名もない感情に、ようやく名前がついた日
シャガルがバチっと目を覚ます。
意識がはっきりし、体に宿った力が急に目を覚ましたかのように、床を踏み鳴らす音が響く。
ドスドス、バタバタ――心臓の鼓動よりも早く、彼は部屋を飛び出てレイラの元へ駆け寄る。
布団に座り、ぼんやりと外を眺めていたレイラを見て、シャガルは動きを止める。
レイラ
「シャガル……もう……体は良いのか……?」
その瞳には、まだ信じられないという思いが渦巻いていた。
レイラに近づき、言葉にはせず、ただ頬に触れ、手を握り、息づかいを確認する。
レイラはかすかに微笑み、少し愛おしそうな目でシャガルを見る。
レイラ
「…ふふっ…もう…無事だぞ」
その一言で、胸の奥に溜め込んでいた感情が一気に解放される。
シャガルは声にならない息を吐き、ようやく震える声で漏らした。
シャガル
「…はぁ………もう…生きた心地がせんかった……」
レイラはその表情を見て、そっと笑いながら、手を重ねるようにシャガルを宥める。
レイラ
「もう……大丈夫だ」
シャガルはまだ、安堵と恐怖の余韻に体を揺らしながらも、やっと深く息をつき、レイラの隣で少しずつ落ち着きを取り戻していく。
――
シャガルはしばらく、何も言わずにレイラの前に立っていた。
その視線は揺れていないようでいて、奥ではまだ、昨夜の闇を引きずっている。
やがて、深く息をつく。
胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すように、腕をゆっくりと組み、低く、しかしはっきりとした声で口を開いた。
シャガル
「レイラ……あの時は……すまなかった」
その一言に、空気が静まる。
レイラは顔を上げシャガルを見つめる。
シャガル
「余は、何も手を出せず……なのに、お前には『闘え』と怒鳴りつけてしまった……」
言葉を選ぶように、一拍置き。
「……無理をさせた。お前を……失うところだった……」
レイラの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
目の前の男が、自分を守ろうとするあまり、自分自身を追い込んでいたことが、今になってはっきりと伝わってきた。
だがレイラは目を伏せず、まっすぐにシャガルを見つめ返す。
そして、ほんのわずか、微笑むように言った。
レイラ
「……シャガルが、立てって言ってくれたから……」
「父上の血を誇れって、教えてくれたから……私は、闘えた」
一呼吸おいて、静かに続ける。
「ありがとう……シャガル……」
その言葉に、シャガルの瞳がわずかに揺れる。
ゆっくりと伸ばされた手が、レイラの肩に触れ、包み込むように留まった。
シャガル
「余は……お前に闘ってほしいわけではない」
低く、だが揺るぎのない声。
「お前は、余の女だ……余が守る」
「だから……前に出るな。傷つくな……余のそばにいろ」
その言葉が、胸の奥に、じんわりと染み込んでいく。
戦場で感じた恐怖、不安、緊張が、少しずつほどけていくのを、レイラは確かに感じていた。
シャガルの手が、軽く髪を撫で、額に触れる。
その温もりだけで――守られているのだと、疑いようもなく分かった。
レイラ
「……分かった、シャガル」
「…これからは……シャガルを……信じる……」
シャガルはほんのわずかに微笑み、唇をレイラの耳元へ近づける。
シャガル
「レイラ……」
「余は、お前を……絶対に離さぬ……」
戦いの傷も、疲労も、その一瞬だけ遠のいていく。
二人だけの静寂が、夜明けの余韻を残す空気の中で、そっと重なり合う。
レイラの瞳には、涙が光っていた。
恐怖も、安堵も、守られたという実感も――すべてが混ざり合った、かけがえのない瞬間。
レイラ
「シャガル……ありがとう……私のために……」
シャガル
「余が守る……永遠にな……」
レイラは小さく頷き、肩を寄せる。
朝の光に染まり始めた城の中、二人の間に芽生えた絆は、もう揺るがないものとして、静かに根を下ろしていた。
そして確かに――
シャガルのその想いは、守ると誓う声は、
レイラの胸の奥に、今まで知らなかった温もりを灯していた。
それはまだ、はっきりと名を持たない感情。
だが、確実に、心を動かし始めていた。
恐怖でも、忠誠でもない。
ただ、ひとりの男を――
失いたくないと願う気持ちとして。
――
闘いの傷が癒えてきた頃――
日常が、ゆっくりと戻り始めた頃。
レイラは、執務室へ向かう廊下を歩いていた。
考えごとをしていたのか、足取りはどこか上の空だった。
石造りの床。
わずかな段差。
——気づいた時には、足が踏み外れかけていた。
「……っ」
身体が前に傾く。
その瞬間。
強い腕が、迷いなくレイラの身体を引き寄せた。
シャガル
「――危ないではないか!!」
低く、鋭い声。
驚く間もなく、しっかりと支えられていることに気づく。
シャガル
「ちゃんと下を見よ!!」
怒気を含んだ声とは裏腹に、
掴む手は必要以上に強くならない。
そして、間近で――
少しだけ言葉を詰まらせたあと、吐き捨てるように続けた。
シャガル
「……怪我をしたら、
お前の柔肌が傷つくではないか……!」
一瞬、空気が止まる。
レイラは目を瞬かせ、
次いで、ゆっくりと視線を上げた。
レイラ
「…………ごめん…」
ぽつりと呟くと、
シャガルは一拍遅れて、視線を逸らす。
シャガル
「……余は、
お前が傷つくのを好まぬ」
それだけ言って、
それ以上は何も付け足さなかった。
だが、その横顔は——
怒っているのではなく、
心底、心配していた男のものだった。
その後――
レイラは執務机に向かい、書簡を前にしているというのに、
筆先は、しばしば紙の上で止まっていた。
(――何を書こうとしていたのだったか。)
思考が、ふと途切れる。
気づけば、窓の外に差し込む光をぼんやりと眺めていた。
「……レイラ様?」
テュエルの声に、はっとして顔を上げる。
レイラ
「……あ、すまない……」
そう言って筆を取るものの、集中は長く続かない。
廊下の向こうから聞こえた会話の中に、ひとつの名が混じっただけで――
「……シャガル様が――」
ぴくり。
筆先が、かすかに震えた。
(……今のは……)
胸の奥が、わずかにざわつく。
理由も分からないまま、深く息を整え、何事もなかったように書面へ視線を戻す。
――おかしい。
以前なら、ただの名だった。
妖の王。酒呑童子。専属護衛。信頼する存在。
それだけだったはずなのに。
ふと、記憶がよみがえる。
シャガル
『なぜこんな窮屈なものを……?
それにしても……美しい形だ。
隠す意味がわからん』
真剣な顔で、まじまじと胸元を見つめられながら、
何の躊躇もなく告げられた、あの言葉。
(……あの時は、何とも思わなかったのに……)
今になって思い出すと、
じわりと熱が頬に集まるのが分かる。
「……っ」
無意識に、胸元を押さえる。
布越しなのに、視線を向けられているような錯覚すら覚えてしまい、
小さく首を振って、その感覚を振り払った。
ふと視線を上げると、
書類を運んできた女官が目に入る。
小柄で、華奢で、柔らかな雰囲気。
よく似合う髪飾りが、歩みに合わせて揺れていた。
(……可愛らしいな)
そう思った、その直後。
胸の奥が、かすかに痛んだ。
(……私は、大きい)
テュエルの隣に立てば、視線はわずかに上がるだけで済む。
シャガルと向き合っても、見上げるほどではない。
(それでも――
女官たちの輪に入ると、
自分だけが浮いて見える)
(剣を振るうための体。
鎧を着るための骨格のような気さえする。)
(可愛らしさとは、
最初から別の場所に生まれた身体――)
女官のような、柔らかさも、愛らしさもない。
簪など、きっと似合わない。
装いも、振る舞いも――女らしいとは言えない。
(……それなのに)
なぜ、シャガルは――
あの王は、自分を「余の女」だなどと、迷いなく言ったのだろう。
(……なぜ、私なんだ)
答えの出ない問いが、胸に落ちる。
そして、その問いそのものを抱いている自分に、
レイラははっと気づく。
(……気にしている)
以前なら、考えもしなかったこと。
比べもしなかったこと。
恥じることなど、なかったはずなのに。
――可愛らしくない自分。
――女性らしくない自分。
それらが、急に、どうしようもなく気になってしまう。
(……おかしいな)
小さく息を吐き、レイラは苦笑する。
ただ守られているだけでよかったはずなのに。
信頼しているだけで、満ち足りていたはずなのに。
胸の奥で、静かに、確かに、
何かが変わり始めていることを――
もう、否定できなくなっていた。
――
その日、レイラは珍しく女物の着物を選んだ。
淡い、桜の色。
普段ならまず手に取らない色だ。
――以前、シャガルに贈られた着物。
(……シャガルが、言っていたな)
――この桜のような淡い色も、絶対にそなたに似合うはずだ。
思い出しただけで、胸の奥がむずがゆくなる。
理由をつけるように、レイラは小さく息を吐いた。
「……たまには、な」
着付けが終わり、帯を整えられた、そのとき。
襖が静かに開いた。
現れたのは、シャガルだった。
視線が合った瞬間――
彼の動きが、ぴたりと止まる。
そして、次の瞬間。
シャガル
「――やはり!!!!」
弾んだ声。
「余は思っておったぞ!
お前には、この桜のような淡い色も似合うと!!」
駆け引きも、探る色もない。
ただ、心から嬉しそうに、無邪気に言い切る。
レイラ
「……そうか?」
レイラは平静を装い、視線を逸らす。
だが、胸の奥では、確かに――跳ねた。
(……なんだ、この感じは)
誤魔化すように姿勢を正した、その時だった。
シャガルが、すっと距離を詰めてくる。
レイラ
「……?」
近い。
いや――近すぎる。
ほとんど、零距離。
何をするのかと思った、その瞬間。
シャガルは、レイラの瞳をまっすぐ覗き込み、低く、真剣な声で言った。
シャガル
「……やはり……
息を呑むほどに美しい瞳をしておるな……」
レイラの呼吸が、一瞬止まる。
「吸い込まれそうだ。
宝石などと比喩するのが、惜しいほどだ……」
レイラ
「……っ!」
言葉が、喉の奥で詰まった。
胸の奥が、どくん、と強く跳ねる。
一拍遅れて、次の鼓動がやけに大きく響き、呼吸の仕方が分からなくなる。
(……待て……落ち着け……)
そう思ったはずなのに、
熱が一気に頬へ、耳へと駆け上がっていくのがはっきり分かってしまう。
耐えきれず、レイラはぱっと顔を背けた。
レイラ
「な、何を……っ、突然……!」
声が、思っていたよりも少し上ずっている。
自分でそれに気づいて、さらに胸がうるさくなる。
心臓が――近すぎる距離を、拒むどころか、
喜んでいるみたいで、どうしようもなかった。
シャガルはそんなことなど露ほども知らぬ顔で、
きょとんと目を瞬かせる。
シャガル
「事実を申したまでだが?」
と、首を傾げる。
――その横で。
テュエルは、”見てしまった”
胸の奥では、確かに何かが砕ける音がした。
雷のような衝撃。
否定する暇すら与えられない、圧倒的な理解。
テュエル
(……恋だ)
(レイラ様は……恋に落ちてしまわれている……)
そう気づいた瞬間、
世界が一段、遠のいた。
桜色の着物に身を包み、
頬を染め、視線を逸らすレイラ。
そして、その姿を無防備に見つめるシャガル。
テュエル
(……ああ)
胸の奥が、どくん、と痛む。
(あの目だ)
テュエルは、はっきりと理解してしまった。
無自覚かもしれない。
まだ言葉にもなっていないかもしれない。
それでも――
あの瞳は、確かに。
シャガルだけを映す、恋の目だった。
テュエルは、静かに息を飲み込み、視線を伏せる。
胸の奥に生まれた痛みを、誰にも悟らせぬように。




