主の願いに従ったら心が壊れた件
その日、レイラは朝から忙しかった。
東部族長・ヤヒロの父イブキが、直々に謁見を求めているという報せが入ったためだ。
普段の着物では失礼に当たる――と、朝から謁見の準備をしていた。
普段のレイラはというと――
雪女ゆえに暑がりで、薄手の布一枚、裸足で過ごすのが常。
ただし露出は嫌うため、胸元や首筋はできるだけ布で隠す主義。
そして胸の揺れや動きの邪魔になることから、テュエルがレイラのためだけに仕立てた「乳抑え(さらし型コルセット)」を巻いている。
その日も、さらしを軽く巻くところまでを終わらせていた。
そこへ――
レイラ
「テュエル、着付けを頼む……」
呼ばれたテュエルが静かに入室し、レイラの背に回る。
テュエル
「はい、レイラ様。」
指先は慣れすぎていて、布のたるみひとつ許さない完璧な締め具合。
まさに職人――いや、執着に近い。
レイラは胸の前を軽く押さえながら、息を整える。
レイラ
「やっぱりテュエルの締め方が一番動きやすい」
テュエル
「お褒めに預かり光栄です^^」
そして正装の羽織に袖を通し、着付けが八割ほど整ったところで――
シャガル
「……ん? なんだその胸元の妙な“乳抑え”は。」
レイラ
「――ッ!?」
音もなく現れたシャガルに、レイラは思わず肩を揺らす。
(※レイラ、羞恥心はないが“視線の圧”には弱い)
シャガルはずい、と歩み寄り、まるで未知の武具でも見るような目つきでレイラの胸元を覗き込む。
シャガル
「なぜこんな窮屈なものを……?
それにしても……美しい形だ。
隠す意味がわからん。」
レイラは一瞬、どう説明するべきか迷うように沈黙し、それから言葉を選ぶように口を開いた。
レイラ
「……揺れると……動きづらいから……」
シャガル
「ふむ……全く、お前という女は……前にも言ったが、お前が――」
ドゴォォォン!!
シャガルの後頭部に、鉄塊めいた拳が炸裂。
シャガル
「ごふっ!!?」
振り返るまでもなく、ゆらりと影を落とす殺気。
そこに立っていたのは、無音の怒気をまとったテュエル。
レイラの前に一歩出て、シャガルの首根っこを鷲掴む。
テュエル
「……貴様…………
ただいまレイラ様はお召し替え中だ。
どうすればいいか――
……わかるよなぁ……?」
声は静かだが、目はまったく笑っていない。
シャガル
「………………」
無駄に逆らうより、黙る方が賢いと悟る王。
そのままシャガルを引きずりながら、テュエルはレイラに向き直って深く頭を下げる。
テュエル
「大変お騒がせいたしました。失礼いたします。」
そして静かに扉を閉め、シャガルごと場から消えていった。
残されたレイラは胸元を押さえたまま、小さくひとつ息を吐く。
レイラ
「……なんなんだ、全く……」
胸の鼓動は、いつもより少しだけ速かった。
ふと、先日の出来事が脳裏をよぎる。
夕焼けの中で触れられた、あの一瞬の温もり――
レイラは無意識に、そっと自分の額へ触れた。
――――――
そして――謁見の間に通されると、東部族長イブキが深く頭を下げた。
イブキ
「陛下、朝早くから恐れ入ります。」
レイラ
「おはよう、イブキ。そんな固くなるな。
それと――“陛下”とは呼ぶな。
私はまだ王ではない。
ただ代理で座っているだけの、ただの姫だ。」
イブキ
「……失礼いたしました、姫様。
では早速ですが……お話ししてもよろしいでしょうか?」
レイラ
「なんだ、申してみよ。」
イブキは一度息を整え、それから静かに切り出した。
イブキ
「……また、いつ凱帝国、あるいは他国の脅威が迫ってくるか分かりません。
そこで今一度、“双国の兵の長”として……姫様にお願いがございます。」
レイラは顎を引いて頷き、続きを促す。
イブキ
「――テュエル様に。
兵の“剣術指南役”として、お力添えを頂きたいのです。」
レイラのまつげが、わずかに揺れた。
イブキ
「テュエル様の剣技、指導力、精神性……
どれを取っても、兵を鍛えるにこれ以上の適任はおりません。」
褒められたことに、レイラは胸の奥がくすぐったくなる。
(……そうだ。テュエルは、すごいんだ……)
イブキ
「姫様には新たに専属護衛がつきました。
今なら、テュエル様のお時間を少しお借りできるのではないかと。
……もちろん、毎日とは申しません。
週に五度……いえ、数度でも構いません。」
レイラはしばし思案し、外で待機している男を呼んだ。
レイラ
「――テュエル。」
呼ばれた瞬間、扉が開く。
テュエル
「――お呼びでしょうか。」
相変わらず無音で、美しい所作。
レイラはわずかに微笑む。
レイラ
「あぁ……お前に頼みがあって呼んだ。」
テュエルの瞳に、ささやかな喜びが灯る。
テュエル
「頼み……。
レイラ様の願いなら、叶えられることはなんでも致しましょう^^」
心からの言葉。
レイラもそれを知っている。
だが――次の一言は、テュエルにとって残酷だった。
レイラ
「双国の兵を鍛えるため……お前の力を借りたい。
これから定期的に“剣術指南役”として、兵に稽古をつけてやってほしい。」
――その瞬間。
テュエル
「………………」
空気が止まった。
レイラ
「どうした、テュエル?」
テュエル
「“定期的に”とは……どれほどの頻度を……
……いえ…………。
……他の者では、いけませんか……?」
その声はいつもの彼ではなく、どこか弱く、縋るようだった。
レイラは黙って耳を傾ける。
テュエル
「ボクは……レイラ様の専属護衛です。
この任務に穴を開けることは――」
レイラ
「専属護衛なら、もう一人いる。」
その一言が――
ドクン――と
テュエルの胸を、内側から貫いた。
(……あの男だ。)
(本気になった。)
(……そしてレイラ様も……それを認めている。)
(奪われる……?)
(そんな……まさか……)
喉の奥が詰まり、呼吸の仕方すらわからなくなる。
テュエル
「……あ、あいつ一人では……
レイラ様の護衛など務まりません……!
ボクでなければ――」
レイラは静かに、落ち着いた声で遮る。
レイラ
「テュエル。お前も分かっているだろう。
本来、この国は平和だ。
ならばまた何か起こる前に、兵力を上げるべきだ。」
「……そして私も、お前の剣術、指導力、精神力。
どれを取っても、不足ないと考えている。」
テュエル
「!!!!」
(認められた……嬉しい……)
(レイラ様にここまで信頼されているなんて……)
(胸が、破裂しそうなほど……)
――でも。
(……離れる?)
(離される……?)
(そんなの……無理だ。絶対に。)
胸の奥が、じわじわと焼けるように熱くなる。
(あいつとレイラ様が二人きりになる。)
(レイラ様が――“あいつ”に笑いかける。)
(触れるかもしれない。)
(レイラ様が……“俺以外”に、心を開くかもしれない……)
呼吸が荒くなる。背筋がぞくりと震える。
(……ダメだ。)
(絶対に。)
(そんな世界を許せるわけがない。)
(奪われる……?)
(レイラ様を……?)
(俺の……俺のレイラ様を……?)
無意識に拳が震えた。
(嫌だ……嫌だ……嫌だ。)
(“奪われる未来”なんて、想像しただけで吐き気がする。)
(胸が裂けるほど苦しい。)
(……でも……)
レイラの横顔が浮かぶ。
あの揺るぎない瞳、いつも自分を信じてくれる声。
(レイラ様の頼みを……断れるわけがない。)
(レイラ様の願いを否定するなんて……そんなこと……)
(“俺には”できない……)
心の奥で、何かが――ポキリと音を立てた。
テュエル
「……畏まりました。
その頼み……引き受けましょう^^」
葛藤の末に出した答えだった。
微笑む。
だがその笑顔はあまりにも痛々しく、わずかな引きつりを隠しきれない。
イブキは気づかない。
レイラも、まだ分からない。
――この瞬間。
テュエルの胸で、静かに、確実に何かが壊れ始めていた。




