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氷の墓標


気がつけば、長い沈黙が続いていた。


前に座るレイラ様の髪が、風に揺れている。


テュエルは、ふっと目を細めた。


――もうすぐ、あの人の墓だ。


レイラ

「……テュエル?」

「……どうした? 随分と静かだな?」


テュエルは、前に座り振り返るレイラへ目を向ける。

いや――吸い寄せられる、という方が正しい。


テュエル

(レイラ様……)

(本当に……表情豊かになられたな……かわいい……♡)


テュエルは、十一歳の頃の記憶の中のレイラと、今のレイラを比べていた。


(あぁ……♡)

(しかも……今では俺の“奥さん”)


(やばい……)


思わず、後ろからレイラの背中へ抱きつく。


レイラ

「!? テュ、テュエル?」


少し照れるレイラ。


テュエル

「すみません……レイラ様……♡」

「禁足地が近くなってきたからか……少し目眩が……」(嘘)


その瞬間――


ゴツン。


テュエルの後頭部へ、松ぼっくりが当たる。


テュエル

「いて」


シャガルだった。


「おい、虚言猿……」

「貴様……そうやってくだらん嘘をつくなら馬から引きずり下ろすぞ」


「――レイラとの二人乗りを譲れ」


テュエル

「何を言ってるんです」

「お前にレイラ様と二人乗りさせたら、馬が暴れてレイラ様が怪我をする。黙ってろ」


シャガル

「ふざけるな。騎乗術はもう心得た」

「貴様に負けるものか」


テュエル

「いいですよ? 馬で勝負しますか?」


口角が、にやりと上がる。


レイラ

「…………もう着くぞ」


もはや「うるさい」と言うことすらなくなったレイラ。

完全に呆れている。


――――――――


リュウコ北の禁足地 ― 墓前


滝の音が、低く響く。


水煙が白く漂い、冷たい霧となって辺りを覆っていた。

岩肌を伝う水は陽の光を受けて淡く光り、

この場所だけが現実から切り離されているように、静まり返っている。


岩に守られるようにして、

二つの氷塊が並んでいた。


名が刻まれることのない墓標。


母――ミコト。

父――ダイン。


レイラは、ゆっくりと歩み寄る。


その足取りに迷いはない。

この地に拒まれる気配など、まるで感じていないかのように。


巫女の力を持つ彼女だけが、

この神域の空気と自然に調和していた。


テュエルとシャガルは、少し後ろで足を止める。


霊気が濃い。


息を吸うたび、胸の奥がざらつく。

力が削がれていく感覚。


シャガルが顔をしかめた。


「……相変わらず、嫌な場所よ」


皮膚の奥が、じわりと焼けるようだ。


「余がここに長居したら、

 本当に浄化されて消えそうだな」


冗談めかして言うが、笑ってはいない。


テュエルも静かに頷く。


「ええ……」

「ですが、妖でありながら、陛下はここへ毎週通っていたんですよね」


シャガルが鼻で笑った。


「ふん……何を考えているかわからん男だ」


だが、その声には

わずかな理解も混じっていた。


シャガル

(愛……というやつだろうな)

(愛する者を先に亡くす……)

(………………考えたくもない)


一瞬でもレイラを失う想像をしてしまい、

シャガルは背筋が冷える。


テュエルは何も言わない。


ただ、墓前に立つレイラの背を見ていた。


レイラは、墓標の前に膝をつく。


「……母上」


その声は、どこか柔らかい。


雪女ミコト。

レイラを産み落としてすぐに亡くなった母。

だからレイラは、ミコトの顔すら知らない。

抱きしめてもらった記憶もない。


レイラは花を置く。


「お久しぶりです……」


ふっと、苦笑する。


「本当は、もっと来たかったのですが……」

「妖からの襲来などがあり……」


一月の昏睡。

回復訓練。

ここへ来るまでに、さらに一月を要した。


少しだけ沈黙が落ちる。


「母上の力を……私も使えるようになりました」


ミコトから受け継いだ巫女の力。

その力で歪んだ結界を修復し、

妖界との境界は今も守られている。


滝の音だけが、流れ続けていた。


レイラは、次に隣の墓標へと目を向けた。


父――


ダイン。


しばらく、何も言わない。


風が静かに髪を揺らした。


そして――


「……父上」


ぽつりと落とす。


「私……妖界へ行ってきます」


その言葉は静かだった。


決意でも、宣言でもない。

ただ、事実を伝える声。


(たぶん……怒るだろうな)


レイラは、少しだけ笑った。


「でも……」


ちらりと後ろを見る。


少し離れた場所に、テュエルとシャガルが立っている。


レイラは再び墓へ視線を戻した。


「一人では行きません……」


「テュエルと、シャガルと共に……」


その言葉には、迷いがない。


確かな確信があった。


「だから……大丈夫です」


そっと手を伸ばし、氷の墓標に触れる。


冷たい氷塊。


けれど――

嫌な冷たさではない。


「……見ていてください」


「……行ってきます」


(あなたの……生まれた地へ……)


静かな風が吹く。


その瞬間、冷気がふっと揺れた。


テュエルは、その様子を見つめながら胸の奥で思う。


(ダイン陛下……)


(あなたの娘は……)


(もう、あの頃の“氷の姫”ではありません)


そっと拳を握る。


(でも、安心してください)


(今度こそ――)


(俺が守ります)


レイラはゆっくりと立ち上がる。


振り返った時には、もういつもの表情に戻っていた。


「……待たせたな」


シャガルが肩を回す。


「よし、帰るか。余はもう限界だ」


「身体の中が浄化されそうで気味が悪い」


テュエルが小さく笑う。


「やっぱり慣れないですね」


「……当たり前だ」


シャガルは鼻を鳴らした。


レイラは、ふっと目を細める。


「じゃあ……行こう」


三人は踵を返した。


シャガルは歩きながら、ほんの一瞬だけ振り返る。


ダインの氷の墓標を見た。


(アインよ……)


(お前の娘は……)


(余が守る)


(必ずな……)


――――


三人は、馬を繋いでいた場所へ戻る。


レイラは、馬の鞍に括りつけていた鞄を開き――

中から二本の木刀を取り出した。


そして振り返る。


「帰る前に……一つ頼みがある」


にやりと笑う。


「今の私が妖界で、どれほど通用するのか知りたい」


「それに、やはり兵との稽古だけでは……物足りない」


人間界最強と、妖界最強。

その二人に相手をしてほしい――


そんな、あまりにも真っ直ぐな願いだった。


レイラはテュエルをまっすぐ見る。


「テュエル。手合わせしてくれ」


その言葉を聞いた瞬間、テュエルの顔色が変わった。


(手合わせ……)


シャガルは喉を鳴らす。


「……ほぅ」


興味深そうに、目を細めた。


テュエルの脳裏に、昔の記憶がよぎる。


レイラと初めて出会った時のこと。


レイラが六歳。

テュエルが十二の時だった。


あの時――

テュエルは、幼いレイラに打ち負かされた。


だが、その記憶は不思議と嫌なものではない。


むしろ胸が温かくなる。


初恋の記憶。


けれど――


もう一つの記憶も、同時に蘇る。


手合わせそのものは、温かい思い出だった。


だが、その後に続いた地下牢での生活を思えば、

どうしても苦い記憶になってしまう。


二つの記憶が胸の奥でぶつかり合う。


テュエル

「……ぁ……いえ……」


煮え切らない返事。


レイラは、ふぅ……と小さくため息をつき、目を閉じた。


その瞬間――


ふわり、と空気が揺れる。


足元から淡い光が立ち上り、レイラの身体を包み込んだ。


九本の、光を帯びた尾が顕現し、

レイラの瞳は獣のような縦の紋へと変わる。


レイラは“九尾”の異形へと変貌した。


テュエルは、その姿を間近で見て思わず息を呑む。


(……美しい……)


レイラは静かに言う。


「…テュエル。この姿なら…どうだ」


「…私を妖だと思えば、少しは剣を振れるだろう?」


そう言って、木刀をテュエルへ投げた。


――だが。


木刀はテュエルの腕をすり抜け、


そのまま地面に落ちた。


レイラ

「!」


テュエルは目を伏せる。


「……すみません」


「レイラ様……いくらレイラ様の頼みでも……」


「やはりボクは……レイラ様に剣を向けることはできません」


レイラ

「…………」


(いつもこうだ……)


(テュエルにお願いしても、聞き入れてくれない)


(昔は……一度だけしてくれたこと、あった気がするのに……)


猿魔として剣を交えた時でさえ、

テュエルには殺気がなかった。


手を抜いていることも、わかっていた。


(私も……テュエルの本気を見てみたかったのに……)


レイラは、はぁ……とため息をつく。


「じゃあ……シャガル」


「頼めないか?」


シャガルは口元を歪める。


「ふ……いいだろう」


「余は間違ってもお前を傷つけたりはせぬ」


「猿と違ってな。そんな手違いは起こさぬ」


「安心せよ」


テュエル

「…………」


不満とも、嫉妬ともつかない感情で俯く。


「怪我をさせたら、許しません」


シャガルは鼻で笑う。


「お前と一緒にするな」


レイラは眉をひそめた。


「おい。手加減したら意味がないだろう」


シャガルは少し黙る。


そして低く言った。


「……レイラ」


「お前、余に本気で打ち込めと言うのか?」


「愚か者め」


「そんなこと……できるわけがないだろう」


レイラは少しムッとして言う。


「じゃあ……真剣でやるというのは?」


テュエルが目を見開く。


「っ、レイラ様!!」


シャガルは首を振る。


「……レイラ、諦めろ」


レイラ

「……でも……それじゃぁ……」


九尾の耳と尻尾が、しゅんと下がる。


露骨に残念そうだった。


シャガルは、しばらく黙る。


そして、小さく息を吐いた。


「……反撃はしない」


「受けるだけだ」


「だが、お前の全力は受けてやる」


「それで我慢しろ」


レイラは納得しきれない顔をしながらも、

先ほど落ちた木刀を拾う。


それをシャガルへ差し出した。


そして、ふと思い出したように聞く。


「妖力は?」


シャガルは答える。


「王羅(オーラ)だけだ」


と言うと木刀を受け取る。


「……お前の消耗の方が気になってしまう」


レイラは大きくため息をつく。


(ほんと……過保護な奴らだ…)


それから、ゆっくりと間合いを取る。


九尾の尾が静かに揺れた。


「私は……全力で行くからな」


シャガルは木刀を構える。


「ふ……」


「見てやろう」


静かな空気が張り詰める。


テュエルは二人を見つめたまま動かない。


そして――


レイラとシャガルは、同時に構えた。


――――――


レイラは間合いを取る。


九尾の尾が静かに揺れる。


テュエルは、無意識に息を止めていた。


その時――


風が、止まった。


一瞬、世界が静まり返る。


レイラの周囲だけ、空気が張り詰める。


次の瞬間。


九尾の尾がふわりと広がり、淡い妖気が草原を撫でた。


それは九尾の固有オーラ――

【疾風】


風が集まり、流れ、レイラの身体を包み込む。


五感が研ぎ澄まされる。


世界の輪郭が、鮮明になる。


テュエルが息を呑む。


(……何度見ても)


(綺麗だ……)


妖でありながら、どこか神々しい姿。


だが同時に――


恐ろしいほどの殺気が宿っていた。


シャガルが肩を回す。


「本気で来い、レイラ」


レイラは木刀を構える。


尾が静かに揺れた。


「……行くぞ」


その瞬間。


地面が、鳴った。


――消えた。


テュエルの視界から、レイラの姿が消える。


次の瞬間――


ガッ!!


木刀と木刀がぶつかる音が弾けた。


風圧が草をなぎ倒す。


シャガルが低く笑う。


「さすがだ」


「速いな」


レイラの尾が揺れる。


そのまま踏み込み――


一瞬で間合いが潰れる。


横薙ぎ。


空気が裂ける。


だがシャガルは――


半歩。


ほんの半歩、体をずらすだけでかわした。


「だが――甘い」


レイラの身体が流れる。


そのまま舞うように回転。


尾が地面を叩き、身体を跳ね上げる。


背後からの斬撃。


居合のような一閃。


斬られた感覚すら残らないほどの速さ。


――ドンッ!!


シャガルが腕で受ける。


衝撃で地面が沈んだ。


風が爆ぜる。


テュエルの背中に冷たい汗が流れた。


(……おーい)


(この二人……)


(オーラだけ、ってレベルの戦いじゃねぇぞ……)


レイラの尾が揺れる。


次の瞬間には、また消える。


残像だけが残る。


斜め。


下段。


上段。


舞うように斬撃が流れる。


しなやかな動き。


風のような踏み込み。


流麗な剣術。


見ているだけで目を奪われる。


だが――


シャガルは動かない。


ただ、その場に立ったまま。


時折腕で受け、

時折木刀で流す。


それだけ。


それだけなのに――


一撃も通らない。


シャガルが低く笑う。


「……なるほどな」


「その速さ――」


レイラがさらに踏み込む。


疾風が弾ける。


九尾が広がり、風が渦巻く。


居合。


一瞬の静止。


次の瞬間――


見えない斬撃。


シャガルの木刀がそれを受け止めた。


ガンッ!!


衝撃が弾ける。


地面がひび割れる。


シャガルの目が細くなる。


「アインに劣らぬ」


一瞬。


レイラの動きが止まった。


ほんの刹那。


それでも、すぐに踏み込み直す。


だがテュエルの胸は大きく揺れた。


(……やっぱりだ)


(あの動き……)


(あの間合いの潰し方……)


脳裏に蘇る。


地下室。


拳。


砕ける骨。


血の味。


(……ダイン陛下と同じだ)


レイラが回り込む。


背後からの斬撃。


シャガルが腕で受け、低く唸る。


「ふっ……」


「血は争えぬな」


レイラが距離を取る。


呼吸は乱れていない。


だが瞳は、どこか静かに揺れていた。


「……父上は」


小さく呟く。


「もっと……強い」


シャガルは笑う。


「当たり前だ」


「奴は怪物だ」


木刀を軽く振る。


「だがな」


「今のお前の速さは」


「確かに奴の血だ」


風が草原を渡る。


テュエルはレイラの横顔を見ていた。


(レイラ様は……)


(あの人を嫌っているわけじゃない)


(ただ――)


(分からなかっただけだ)


脳裏に浮かぶ。


地下室。

殴られた夜。


そして最後の言葉。


――娘に傷をつけるな。


テュエルは小さく息を吐く。


(……本当に)


(不器用な男だよ)


風が九尾の尾を、ゆっくりと撫でる――


その時。


レイラの眉が、わずかに動いた。


シャガルは、まだ余裕の表情だった。


呼吸も乱れていない。


まるで散歩でもしているような顔。


その瞬間。


レイラの口から小さく音が漏れた。


「……ちっ」


次の瞬間――


消えた。


疾風が爆ぜる。


「……っ!」


テュエルの視界から、再びレイラの姿が消える。


タンッ!!


今までで最も速い踏み込み。


地面が鳴る。


木刀が唸った。


空気を裂く鋭い風切り音が草原に走る。


シャガルの横を斬り裂く軌道。


だが――


シャガルは笑った。


「……ほう」


そのまま木刀を振り上げ、受ける。


ガンッ!!


衝撃が弾けた。


草が大きく揺れる。


しかしレイラは止まらない。


回転。


下段。


上段。


突き。


居合。


疾風の残像が幾重にも走る。


「はっ!!」


今までよりも重い一撃。


シャガルの木刀がそれを受け止める。


――ミシッ。


木が軋む音。


次の瞬間。


バキッ!!


木刀が折れた。


弾けた破片が空中へ散る。


鋭い木片が――


一直線にレイラの頬へ飛ぶ。


「!」


その瞬間。


パシッ。


空中でそれを掴む手。


テュエルだった。


静かな声が落ちる。


「はい、そこまでです」


空気が止まる。


テュエルは折れた木刀の破片を握ったまま、二人を見る。


「シャガル」


淡々とした声。


「受けるだけでも、怪我はあり得る」


「……今、怪我するところでした」


シャガルは少しだけ視線を逸らし、バツが悪そうに俯く。


テュエルはレイラへ向く。


「レイラ様」


「もう十分でしょう」


「手合わせはここまでです」


レイラ

「…………」


シャガルは肩をすくめる。


「……ふん」


「過保護な猿め」


レイラは少し不満そうに木刀を下ろした。


「……まだ、やりたかったのに」


テュエルは肩をすくめて苦笑する。


(まったく……)


(レイラ様、あなたは……昔も今も変わりませんね)


そしてふと視線を落とす。


「レイラ様」


「手に……豆、できちゃいますよ?」


レイラの指がわずかに止まる。


(豆……?)


胸の奥で何かが引っかかった。


(……なんだ)


(この感覚)


思い出しかけている。

だが、あと一歩のところで形にならなかった。


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