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触れた先に生まれた、翡翠の光


 夜が来る。


 灯を落とし、自室の寝台に身を横たえても、

 シャガルの身体は、まるで休むことを許されていなかった。


(……また……か)


 胸の奥――

 いや、妖力の核のあたりが、じくり、と疼く。


 天墓使の神木から逆流した妖力。

 一度暴走した力は、そう簡単には静まらなかった。


 特に、夜。


 闇が濃くなるにつれて、

 妖力は、まるで思い出したかのように蠢き出す。


「……く…っ…」


 低く息を吐き、歯を食いしばる。


 痛みではない。

 だが、放置すれば、意識を保たなければ、確実に“あちら側”へ引きずられる予感があった。


(……レイラ……)


 脳裏に浮かぶのは、

 あの温もり。


 犬の姿になって、

 何も考えず、ただ隣で眠る夜。


 一緒にいたい。

 隣に行きたい。


 だが――


(……万が一……)


 もし、眠っている最中に制御を失ったら。

 もし、妖力が溢れ、鬼化が再燃したら。


 そのすぐ隣に――

 レイラがいたら。


(……余は……)


 考えただけで、喉の奥が詰まる。


 守ると誓った相手を、

 自分の手で傷つけるかもしれない。


 それだけは――

 絶対に、許されない。


 だから、行かない。


 犬の姿にもならない。

 隣にも、行かない。


 夜は、耐える時間だった。


 疼きと向き合い、

 妖力を抑え込み、

 ただ、夜が過ぎるのを待つ。


 眠れぬまま、夜が明ける。


 そして――

 昼。


 人目につかぬよう、

 短い時間だけ、深く眠る。


 それで誤魔化す。

 誰にも、悟らせぬように。


(……これでいい)


 そう、言い聞かせながら。


 たとえ、

 レイラが少し、遠くなったとしても。


 それで、守れるのなら――

 余は、それでいい。



 ――――――


  夜。


 どうしても、胸のざわめきが消えなかった。


(……おかしい)


 理由は分からない。

 だが、落ち着かない。


 レイラは羽織を手に取り、

 静かに廊下へ出た。


 向かう先は、ひとつしかない。


 シャガルの自室。


レイラ

「……シャガル?」


 扉の前で、声をかける。


 返事は、ない。


 そっと扉を開け、中を覗く。


「……いない……?」


 寝台も、灯りも、

 使われた形跡はあるのに、主の姿だけがない。


(……外出、か?)


 だが――

 違和感が、胸をよぎる。


 空気が、微かに揺れている。


 巫女としての感覚が、

 はっきりと、それを捉えた。


(……妖力……)


 しかも、それは――

 抑え込まれた、痛みを孕んだ揺らぎ。


 レイラは、息を詰める。


(……まさか……)


 導かれるように、

 足が動いた。

 

 宮殿の裏手へと続く回廊を曲がった、その瞬間。


 レイラの足が、ぴたりと止まった。


(……なに……この……)


 空気が、重い。


 夜気そのものが、どこか歪んでいる。


 冷たいはずの風が、肌を撫でるたびに、

 不快な熱を含んでいるように感じられた。


(……妖力……)


 それも、普段のシャガルのものとは、明らかに違う。


 荒れている。

 抑え込まれている。

 そして――無理に、閉じ込めているような…


 胸の奥が、ざわり、と鳴った。


(……まさか……)


 一歩、踏み出す。


 石畳に、わずかに残った擦れた跡。


 引きずるような足取り。

 急いでいたわけではない。


 ――逃げるように。

 だが同時に。


(……違う)


 レイラは、はっきりと理解してしまう。


(……これは……)


 逃げるためじゃない。


 ――近づけないためだ。


(……巻き込まないように……)


 その考えが浮かんだ瞬間、

 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


(……なぜ……)


 問いかけは、すぐに答えを連れてくる。


 もし、この妖力の乱れが――

 もし、制御を失う可能性があるのだとしたら。


 人のいる場所では、いられない。

 レイラの近くには、いられない。


(……だから……)


 誰も来ない場所へ。

 人払いされた、宮殿の裏側へ。


 ひとりで――

 耐えきるために。


 胸騒ぎが、確信へと変わっていく。


(……シャガルは……)


 ただ、いないのではない。


 とんでもない状態なのではないか。


 そう思った瞬間、

 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


(……そんな……)


 無意識に、足が速まる。


 怖い。


 だが、それ以上に――


(……放っておけるわけがない……)


 それが、今のレイラの、本音だった。



 ――――


  ――目に飛び込んできたのは、

 胸を押さえ、荒い息を吐きながら、膝をつくシャガルの姿だった。


 抑えきれずに漏れ出す妖気。

 角は浮きかけ、瞳は金に滲み、理性の縁で踏みとどまっているのが、ひと目でわかる。


レイラ

「……シャガル!!」


 名を呼び、駆け寄ろうとした瞬間。


シャガル

《近づくなッ!!!》


 怒鳴るような声が夜気を裂いた。

 それは、いつものシャガルの声ではない。


《来るな……今の余に近づけば……!》


 必死に、何かを押し殺す声。


 ――それでも。


 レイラの足は、止まらなかった。


レイラ

「放っておけるわけないだろ!!」


 拒まれても。

 怒鳴られても。


「シャガルが……こんなに苦しんでるのに……!」


 レイラは、その前に膝をつく。


 逃げるようにここまで来た理由が、痛いほど伝わった。

 誰も巻き込まないため。

 ――そして、自分を遠ざけるため。


「……落ち着け、シャガル」


 低く、静かな声。


「私が……助ける」


シャガル

《……やめろ……ッ》


 掠れた声が震える。


《余に触れるな……お前を…傷つけたく…ない……》


「分かってる」


 レイラは、そっとシャガルの胸元へ手をかざした。




 触れた瞬間――

 レイラは、流れを“視た”。


 内側で暴れ、詰まり、行き場を失った力。

 溜まりすぎたそれが、身体を蝕んでいる。


(……妖力が詰まり、暴れている…)


(……このままじゃ……)


 レイラは、自身の力を――

 押し込むのではなく、寄り添わせるように流した。


 冷たく澄んだ気配が、

 荒れた内側をなぞり、絡まった流れをほどいていく。


 滞ったものを外へ。

 過剰なものを逃がすように。


 まるで、栓を抜くように。


「……ッ……」


 シャガルの身体が、大きく震えた。


 だが、次の瞬間。


 荒れていた呼吸が、少しずつ整っていく。

 胸を締め付けていた痛みが、ふっと緩む。


「……な……にを……」


 シャガルは、信じられないものを見るように、レイラを見た。


「……余の中に……触れたな……?

 分かっていて、やったのか……?」


 その声は、震えていた。


 レイラは、ただ真っ直ぐに答える。


「静かにしろ……溜めれば苦しくなる。

 なら……逃がしてやればいい」


 その言葉に――

 シャガルの瞳が、大きく揺れた。


(………レイラ…

 ……まさか……)


 胸の奥に、

 言葉にしてはいけない理解が、落ちていく。



 だが、その瞬間。


 レイラの手元から流れていた気配が、

 すっと、引いていった。


 絡み合っていた流れが、静かにほどけ、

 重なっていた鼓動が、それぞれの場所へ戻っていく。


 ――終わった。


 そう、身体が先に理解していた。


 シャガルの呼吸は、もう乱れていない。

 胸を押さえていた手も、いつの間にか力を失っていた。


 ――知られてはならない。

 ――今、告げてはならない。


 シャガルは、思わず手を伸ばし、

 レイラの手首を包み込んだ。


シャガル

「……レイラ…恩に着る……」



 その声は、ひどく低く、静かだった。



 その瞬間――


 レイラが手をかざしていた、その場所で。


 **ぽう……**と、淡い翡翠色の光が生まれた。


それは、

妖力の発露とも、

術の残滓とも違う――


レイラ

「……?」


 レイラが、わずかに目を見開く。


 光は、二人の間で、ゆっくりと形を成し、

 結晶のようなものへと変わっていく。


 シャガルは、息を呑み、

 震える指で、壊れぬようにそれを掬い取った。


(……やはり……)


 胸が、きつく締め付けられる。


 これを、失ってはならない。

 彼女には――まだ、知らせてはならない。


シャガル

「……レイラ。これは……余が、預かる」


レイラ

「?……うん…」


 意味も知らず、頷くレイラ。


 シャガルは、結晶を胸に抱いた。


 この光の意味を、

 この重さを、

 彼女が知るその日まで――。


――――

 

  少し離れた回廊の影で、

 テュエルは、その一部始終を見ていた。


 レイラの妖力が触れた瞬間、

 空気の質が、はっきりと変わった。


テュエル

(……これは……)


 沈静。

 いや、それだけではない。


 シャガルの反応。

 触れられた“その後”の、あの沈黙。


(……ただ事ではない)


 そして――

 翡翠色の光。


 あれを、知らずに見過ごせるほど、

 テュエルは鈍くなかった。


(……まさか)


 言葉には、しない。

 できない。


 けれど、

 胸の奥で、確かに何かが軋んだ。


(……レイラ様……)


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