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世界最強の妖王が、たった一人を前に弱さを知った日


――本来なら、城へ戻るべきだった。


  ――王としてでも、ただの”男”としてでも。

 今この瞬間、本来なら、城へ戻るべきだった。


 状況を整え、

 配下を呼び、

 次の一手を打つべきだった。


 だが――


 今のシャガルには、

 その“当たり前”に辿り着く余裕すらなかった。


 胸の奥が、ざわついている。

 思考が、まとまらない。


 ただ、少しでいい。


 ――静かな場所が、欲しかった。


誰の視線もなく、

誰の声も届かない場所で。


腕の中の温もりだけを、

確かめていたかった。


だから――

足は、自然と森へ向かった。


森の木々に囲まれ、深く入ったその場所で、

腕の中の女が、力なく沈んだ。


――レイラの体が、重く、柔らかく、

腕に吸い込まれるように落ちた。


その瞬間――

シャガルの胸の奥で、何かがぐしゃりと潰れた。


「……レイラ?」


名を呼ぶ。

だが、返事はない。


血と泥に汚れた細い指。

浅く、今にも途切れそうな呼吸。


――さきほどまで。

自分の内から溢れ出た力が、

この身体を引き裂こうとしていた。


そして――

その暴力の延長線上に、愛する者を傷つけるかもしれなかった恐怖が、

遅れて、確実に胸をえぐる。


(余は……何を……)


喉が焼け、胸が締め付けられる。


妖の王として千年を生きてきても、

この感情だけは知らなかった――。



その事実が、遅れて、しかし容赦なく、

シャガルの思考を蝕んでいく。


(余は……)


喉が焼ける。

胃の奥が、嫌な感覚で捩れる。


吐き気。


天墓使に封じられ、

理に縛られ、

自分が「討たれる側」だった時の感覚。


――違う。


それよりも、

はるかに、忌まわしい。


(余は……)


レイラを、傷つける側になり得た。


その可能性に思い至った瞬間、

内臓を掴まれたような嫌悪が込み上げた。


思い出すだけで、反射的に、抱く腕に力が入る。


――守ると、誓った。


――宝物だと、口にした。


それなのに。


もし、ほんの一歩でも踏み違えていれば。

もし、あの時、レイラが前に出ていなければ。


(……余は……)


喉の奥から、掠れた息が漏れる。


妖の王として、

恐怖されることには慣れていた。


畏怖。

憎悪。

討伐の対象。


それらは、すべて外から向けられるものだった。


だが――

これは違う。


自分自身が、怖い。


己の力が。

己の存在が。

この腕が、牙が、爪が。


――レイラを壊すかもしれないという事実が。


シャガルは、

無意識に額をレイラの髪に押し当てた。


確かめるように。

まだ、ここにいるのかと。


温もりが、ある。

微かだが、確かに。


それだけで、

胸の奥がきりきりと痛む。


(……知ってしまった……)


守りたい存在を。

失いたくない存在を。


それが、どれほど脆く、

どれほど簡単に、

自分の力で壊れてしまうのかを。


――愛。


その感情を得た瞬間から、妖の王は、

もう無敵ではなくなっていた。


シャガルは、ただ前を向く。

腕の中の温もりを、何度も、何度も、確かめるように。


森の中で、しばし呼吸を整え、静かに佇む。

その背には、かつての誇りだけではなく、

新たに芽生えた恐怖が、確かに刻まれていた。


――


テュエルが近づいてきた。


「レイラ様……っ!!」


駆け寄ったその瞬間、息を呑む。


腕の中の彼女。

血と泥にまみれ、体はぐったり。

呼吸は浅く、頼りない。


胸に、鋭い痛みが走った。


だが――

次に視線を上げると、そこにいたのは、

涙に濡れ、恐怖に歪んだシャガルの顔だった。


テュエル

「……シャガル……?」


あの妖の王が――

こんな表情を浮かべるなど。


震える喉から、掠れた声。


シャガル

「余は……レイラを……殺しかけた……」


テュエル

「そんなことは――」


否定の言葉を放とうとしたテュエルを、

シャガルが自ら遮った。


シャガル

「違わぬ……!!

余の力が……余の愚かさが……

レイラを、こんな目に遭わせたのだ……!」


声は、もはや泣き声だった。


テュエルは膝をつき、シャガルと同じ目線で、静かに息を吐く。


テュエル

「シャガル……

お前がどれほど、レイラ様を想っているか……

俺が、一番知ってる。」


奥歯を噛みしめるシャガル。


シャガル

「守れぬのなら……

余には、何の価値がある……

自分が傷つけるくらいなら……レイラを奪ってしまうくらいなら……」


胸ぐらを、テュエルが掴んだ。


テュエル

「ふざけるな!!」


雷のような声。


「レイラ様は……

お前を“選んだ”んだ!」


シャガル

「……テュエル……」


テュエル

「自分を捨てたら、レイラ様はどう思う?

どう感じると思う?

そんな姿を見せて、喜ぶと思うか!!!」


シャガルの喉が震え、言葉が詰まる。


テュエルは静かに、しかし確かに言葉を重ねた。


テュエル

「レイラ様は……

あなたが生きて、

隣にいてくれるだけで救われる方だ。」


シャガルの視線が、腕の中のレイラへ落ちる。


テュエル

「泣いていい。

怯えていい。

弱っていい。」


目を逸らさず、真っ直ぐに。


「でも……逃げるな。

レイラ様を悲しませるくらいなら、

どんな地獄も受け止め…抗え。」


壊れ物を扱うように、震える指でレイラの頬に触れる。


シャガル

「……余は……

レイラと共に在りたい……

離れとうない……」


テュエルは、ほんの少しだけ微笑む。


テュエル

「なら、立て。

……シャガル。」


シャガル

「……あぁ…立つとも……」


そっとレイラを抱き直す。


胸に寄せ、静かに誓う。


シャガル

「命に代えても……

二度と、お前を傷つけぬ。」


その横顔は――

妖の王ではなかった。


ただ――

ひとりの女を、

愛しすぎてしまった

不器用な男の顔だった。


 

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