夕焼けに染まるその瞬間、王は“男”になった。
久々に、人里へ赴くことになった。
皇務として村を訪れ、
テュエルとレイラは、いつものように人々の話を聞き、悩みを拾い上げていく。
作物の不作。
子の病。
水路の不調。
レイラは真剣に耳を傾け、
テュエルは補足を入れながら、静かに記録していく。
一方で――
「待て待て! そっちは反則だぞ!」
「きゃはは! シャガル弱いー!」
村の外れでは、
木の枝を剣に見立てた子供たちと、
同じ目線で走り回る影があった。
シャガルだ。
地雷になりがちな人付き合いは避け、
代わりに、遠慮も裏もない子供たちの輪に溶け込んでいる。
「ほら、次は余の番だ!」
わざと大げさに斬られ、
大げさに倒れ、
子供たちの歓声を浴びる姿は――
(……本当に……)
レイラは、ふとそちらを見て、
小さく息を吐いた。
(……楽しそうだな……)
そして同時に、
胸の奥が、きゅっと鳴る。
以前なら、ただそれだけだった。
今は――違う。
理由もなく、
視線が、離れない。
――――
すべての用事を終え、
三人で城へ戻る頃には、
空はすっかり夕焼けに染まっていた。
赤と橙が混じり合い、
影が長く伸びる。
その途中で――
「姫様、少しよろしいでしょうか――」
東部族長イブキが、一礼して声をかけた。
イブキ
「テュエル様を、少しお借りしても?」
テュエル
「はい、なんでしょうか」
即座に応じながらも、
テュエルは一瞬だけ言葉を切り、レイラの方を振り返る。
その視線には、はっきりとした気遣いがあった。
――その瞬間。
(ぇ…………!?)
レイラの胸が、跳ね上がる。
(二人きり!?
い、いや……待て……!
それは……今は……!)
思わず、助けを求めるように視線を逸らすが、
逃げ場はない。
テュエルは、ほんの一瞬だけためらった後、
「……すぐ戻ります」
そう言って、レイラに小さく頷いた。
それは、
大丈夫ですか、と問いかけるような仕草だった。
(だ、大丈夫じゃない……)
喉まで出かかった言葉を、
レイラは必死に飲み込む。
そして次の瞬間、
二人は歩き出してしまった。
――残されたのは。
夕焼けと、
シャガルと、
心臓の音だけ。
最近――
二人きりになるのを、無意識に避けていた。
理由は、分かっている。
分かってしまっている。
だから、胸が落ち着かない。
レイラ
「……」
レイラは、意味もなく指先を組み、
もじ、と足元を見つめる。
鼓動が、少し速い。
だが――
シャガル
「久々に、二人きりなのだな」
気にした様子もなく、
シャガルが言った。
「庭にでも行くぞ」
レイラ
「え……?」
返事を待たず、
ぐい、と手を取られる。
「ちょ、シャガル……!」
半ば強引に引かれながら、
それでも、振りほどけない。
指先から伝わる体温に、
胸が、どくん、と跳ねた。
――
庭園に出ると、
夕焼けは、さらに深みを増していた。
逆光の中、まだ握った手はそのまま――
シャガルが振り返る。
「今日は、人里も穏やかでよかったな」
そう言って、
いつものように、柔らかく微笑む。
――その瞬間。
レイラの視界が、
音を失った。
夕焼けを背にした横顔。
風に揺れる髪。
穏やかな瞳。
(……なに……)
胸が、きゅっと締めつけられる。
(……こんな……)
視線が……離せない――――
「……あぁ、さっきの件だが――」
シャガルは何か話している。
確かに、声は聞こえている。
だが、言葉が、入ってこない。
ただ、
目を奪われていた。
「……?」
シャガルが首を傾げる。
「聞いておるのか、レイラ?」
返事はない。
「レイラ?」
もう一度、名を呼ぶ。
それでも、
レイラは、ただ見つめている。
まるで、
初めて見る存在のように。
そして――
「……シャガル」
ぽつり、と零れた声。
「お前は……」
一瞬、言葉を探し、
ゆっくりと続ける。
「……すごく……
端正な顔立ちを、していたんだな……」
自覚は、ない。
だが――
その言葉と同時に、
レイラの指が、そっと伸びる。
迷いながら、
けれど確かに。
シャガルの頬へ。
その言葉に――
シャガルは、はっきりと目を見開いた。
驚き。
そして、一瞬の静止。
レイラの指が、ためらいもなく頬へ伸びる。
――触れられる、その刹那。
シャガルの瞳の色が、すっと変わった。
先ほどまでの、余裕を帯びた妖王のそれではない。
冗談めかした笑みも、軽口もない。
そこにあったのは――
ひとりの男の顔だった。
シャガル
「……レイラ……」
低く、押し殺した声。
次の瞬間、
レイラの腕を掴み、そのまま軽々と体勢を崩させる。
レイラ
「……っ」
背が地面に触れる――
そう思った、その寸前。
シャガルの腕が、確かに彼女を支えていた。
逃げ場のない距離。
吐息が触れそうなほど、近い。
鼻先が、今にも触れてしまいそうな位置で、
シャガルが囁く。
「余を、挑発するな」
声音は低く、鋭い。
「レイラ……
余は、妖である以前に――“男”だ」
言葉を選ぶように、噛みしめるように。
「そんな無防備に近づき、触れるでない……
……余は」
一瞬、息を詰める。
「お前に触れられる度、
心穏やかでなど、いられぬ……」
胸が、ぎゅっと掴まれる。
近すぎる。
シャガルの瞳は、逃げ場もなく――
すべて、レイラだけを映していた。
レイラ
「…………」
喉が鳴る。
レイラは、小さく息を吸い込み、
揺れる声で口を開いた。
「…………すまない」
一拍。
「……だが……シャガル……」
言葉を探すように、
それでも、目を逸らさずに。
「私は……
お前に、触れられることが……」
胸の奥から、絞り出す。
「……嫌では……ない……」
――その瞬間。
シャガルの呼吸が、はっきりと止まった。
シャガル
「…………」
言葉は、落ちない。
代わりに、
腰へ回された手が、強く締まる。
爪が食い込むほどに。
レイラ
「私は……どうすればいい……」
迷いと、不安と、戸惑い、
それでも逃げない覚悟を込めて。
シャガルは、低く息を吐いた。
「……余に、聞くな……」
震えを隠しきれない声。
「決めるのは……
お前自身だ……レイラ……」
そう言いながら――
シャガルは、レイラを力いっぱい抱きしめた。
逃がさぬように。
壊さぬように。
そして――離せぬように。
まるで、
何百年も失っていた宝を、
ようやく胸に取り戻したかのように。
強く、強く。
息ができないほど、抱き寄せて。
「……レイラ……」
震える声が、耳元に落ちる。
「余を……
狂わせるな……」
抱きしめる腕は、離れようとしなかった。




