行ってきます、お父さん。
テュエルは床に膝をつき、打ちひしがれている。
「……せっかくの準備が……」
レイラは肩をすくめた。
「…これでも多いくらいだ」
そして立ち上がる。
「まぁいい。これでよし」
――そうして。
妖界への準備は、ひとまず整った。
その日の夕餉は、いつもと変わらなかった。
爺が運んできたのは、
白い飯。
煮魚。
漬物。
汁物。
そしてきんぴら。
見慣れた献立だった。
「姫さま…どうぞ^^」
爺はいつも通りに膳を置く。
特別な言葉も、気遣いもない。
まるで、いつもの夜のように。
レイラはそれを見て、少しだけ胸が緩んだ。
「…爺…ありがとう」
箸を取る。
魚を口に運ぶ。
いつもの味だった。
「うまい」
ぽつりと言うと、爺は静かに頷いた。
「それはよかった!」
それだけだった。
だが、それが妙に安心できた。
誰も、明日のことを騒ぎ立てない。
ただ、いつも通りの時間が流れている。
それが――
レイラにはありがたかった。
夜。
三人はレイラの部屋で休むことになった。
寝台の上で、静かに横になる。
昨日のような騒がしさはない。
レイラが先に言った。
「……今日は」
「何もしないからな」
シャガルが鼻で笑う。
「誰のせいで昨日ああなったと思っておる」
テュエルは苦笑した。
「お体を休めてください、レイラ様」
二人は、ただレイラの両隣に横になる。
静かな夜だった。
窓の外では、優しい風の音が聞こえる。
しばらくして、
レイラの呼吸がゆっくりと落ち着いていった。
――そして。
まだ夜が明ける前。
空がかすかに白み始める頃。
レイラは静かに目を開けた。
窓の外は、まだ暗い。
「……朝だな」
小さく呟く。
隣ではテュエルが目を覚ましていた。
「おはようございます…レイラ様^^」
「…あぁ…おはよう……。……起きるか。」
ゆっくりと起き上がる。
その気配でシャガルも目覚めた。
今日は――
旅立ちの日だった。
三人は静かに身支度を整える。
レイラは、ふと机の端に置かれていた小さな包みに目を留めた。
白い布で丁寧に包まれた、小さな箱。
布をほどくと、中には小さな小瓶がいくつも並んでいた。
指ほどの大きさの硝子瓶。
避妊薬。
シュンが作ってくれたものだった。
レイラは一本、指先で持ち上げる。
「俺が作る」
そう言ってくれた声。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
――一年後…。
小瓶は六つ。
およそ半年分。
それを一つずつ布で包み直し、丁寧に荷の奥へとしまう。
乱暴に扱う気には、到底なれなかった。
それは薬であり、
同時に――
友の想いでもあったからだ。
レイラはゆっくり立ち上がった。
ふと視線を向けると、部屋の奥でシャガルが装束を整えていた。
人間の姿の衣ではない。
妖王――酒呑童子としての、重厚な装束だった。
城の中は、まだ眠っている。
灯りも少ない。
足音だけが、廊下に小さく響いた。
レイラは一度だけ振り返る。
暮らした城。
見慣れた廊下。
見慣れた灯り。
そしてまた前を向いた。
「……行くか」
三人は静かに城の門へ向かう。
夜明け前の空気は、少し冷たかった。
城門の前まで来た時――
「……姫さま」
背後から、声がした。
レイラの足が止まる。
振り返ると、そこに立っていたのは――爺だった。
まるで、いつも通りに朝を迎えに来ただけのような顔で立っている。
レイラは一瞬だけ目を見開いた。
「……起きていたのか」
爺は、静かに笑った。
「姫さまが旅立たれる日でございますぞ」
「寝ていられるほど、図太くはございませんな」
その言葉に、レイラは少しだけ苦笑した。
そして、歩み寄る。
「……爺……世話になった」
短い言葉だった。
けれど爺は、ゆっくり首を振る。
「いいえ、こちらこそ」
「いつでも、帰って来てください。」
「ここが、あなたの家なのですから。」
その言葉に、レイラの喉が詰まる。
何か言おうとした。
けれど――言葉が出ない。
代わりに、レイラは爺に抱きついた。
ぎゅっと。
子供のように。
爺は少しだけ目を細めて、
その背を、静かに撫でた。
「行ってらっしゃい」
「姫さま……」
レイラはしばらくそのまま目を閉じていた。
そして、小さく言った。
「……行って来ます」
ほんの一瞬、言葉を迷う。
それから――
「お父さん」
爺の手が、ぴたりと止まった。
その時だった。
「――レイラ様!!」
若い声が響く。
振り向くと、
城の奥から走ってくる影があった。
少年王――ヤヒロ。
まだ十五の王は、息を切らせながら駆け寄ってくる。
その後ろから、
女官たち。
宦官。
兵たち。
次々と人が現れる。
気付けば――
城門の前には、多くの者が集まっていた。
レイラは呆れつつも嬉しそうに息を吐く。
「……まったく…騒がしい朝だな…。」
ヤヒロは、胸を張った。
「今日は」
「レイラ様を見送る日です」
そして振り返る。
その声は、まだ若いのに――王の声だった。
「皆」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「レイラさま――!!」
「行ってらっしゃいませ!!」
「テュエル様も――シャガル様も――!!」
「どうかご無事で!!」
「また必ず!!」
「いつでも帰って来てください!!」
大きな声が、夜明け前の城に響く。
レイラは面食らったようにしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり歩き出す。
そして一度、振り返る。
爺。
ヤヒロ。
家臣たち。
この城で生きてきた者たち。
レイラは静かに息を吸った。
そして――
「……任せたぞ」
ヤヒロへ言う。
少年王は、強く頷いた。
「はい」
「巫女王様!!」
レイラはもう一度、城を見上げた。
それから前を向く。
シャガル。
テュエル。
二人が静かに並ぶ。
レイラ
「行くぞ」
三人は門をくぐる。
空は、少しずつ明るくなり始めていた。
――――――
城門を出た三人は、そのまま山道を下り始めた。
まだ夜明け前の山道は静かで、空気は冷たい。
レイラは振り返らなかった。
ただ、前を向いて歩く。
シャガルが隣を歩き、
その後ろを――テュエルがついてくる。
そして。
シャガルは、ふと眉をひそめた。
「……猿」
テュエル
「はい」
「その荷物」
シャガルは低く言った。
「……昨日より増えていないか」
一瞬の沈黙。
レイラも振り返る。
確かに。
昨日、あれだけ捨てたはずなのに――
なぜか荷はまた膨らんでいる。
レイラ
「……テュエル」
静かな声だった。
テュエルは目を逸らす。
「き、気のせいです……^^」
「減らしました」
「確かに減らしました」
「ただ」
「最低限の物資を、少し追加しただけで」
レイラ
「最低限?」
「はい」
レイラは荷を一瞥する。
明らかに、最低限ではない。
シャガルが呆れたように言った。
「……愚か者め」
テュエルは小さく反論する。
「備えあれば憂いなしです」
レイラはため息をついた。
「……もういい」
「それ以上……増やすな」
「はい!かしこまりました^^」
元気な返事だった。
だが――
誰も信用していない。
三人はそのまま山道を下っていく。
やがて。
レイラが足を止めた。
「……ここでいいだろう」
そこは山道から少し外れた森だった。
茂みの奥。
人の目に触れない場所。
レイラはゆっくりと前へ出る。
そして――
空間へ手をかざした。
巫女の力が、静かに広がる。
目に見えないはずの境界が、
ゆらり、と揺れた。
空気が歪む。
まるで、水面のように。
そこに――
裂け目が浮かび上がる。
人間界と妖界を繋ぐ、
歪み。
シャガルはそれを見つめる。
懐かしいような、
遠いものを見る目で。
そして――
レイラを見る。
「……レイラ」
声は低かった。
「本当に……大丈夫か」
レイラは振り返る。
その顔は、静かだった。
迷いはない。
「……今さらだな?」
そう言って、少し笑う。
「お前がいる」
「テュエルもいる」
「それで十分だ」
そして、少しだけ目を細めた。
「……守ってくれるのだろう?」
シャガルは一瞬、言葉を失う。
やがて小さく息を吐いた。
「……無論だ」
「絶対に、誰にも触れさせぬ」
テュエルも迷いなく告げる。
「もちろんです」
「そのために、俺は存在しています」
レイラはくすりと笑い、
再び歪みに向き直った。
ゆらめく境界。
その向こうは――妖界。
レイラは一歩踏み出す。
「行こう」
三人は、同時に歪みへ足を踏み入れた。
――――――
三人の姿は、ゆらめく歪みの中へ静かに消えた。
そして――山には、再び朝の静寂だけが残った。
【人間界編 ―完―】
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!
「双国ノ巫女」は、ここから少しの間、更新をお休みします。
これからは、物語を最後まで書き切ることに集中したいと思います。
更新を再開するときは、Xでお知らせしますので、よかったら覗きに来てください!
https://x.com/su_ray_shaga_el?s=11
そして、カクヨムとエブリスタでも活動しています!
◾️カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/2912051596643803918
◾️エブリスタ
https://estar.jp/novels/26573833
エブリスタでは挿絵付きで掲載しているので、イラストと一緒に物語を楽しめます。
「アニメを観ているような感覚」で楽しんでもらえたら嬉しいです!
それぞれ少しずつ楽しみ方が違うので、よかったら遊びに来てください!
それでは――
また更新を再開するときに、お会いしましょう!




