘くて、少し不器用な“嫁修行”は静かに幕を閉じたのだった。




