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譲ったもの、譲らぬもの

夜が静かに更けていく。

テュエルはまだ、昨夜の出来事の余韻に浸っていた。


胸の奥には、言葉にできない幸福感が満ちている。

抱きしめた温もり、彼女の柔らかな呼吸、指先で触れた感覚――

そのすべてが、これまでの人生の答え合わせのように心に染みていく。


(もう、何もいらない――

 この瞬間だけで、世界は完結している)


軽く目を閉じ、深く息を吸う。

額に残るレイラの温もりの余韻に、思わず微笑む。

彼女もまた、静かにテュエルを見つめ返していた。


 

その時、部屋の外から静かな声が響く。


「婚姻…か…」


シャガルだ。いつもの余裕を漂わせ、扉の外から二人の気配を探っていた。

だが、口には出さない。余計な言葉は不要だと知っているかのように、短く吐息を漏らすだけだ。


「………………」


シャガルはしばらく沈黙した後、短く呟く。


「余は……待つと決めた……」


その背中には、静かな覚悟があった――

彼女が心から余を選ぶその日まで。

 

 

――だが

 今はもうテュエルが彼女の夫である。


「……人間界の……な」

 

 その声には、譲ったものと、

決して譲らぬものの境界が、はっきりと滲んでいた。


 そう呟き、シャガルは部屋から立ち去っていった。



(俺の世界は、ずっと、レイラ様でできている――

 今も、これからも、永遠に)


静寂の中で、二人だけの呼吸と温もりが、世界を包んでいた。


――朝の光が差し込む寝室。

障子の隙間から、やわらかな光が床を照らしていた。


テュエルは、昨夜の幸福感を胸に抱きながら、静かに朝の身支度を整えていた。

 

――夫になった、という事実は、まだ不思議なほどに心を満たしている。

 

しかし、護衛としての感覚は変わらない。彼の視線は、常にレイラの安全を見守ることを忘れない。


 まだ寝ぼけているレイラの髪を整え、身支度を済ませる。


レイラ

「――今日も…よろしくな……テュエル」


淡い声で言ったその一言に、テュエルは胸の奥で小さく頷く。 


(この一日も、レイラ様のために――

 守るのは、俺の役目だ)


二人は朝食の間も、言葉少なめに、しかし自然体で向き合う。

言葉少なでも、互いの存在を感じ合い、安心感を共有している。


その後、テュエルはいつも通りの巡回路を確認し、朝の巡回に出る準備をする。


(王としての力は持った――でも、俺の本分は変わらない。

 護衛として、伴侶として――常に傍にいることだ)


レイラもまた、淡々と日課をこなしつつ、テュエルの背中を見送り、安心した微笑を浮かべる。


夫婦としての形は整った――しかし、まだ日常は変わらず、淡々と流れていく。



 ――――――


 昼下がり、皇務の書類に向かうレイラとテュエル。

二人はいつも通り、淡々と、しかし互いを気遣いながら仕事をこなしていた。


その最中、テュエルだけがふと、いつもの殺気とは違う、冷たくも熱くもない、しかし確かな視線を感じた。

視線の先を見ると――窓の外、木の上に座り、静かにこちらを見つめるシャガルの姿があった。


軽く腕を組み、眉間に皺も寄せず、しかし柔らかくもない、怒っているわけでも、悲しんでいるわけでも、祝福しているわけでもない――絶妙な表情を浮かべている。


視線が合った瞬間、テュエルは背筋にぞくりとした感覚を覚える。

その視線は、まるで言葉を発しているかのようだった。


「余は諦めていない」と――


しかし、今のテュエルには動揺する理由はなかった。

胸を落ち着かせ、深呼吸をひとつ――それでも、ほんのわずかに胸騒ぎを覚える自分がいるのを感じた。


レイラはそんな二人のやり取りに気づき、やれやれと小さく息をつく。


レイラ

「お前達、相変わらずだな……」


軽く笑みを浮かべ、二人を促す。


「少し、三人で休憩でもしようか」


レイラの提案に、シャガルは軽く頷き、木から降りる。


シャガル

「――そうだな」


三人で茶の席を設けると、空気は自然と柔らかく、温かく、心地よい時間が流れる。

笑い声、短い会話、そして無言のやり取りも、互いを確かめ合う静かな幸福感に満ちていた。


その間も、シャガルの心の内は静かに揺れている。


(余は、待つだけだ……)


彼の視線は柔らかいレイラの笑顔に触れ、ほんのわずかに欲が顔を出す。 


(…欲しい……お前が……)

 

シャガルは茶を口に運ぶ

「……よい時間だな」


しかしその思いを押し殺し、シャガルは穏やかな微笑みを浮かべ、三人の時間を静かに見守るのだった。



 ――――


 夜の宮殿。


テュエルは報告書をまとめ、書類を置きに離席していた。

レイラは一人、椅子に腰掛け、静かに残りの皇務を片付けている。


 そこへ――


「レイラ、入るぞ」


低く、落ち着いた声。


振り向くと、シャガルがいつも通りの余裕を漂わせ、ゆっくりと歩み寄る。 


その表情は柔らかく、しかしどこか独占欲を含んでいる。


シャガル

「皇務は、もう終わったか?」


レイラ

「あぁ…もう終わる」


シャガル

「ならば、少し付き合え――」


そう言って、珍しく穏やかな仕草で手を差し出す。


レイラ

「……なんだ、いきなり。普段なら強引に引っ張っていくくせに」


シャガル

「茶化すでない……行くぞ」


わずかに視線を逸らしながら告げる。


レイラは一瞬だけ迷い、それからそっと手を伸ばした。


その指先を、シャガルは包み込むように掴み――

いつもよりも、ずっと優しく握り返した。


二人はそっと部屋を抜け、縁側へと出た。

夜気はひんやりとしていて、星が瞬き、空は深く静かな色に沈んでいる。


シャガル

「明日は新月か……」


ふと空を仰ぎ、低く呟く。


「月明かりがないと……お前の顔が……」


そこで言葉を切り――ゆっくりと視線を落とす。


「よく見えぬ………。」


その言葉と同時に、シャガルの手が伸びる。

指先でそっと顎を捉え、逃がさぬように軽く持ち上げた。


レイラ

「……ッ!」


(まただ……)

(また、あの感覚……)


近づく気配に、呼吸がわずかに乱れる。


(胸が……熱い……)


唇が触れるかと思うほどの距離。


レイラは思わず、きゅっと目を強く閉じた――


だが、

 シャガルが、ふと思い出す――

 

 自分は「待つ」と、決めたのだ。


シャガル

「………っ」


シャガルは、顎を掴んでいた手を

レイラの手へと持ち替え

その手の甲へと、名残惜しそうに口付けを落とす。

 

「――おやすみだ、レイラ」


 

そう残してシャガルは静かに立ち去っていく。


その言葉と仕草に、レイラの胸は小さく跳ねた。


レイラ

「夜で…………よかった……」

 

 

 思わず呟き、赤面した頬を手で覆う。



 立ち去っていくその背中から、

決して諦めぬ独占欲が、ほんのわずかに滲んでいた。


 

夜風が、二人の心の奥に、甘く、ほのかな緊張とときめきを運んだ。

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