あの笑顔を、もう一度――それが恋の始まりだった。
――すぐ戻ります。
そう言ったはずだった。
だが、東部族長イブキとの話は、思った以上に長引いた。
皇務の調整、村の今後、報告事項――
どれも必要な話だと分かってはいる。
(……まずいな)
胸の奥に、嫌なざわめきが広がる。
テュエルは、礼もそこそこに場を辞し、
城内の回廊を足早に進んだ。
――ぱた、ぱた、と。
自分でも分かるほど、足音が急いている。
(……レイラ様)
二人きりになるのを、
レイラ様は最近、どこか避けるようになっていた。
――いや。
正確には、
シャガルと、二人きりになる状況を、だ。
理由は、分かっている。
心が、落ち着かないから。
胸の奥に芽生えた感情の正体を、
まだ、受け止めきれないから。
(……だから)
レイラ様は、
俺の名を呼んだ。
そばにいてほしい、と。
二人きりにしないでほしい、と。
縋るように、頼ることができる相手が、
自分だと知っているから。
(……ずるいな)
そう思いながらも、
その頼り方が、痛いほど嬉しかった。
テュエルは知っている。
レイラ様が、
自分を一番頼っていてくれていることも。
大切にしていることも。
シャガルと二人きりになることが、
「嫌」なのではない。
ただ、
その感情に、まだ名前をつけられず、
助けを求めているのだと。
(……離れられるわけがない)
守りたいからではない。
護衛だからでもない。
離れたくなかった。
離したくも、なかった。
――ずっと。
レイラ様は、
自分だけのものだと、
どこかで、信じ切っていたから。
だから今日も、
テュエルはそばにいた。
護衛という名目のまま、
彼女と、シャガルの間に立ち続けて。
だからこそ、急いだ。
そして――
回廊の先、
視界の端に、見慣れた後ろ姿が映った。
レイラだ。
だが。
(……?)
ぴたりと足が止まる。
足を止めたのは、
その歩き方が、あまりにも――
空っぽに見えたからだ。
背筋は伸びている。
足取りも、乱れてはいない。
それなのに。
まるで、
中身だけが、置き去りにされたような――
そんな、抜け殻のような姿。
レイラは、
テュエルに気づくこともなく、
そのまま、静かに資料室の扉を開け、中へ入っていった。
(……資料室)
胸が、ひくり、と痛んだ。
考え事がある時。
誰にも見せない顔をしている時。
レイラは、決まってそこへ行く。
それを――
テュエルは、知っている。
知りすぎているほどに。
(……ああ)
分かってしまう。
明らかに、何かがあった。
それも、
軽いものではない。
心の奥に、深く沈む類のものだ。
テュエルは、その場に立ち尽くしたまま、
思わず、息を吐いた。
テュエル
「……辛い……なぁ」
ぽつり、と。
誰に聞かせるでもなく、
零れてしまった言葉。
胸の奥が、じくり、と疼く。
ふと、思い出してしまう。
(……そういえば)
(最初に、
この方を――
“特別だ”と意識したのは、
いつだっただろうか)
胸を痛めた、というよりも。
胸の奥に、
どうしようもなく、
静かに根を下ろしてしまった感情。
――恋、という名のそれを。
テュエルは、
それが始まった日のことを、
否応なく思い出していた。
記憶は、
ゆっくりと、過去へと引き戻されていく。
――最初から、だった。
レイラ様は、初めて拝見したその日から、
どこか近寄りがたい方だった。
感情を表に出さず、
静かで、
凛としていて。
年齢不相応な落ち着きが、
周囲に距離を生んでいた。
「氷の姫だ」
「心が見えない」
「何を考えているかわからない」
そんな声を、何度も聞いた。
けれど――
テュエルは、疑わなかった。
(……きっと、そういう方なのだ)
それだけだった。
特別な力があるとか、
人ならざる存在だとか、
そんな発想は、微塵もなかった。
ただ、
強く、静かで、揺るがない姫君。
それが、レイラ様だった。
――忘れもしない。
全部族合同稽古の日。
本来いるべき場所を抜け出し、
皇族の庭で昼寝をしていた、あの日。
(……父上に見つかったら、確実に叱られるな)
そう思いながら目を閉じていたところへ、
ひとりの少女が現れた。
『私と、手合わせをして』
落ち着いた声。
迷いのない宝石のような目。
木刀を握る手は、慣れているとは言い難かった。
――初めてだと、すぐにわかった。
だからこそ、
軽く受けるつもりだった。
……結果は、惨敗だった。
才能があると持て囃され、
部族長の息子として期待されていた自分を、
少女は、あっさりと打ち倒した。
地に倒れ、
見上げた先。
そこにあったのは――
思いがけないほど、晴れやかな表情だった。
勝ち誇るでもなく、
相手を見下ろすでもない。
ただ、
息を弾ませ、
頬を上気させて。
まるで――
「こんなに楽しい時間は初めてだ」とでも言うような顔。
剣を振ることも、
相手と向き合うことも。
そのすべてが新鮮で、
夢中で、
心の底から満たされている。
そんな清々しさが、
そのまま表に溢れ出たような――
陽だまりのような笑顔だった。
本人はきっと、
自分が笑っていることすら、
気づいていなかったのだろう。
ただ、
楽しくて。
嬉しくて。
やりきった、その余韻のままに。
――だからこそ。
(……なんて、綺麗な)
テュエルの胸は、
一瞬で撃ち抜かれた。
あとで知った。
あの少女が、
レイラ姫だったということを。
そして同時に思った。
(……守りたい)
理由なんてなかった。
使命感でもなかった。
ただ、
あの笑顔を、もう一度見たい。
それだけだった。
氷の姫と呼ばれていようと、
怖れられていようと。
自分だけは、
その前に立とう。
刃も、
言葉も、
悪意も。
すべて、引き受けよう。
あの日からずっと――
その想いは、変わらない。




