初夜、抱かれずに愛された夜
馬天とシャガルと別れ、
執務室の机に座ったレイラは、いつも通り淡々と書類へ目を通す――はずだった。
だが、手が一瞬止まるたびに、シャガルの言葉がよぎる。
「……初夜がまだ済んでおらぬ」
胸の奥が、妙に熱い。
落ち着かない。
こんな感覚になるのは、本当に初めてだった。
レイラ
(……集中できない……)
それでも表情は変わらない。
いつも通りの冷静無表情。
しかし内側だけは、慣れない動揺でぐらぐらと揺れていた。
隣で書類を整理していたテュエルが、ふとレイラの指の震えに気づく。
テュエル
「……レイラ様、今日は……手が冷えておられますか?」
レイラ
「ん?……ああ……いや、問題ない」
(緊張のせいだなんて……言えない。)
テュエルは、レイラがシャガルから受け取った腕輪に触れていることに気づく。
テュエル
「…………よかったです……」
その声は、ほんの一瞬だけ揺れていた。
レイラ
「……あ……テュエル……今夜は……護衛はいらない。」
精一杯、違和感がないように告げる。
だがテュエルには、それを見抜けないはずがなかった。
テュエル
「………………かしこまりました……。」
そう呟いた直後、テュエルは小さく沈んだように黙る。
胸の奥に押し込めた切なさが、わずかに滲んでいた。
しかしレイラはそれに気づかない。
ただ、「いつもと違う沈黙」に、ほんの少しだけ首を傾げる。
――――――――――――
通常、湯に浸かるのは短時間のはずのレイラ。
しかし今日は――なぜか、少しだけ長く湯に身を預けていた。
髪を洗う手は、普段より丁寧。
肩や脚を確かめる仕草も、いつも以上に慎重だった。
レイラ
(………初夜……………………)
湯に浸かっていても、温度がどこか遠い。
身体は温まっているはずなのに、胸の奥だけがひどく落ち着かなかった。
鏡の前に立ち、レイラは普段しないように首筋や頬に触れる。
変なところがないかを確かめるように。
レイラ
「……変ではない……か?」
自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
――――――――――――
初夜が近づくにつれて、胸の鼓動は早まっていく。
だがレイラは、それを「緊張」とは自覚できない。
ただひとつ確かなのは――
“シャガルの言葉が頭から離れない”
という、これまでにない状況に、自分が追いつけていないということだった。
『いつも通りでいればいい……』
(※しかし、その“いつも通り”が一番難しい。)
やがてレイラは布団に腰掛け、静かに息を整える。
あとは、シャガルが来るのを待つだけ。
――扉の向こうから気配を感じる。
レイラは静かに顔を上げ、そのまま迎え入れた。
レイラ
「シャガル……」
シャガル
「……うむ……待たせたな。」
その瞬間、胸の奥の“ざわつき”が、さらに大きくなる。
シャガル
「緊張しておるのか?」
レイラ
「…………胸が……落ち着かない。」
自分でも驚くほど正直な言葉が、ぽつりとこぼれた。
シャガルはふっと目元を和らげ、
レイラの頬に触れぬ距離まで手を近づける。
――触れたいのに、焦らない。
シャガル
「それでいい。余も……実は少しばかり緊張しておる。」
レイラ
「……お前が……?」
シャガル
「お前が相手だ。緊張もする。」
その一言だけで、レイラの胸がじわりと熱を帯びる。
自分だけがおかしいわけではない――
そう気づいた瞬間、わずかに身体の強張りがほどけた。
シャガルは控えめにレイラの手へ触れようとする。
だが触れる直前で、そっと動きを止めた。
シャガル
「……レイラ。
手を……繋いでも、よいか?」
レイラは小さく瞬きをする。
その慎重さに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
レイラ
「……うん……」
――――――――――――
シャガルがそっと指を絡めた瞬間、
レイラの呼吸が静かに揺れる。
ひどく優しい手の温度。
――こんなことで、胸が跳ねる自分が信じられない。
シャガル
「無理はさせぬ。
今夜は……触れ合うことが怖ければ、そう言え。」
レイラ
「怖くは……ない。
ただ…………この気持ちを……確かめたい。」
淡白で、恋愛感情に疎いレイラだからこそ出る、ありのままの言葉。
シャガルの喉が、きゅっと震えた。
シャガル
「……レイラ……」
その名が、わずかに熱を帯びて呼ばれる。
レイラは、自分でもわからぬまま、
シャガルの胸へと手を伸ばして触れた。
レイラ
「……お前は…………温かいな……」
その一言が、シャガルの理性を深く揺らす。
シャガル
「……レイラ。
……抱きしめても、よいか?」
レイラは、こくりと小さく頷く。
次の瞬間、シャガルの腕がそっと回される。
力強すぎることはない。
だが、自分を大切に扱おうとする意志が、はっきりと伝わってくる。
抱きしめられた瞬間、レイラは小さく息を呑み、胸元で手を握りしめた。
シャガルの胸に顔を埋めたまま、
レイラの指がその衣をぎゅっと掴む。
しばらく沈黙が続いたあと、
ぽつりとレイラが呟く。
レイラ
「…………シャガル……」
シャガル
「……どうした?」
レイラは少しだけ顔を上げるが、視線は合わない。
不安を滲ませながら言葉を落とす。
レイラ
「……私は……男みたいだろう……」
シャガル
「…………」
レイラ
「背もあるし、身体も大きい。
可愛げもないし……重たい……だろうし……」
一瞬、言葉を探すように唇を噛む。
レイラ
「……それに……」
一度、言葉を飲み込み――
レイラ
「酒の匂いが嫌だ、とか……
面倒なことも言う……」
自嘲気味に、小さく笑う。
レイラ
「……それでも……
どうして……私なんだ?」
その問いは疑いではない。
確かめるための、弱さだった。
シャガルは、わずかに目を見開く。
そしてゆっくりとレイラの顎に指を添え、顔を上げさせる。
逃がさぬが、強さはない。
シャガル
「……それで、余が離れると本気で思ったのか?」
レイラ
「…………」
シャガルは、低く静かに笑った。
シャガル
「……ふっ」
指先で頬をなぞりながら、続ける。
シャガル
「そんなことを気にしているから、可愛いと言っているのだ」
レイラの瞳が揺れる。
シャガル
「……その顔……余以外に向けるな」
レイラ
「ッ……」
思わず視線を逸らし、頬を染める。
シャガル
「余はな……
弱くて、守られるだけの女を選んだ覚えはない」
額を、そっと合わせる。
シャガル
「闘い、立ち、
それでも誰かを想える女を――
美しいと思っただけだ」
レイラの呼吸が、わずかに乱れる。
シャガル
「……レイラ。
余が選んだのは――お前“そのもの”だ」
シャガル
「わがまま……か?」
低く笑い、指先で顎をすくい上げる。
シャガル
「……ふん。
それをわがままと呼ぶなら――
余は、そのすべてを欲している」
視線を絡めたまま、逃がさぬ距離で。
シャガル
「酒の匂いが嫌だと言えるのは、
お前のその……優れた感覚が、誤魔化しを許さぬからだ」
一瞬、声が柔らぐ。
シャガル
「感じたままを、そのまま口にする……
それが、お前という女だ」
低く、確信を込めて。
シャガル
「……余の前でだけ、その本能を隠さぬからこそ――
言える言葉だ」
さらに声を落とし、囁くように。
シャガル
「その無防備さが、どれほど男を狂わせるか……
自覚しておらぬのが、罪だな」
一拍。
シャガル
「お前はお前だ……替えなど、効かぬ」
その瞬間、
レイラの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
レイラ
「………………」
声にならない息が、そっと漏れる。
レイラは、ぎゅっとシャガルに抱きついた。
レイラ
「……そんなこと……言われたら……
……もう……離れられない……だろ……」
シャガル
「……離すつもりはない」
そのまま二人は言葉を失い、
ただ互いの温もりに身を委ねる――
レイラ
(……胸が……苦しい……)
シャガル
「大丈夫か……?」
レイラ
「……ああ……
全然……嫌じゃない……」
シャガルの腕の力が、ほんの少し強くなる。
レイラの紅潮した頬に、浅い呼吸が揺れる。
シャガルの指が肌をなぞるたび、レイラの身体は小さく跳ねた。
最初は、慎重だった。
惚れた女を抱けば、失ってしまうかもしれない――
その恐怖が、骨の髄まで刻まれていたからだ。
けれど――
レイラがかすかに震えながら、
「……シャガル……ぎゅっとして……」
と、彼に求めた瞬間。
シャガルの中で、何かが壊れた。
胸に押し寄せる熱。
指先に伝わる体温。
触れ合うたびに返ってくるレイラの反応。
妖であるシャガルにとって、それは本来、知るべきではない“幸福の形”だった。
シャガル
「……レイラ……そんな声を出すな……理性が……飛んでしまう……」
掠れた声は、限界を告げていた。
シャガルはレイラの腰に手を回し、強く引き寄せる。
額を寄せ、息が触れる距離で視線を重ねた。
触れ合う唇は深く、息が溶け合うほどに近い。
距離は、もはや限界に近かった。
レイラ
「シャガル……ずっと……そばにいて……」
シャガルの喉がひくりと動く。
息を呑む音が、静かに落ちる。
シャガル
「……だめだ……これ以上触れたら……お前を……失う……」
それでも身体は、止まらない。
甘い匂い、温かさ、柔らかさ。
すべてがシャガルの自制を少しずつ削っていく。
レイラの細い指がシャガルの首に回り、わずかに爪が食い込む。
その仕草が愛しくて、シャガルは喉の奥で低く唸る。
シャガル
「……レイラ……ッ」
堪えきれず、首筋や肩へと何度も、噛むように口付けを落とす。
妖としての衝動が、彼女の体温を求めて指先まで痺れさせた。
――それは、あまりにも甘く、あまりにも人のものだった。
だがそのとき。
ふと脳裏に、レイラの隣で穏やかに微笑むテュエルの姿が浮かぶ。
(もし、余がここで欲に負ければ……
あいつは……レイラは……どう思う?)
次の瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
まるで冷水を浴びたかのように、妖の欲が引いていく。
シャガルは息を呑み、レイラの身体をそっと押し返した。
シャガル
「……すまぬ。本当は……触れたくてたまらぬのに……」
苦しげに、悔しげに、それでも確かな愛を滲ませて。
シャガル
「……レイラ……これ以上は……お前が危険だ……
余は……お前を愛している……だから……“抱かない”と決めたのだ……」
その手は震えていた。
呼吸も荒いまま、必死に衝動を抑え込んでいる。
レイラの瞳が、わずかに潤む。
それは寂しさではなく――
尊さと愛しさに満たされた涙だった。
レイラはシャガルの手を握る。
レイラ
「……シャガル……ありがとう……
触れてくれるだけで……抱きしめ合うだけで……幸せだ……」
その夜、二人は最後の一線を越えなくとも、
抱きしめ合い、口付けを重ね、互いの温もりで満たされていった。
――そしてシャガルは、夜の甘さと温かさを“知ってしまった”。
二度と忘れられないほどに。
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