『余は、お前が好きだ』
茨木童子との闘いが終わった翌朝。
レイラがゆっくりと目を開けると、胸の奥がずきりと痛んだ。
「うっ……」
昨日、茨木童子に叩きつけられた棍棒の衝撃が、今も肋骨の奥まで残っている。
すぐ側に、爺が青い顔で腰をかけていた。
その後ろではテュエルも、珍しく眉をひそめている。
爺
「姫さま……!ご無事ですか?!ご気分は……?!」
テュエル
「――レイラ様!動かないでください。
肋骨が折れておりますので……!」
レイラは軽く息を吸い、痛みを堪えながら身を起こす。
レイラ
「……っ……寝てなどいられない。大したことはない。」
テュエル
「レイラ様!!大したことあります!!
“折れている”んです!!」
しかしレイラが気にしているのは痛みではない。
部屋の空気、視線、気配――
そのどれを探っても、ひとりの気配がない。
レイラ
「……シャガルはどうした。」
爺は少し驚き、答える。
爺
「シャガル殿なら……そういえば。
普段なら既に起きて賑やかなはずですがね。
今日はまだ、お姿を見かけませんな。」
レイラ
「……そうか。」
短い返事。それ以上は何も言わない。
だが心の奥で、何か小さな棘がひっかかる。
(……謝罪は済ませたはず。
ならば、なぜ顔を見せない……?)
答えがわからないまま、レイラは痛む体を押し起こす。
レイラ
「皇務くらいはできる。
休んでいる暇はない。」
爺
「姫さま!無理をなさっては……!」
テュエル
「レイラ様!!寝台に戻ってください!!」
レイラ
「……行く。」
その一言で、反対の声は消えた。
結局、爺もテュエルも折れざるを得ない。
――
レイラは皆の心配をよそに執務室へ籠り、痛みを押し殺しながら次々と皇務を片づけていく。
だが心のどこかで、“シャガルの不在”だけが薄く、長く尾を引いていた。
(……なぜ来ない。)
書類の文字を追いながらも、その問いだけがずっと胸に残る。
すべての皇務を捌き終えた頃には、集中の糸が切れ、深い疲労が押し寄せた。
レイラは執務椅子に身を預ける。
レイラ
「……少し……休むか……」
短い仮眠のつもりで目を閉じ――
目を開けた時には、室内が橙に染まっていた。
窓の外いっぱいに広がる、燃えるような夕焼け。
しばらくそれを見つめ、ゆっくりと立ち上がる。
レイラ
「……夕焼け……綺麗だな……」
自然と足が向いたのは、皇族しか使えない静かな庭。
あの夕焼けを、一番よく見渡せる場所。
――ぴくり。
レイラの嗅覚が、シャガルの匂いを捉える。
そして、その奥にほのかに混じる――
「覚悟」と「愛」の気配。
レイラは胸を押さえる。
痛む肋骨の奥に、別の痛みが微かに走った。
――
夕焼けの匂いが混じる風を辿り、レイラは庭の奥の大岩へ向かった。
そこには、橙色の天を仰ぎ腰掛けるシャガルの姿。
レイラが近づくと、シャガルはゆっくりと振り返り、ふっと優しく笑う。
シャガル
「なんだ……ここは余の特等席なのだが。
バレてしまったな。」
レイラ
「……シャガル。」
シャガルは立ち上がり、レイラへゆっくり歩み寄る。
その眼差しは優しさから、静かな真剣さへと変わっていた。
折れた肋骨へと手を伸ばすが、触れぬ距離で止める。
シャガル
「……まだ、痛むようだな。」
レイラ
「すぐ治るさ。」
レイラは一歩踏み出す。
どうしても聞きたかった問いを、口にする。
レイラ
「今日一日、何をしていた?
私は謝罪し、お前も受け入れた。
……なら、なぜ姿を見せなかった。」
その問いに、責める色は一切なかった。
ただ淡々と、事実を確かめるような声だった。
シャガルはしばらく沈黙し――
夕陽に照らされた横顔のまま、静かに言う。
シャガル
「……考えていたんだ。」
「もしもあの時、余がもう少し遅れていたら――」
わずかに、言葉が途切れる。
「茨木童子に、お前が殺されていたら――?」
そこで小さく息を吸う。
シャガル
「……そう考えたら、驚いた。
余は……“怖く”なったのだ。」
「王であるこの余が、恐怖を感じた。
恐怖という感情を知り……
どうしても消化できず、考え続けていた。」
そして、真正面からレイラを見る。
シャガル
「レイラ……余は、お前を失うことが恐ろしい。」
レイラの喉が、ひくりと動く。
シャガル
「お前はあの瞬間、“あの男”の名を呼んだ。」
「今も、お前の心が誰に向いているか……
――余は分かっている。」
「お前がいつも最初に視線を向ける先は、
“あの男”だということも。」
「余が知らぬところで築かれた、
お前たちの“絆”の深さも。」
そこで一度、目を伏せる。
声は静かだが、力は揺るがない。
シャガル
「どれだけ余が強くとも。」
「どれだけの力を持とうとも。」
「……その壁は、壊せぬ。」
そしてまた顔を上げ、はっきりと言う。
シャガル
「レイラ。余は、お前が好きだ。」
「お前を惚れさせてみせると言っただろう。
撤回するつもりはない、その言葉、忘れるな。」
「いつか必ず――
お前の心を奪い、余に惚れさせてみせる。」
「お前が余に惚れるその日まで。」
「余は……いくらでも待ち続ける。」
胸の奥で何かが揺れるのを、
レイラは初めて抑えられなかった。
断ろうとして口を開く――だが。
シャガルはそれを遮るように、静かに笑う。
シャガル
「まったく、人間という生き物は……
なぜこうもせっかちなのだ?」
「余は十年でも、百年でも……
千年でも待てる。」
「――覚悟しておけ。」
そのままレイラの額へ、そっと唇を触れさせた。
温かい、しかし一瞬の口付け。
そして背を向け、夕焼けの中へ歩き出す。
シャガル
「――では、またな、レイラ。」
橙の光に溶けるように、シャガルは去っていった。
レイラはその場に立ち尽くし、
胸の奥の高鳴りを、どうにもできなかった。
――――――――――
夕焼けが夜へ溶け、庭は静かに月明かりへと変わっていく。
レイラから離れたシャガルは、人気のない外れの石道をひとり歩いていた。
胸の奥ではまだ、あの告白の余熱が燻っている。
――そしてふと、昔の記憶が蘇る。
◆ ◆ ◆
それは遥か昔。
シャガルがまだ、今よりずっと尖り、誇り高く、傲慢だった頃。
人間界へ降り、九尾・アインに喧嘩を売りに訪れた日。
その時――シャガルは見た。
アインの隣に、“人間の女”が静かに寄り添っているのを。
酒呑童子
「……九尾のくせに、人間の女などに入れ込むとはな。
情けなくて笑いも出ぬ。妖の名折れだぞ?」
アインは女を背に隠し、いつもの無愛想な顔のまま、酒呑童子を一瞥した。
アイン
「……酒呑童子。
お前にも、いずれわかる日が来る。」
酒呑童子
「何をだ…!」
アイン
「それくらい、自らで考えよ」
その言葉に、当時のシャガルは激怒する。
酒呑童子
「舐めるな!だが、余にそんな日など来ぬ。
妖は妖、人は人。混ぜる必要もない!」
アインはそれ以上何も言わず、人間の女を連れて去っていった。
その仕草が、なぜか今でも瞼に残っている。
◆ ◆ ◆
――そして今。
夜風の中で足を止め、シャガルは空を見上げる。
燃えるほど赤かった夕陽はもうなく、深い夜がゆっくりと広がっている。
シャガル
「……アインよ。」
小さく、誰に聞かせるでもなく呟く。
「余は……
お前の娘を、愛してしまったようだ……。」
その言葉は夜へ溶け、静かな風だけが返事をする。
シャガルはそっと目を伏せ、胸の奥で確かに灯り続ける“恋”の重さを噛み締めた。
そして、かつてアインが見せた表情と、その気持ちを初めて理解できた気がして――
ほんのわずか、微笑んだ。
――――
レイラが戻ってきた瞬間、その表情を見てテュエルは息を呑んだ。
いつもなら淡々としている彼女の顔が、今はどこか違う。
芯の奥が、確かに揺れている。
(……レイラ様……)
朝から頭から離れない。
あの時、シャガルが見せた表情――
レイラを抱き上げ、迷いなく“守る”と決めたあの顔。
その時、テュエルは理解してしまった。
(……あの男も、本気だ。)
(主従でもない。所有でもない。)
(――“奪いに来る”)
そしてその覚悟が、今、確実にレイラに届いている。
胸の奥で、テュエルの血が熱く滾る。
(渡さない。)
(絶対に――あの男に、レイラ様を渡すものか。)
静かに、しかし確実に戦いの火は、再び二人の間で燃え上がっていた。
双国ノ巫女 第二章 〜完〜




