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豆ひとつの代償


あれは……俺がレイラ様の護衛になって、まだ三ヶ月も経っていない頃だった。

レイラ様は十一歳、俺は十七。

当然、今より距離もあって、少し近づきすぎただけで関係が壊れそうな、そんな気配すらあった。


⸻


あの日、レイラ様は資料室の窓から、兵たちの稽古をじっと見つめていた。

その横顔が珍しく熱を帯びていた気がして、つい声をかけた。


「……? レイラ様、剣術に興味が?」


肩がぴくりと揺れた。

返事は遅れて、ぽつりと。


「……別に」


それだけ。


けれどどこか後ろ髪を引かれるような、言葉にならない表情だった。


「え……そうなのですか? レイラ様、俺と手合わせしたことがあるの、お覚えですか?」


あの時の衝撃は今でも忘れない。

見た目は完全に初心者なのに、俺は見事に吹き飛ばされた。


「本当に衝撃だったんですよ。レイラ様の才能には目を見張るものがあります」


そう言った瞬間、レイラ様の瞳がかすかに揺れた。


「……そ、そうなのか……? 習ったことは……ない。

 父上に……してはいけないと……言われてる」


「なぜですか?」


レイラ様は答えなかった。

唇を噛んで、ぷいと横を向いた。


興味はある。

けれど、父に止められている。

その矛盾に、胸が少し痛んだ。


【……少しくらいなら……

 怒られるとしても、俺のせいにすればいい……】


そんな想いが胸の奥でふっと漏れた。


だから俺は――言った。


「……レイラ様。ボクと、チャンバラごっこ……してみますか?」


レイラ様の肩がびくりと跳ねる。


「……っ……でも……」


ためらった、その一瞬のあと。

次に俺を見ると、レイラ様の瞳がかすかに光った。


(当時は知らなかったが……

 今思えば、この時すでに“巫女の目”で俺の気持ちを拾ったんだろう。

 レイラ様が妖だということも、もちろん知らなかった。

 全部、後になってから気づいたことだ。)


【大丈夫】

【遊びましょう】

【絶対に怪我させない】


そんな俺の心が、そのまま流れ込んだのだろう。

レイラ様の睫毛が震えた。


「……い……いいのか……?」


「はい^^ レイラ様の頼みとあれば、俺はできる限り叶えます」


するとレイラ様は、小さな声で。


「……やりたい……」


聞こえないふりなんてできるわけがなかった。


「……はい^^ 仰せのままに」


⸻


こうして俺たちは、人目を避け、西の草原の“秘密の場所”で木刀を振った。

レイラ様は……本当に楽しそうで、輝いていて。

元々綺麗な瞳が、さらに光を増していた。


日暮れが迫って俺が帰ろうと言っても、珍しく首を振った。


「まだ……やりたい……」


仕方なく強制的に切り上げたが、本当に名残惜しそうだった。


帰り道。

二人乗りの馬上でレイラ様は右手を気にしていた。

木刀を握りすぎてできた、小さな豆。


「……すみません。ボクがもっと早く気づけば……。

 帰ったら手当てします」


「……痛くない。

 ……もっと、やりたかったのに……」


その一言が、なぜか胸に刺さった。


「次は豆できないようにしましょうね^^」


レイラ様は小さく鼻を鳴らした。


城に戻り、湯浴みの後にそっと手当てしようとしたが――


「父上にバレたら嫌だから、そのままでいい」


と言われた。

だが俺に、**“なにもしない”**という選択肢はなかった。

せめて傷が悪化しないよう、薬だけは塗った。


⸻そして夕餉。


レイラ様の背後に控えていると、途中で陛下の冷たい視線を感じた。


(……ん? 今、睨まれた……?)

(……まあ、いつも通りか……)


俺は陛下が嫌いだったし、陛下も俺を嫌っていた。

会話は成り立たない、何を考えてるか分からない、

レイラ様に愛情を向けない最低な男だと本気で思っていた。


“氷の姫”がレイラ様なら――

ダイン陛下は“岩”だ、と。


⸻


食事後、レイラ様を部屋へ送り届ける。


「おやすみなさいませ。良い夢を、また明日^^」


レイラ様はふっと小さく答えた。


「……あぁ……」


その返事だけで嬉しかった。

あの頃の俺は単純だった。


……いや、今もだ。

今も同じ言葉をもらえたら、きっと同じように嬉しい。


⸻


夜警に戻ろうとした時、背後から声がした。

爺殿だった。


「おぉテュエル殿! 陛下がお呼びです。北宮の地下室だそうだ」


「……地下室? なんの御用でしょうか。ボク、ですか?」


「さぁな! あやつの考えることなど分からん!

 待たせて拗ねられても面倒だ! 早く行ったほうがいい!w」


(……王を“拗ねる”扱いか……)


ため息をつきながら北宮へ向かう。


(一体陛下が俺に何の用だ……)

(心当たりがまるでない……)

(こんなことするくらいなら、レイラ様の部屋の外の空気でも吸ってる方がよっぽど有意義だっての……)


ケッ、と心の中で舌打ちしながら階段を降りた。

冷えた空気と湿った石の匂いだけが、胸に絡みつく。


⸻


ガチャ……


重い金属の音が、湿った空気を震わせた。


地下室の扉を開けた瞬間――


テュエル

「お待たせしました、ダイン陛下。

 ボクに何のごよ――」


言い終える暇はなかった。


ドッッ!!


「……ッごはっ!!」


腹に。

正拳。

“入った”という感覚すらなかった。


ただ、肺の中の空気が全部破裂し、

視界が跳ね、身体が宙を舞い――


背後の樽・棚に叩きつけられ、

木片が雨のように降り注ぐ。


「……っ、が……っ……!」


(……な、ん……だ……?

 いま、何が……)


痛みよりも先に、理解が完全に遅れた。


テュエル

「陛下、なにを――」


その言葉が形になるより速く、


バキィッ!!


裏拳が顎に深くめり込む。

首が勝手に後ろへ折れ、視界がサッと白く塗りつぶされる。


世界がひっくり返り、足元が消え、

耳鳴りだけが残る。


床に手をつく。

腕が震える。

呼吸ができない。

視界が波打つ。


(……おかしい……これは……

 拳の“重さ”じゃねぇ……)


(……速さも……読めねぇ……

 こいつ……なんなんだよ……)


怒りが込み上げ、

反射で反撃を考えた瞬間――


ゴッ!

ドガッ!

メキィッ!


腹。

鳩尾。

肋。

肩。

顔面。

後頭部。


もう、どこから殴られているのか分からない。


目で追えない。

気配が拾えない。

質量が異常すぎる。


(……やっ……べ……

 意識……飛ぶ……)


殴られ、転がされ、蹴り上げられ、

壁に埋まり、床を滑り、また引きずり起こされる。


身体のどこが痛いのかすら分からない。

全部が痛くて、全部が壊れている気がした。


口に広がる血の味だけが、やけに鮮明だった。


⸻


恐怖。

という感情すら浮上しなかった。


それ以前の問題だった。


(……これ……人間じゃ…ねぇ……)


(……バケモンだ……)


(レイラ様の……父?

 ありえるかよ……ふざけんな……)


拳が触れた場所は全部“砕ける”。

蹴りが当たるたび、地面ごと沈む。


“質” が違う。

力そのものが、別の生き物だ。


(……勝て……ねぇ……)


(……殺される……)


そう思った時だった。


目の前で、ダインの拳がピタリと止まった。


テュエルはもう立てなかった。

膝の上で崩れ落ち、血を吐き、

呼吸もできず、ただ見上げるしかない。


その彼を見下ろし、ダインは――

まるで壁が喋っているかのような、

無色で、冷えきった声で言った。


⸻


「……娘に傷をつけるな」


⸻


(……は……?)


(今……なんて……言った……?)


はっとして、思い当たる。


(……豆……のこと……か?)


それだけで?

この有様に?


理解不能。

ふざけてるのか。

ほんとに意味がわからない。


そのまま意識が、ずぶずぶ沈んだ。


―――


テュエルはその後、地下の床に転がされたまま、

一週間、閉じ込められた。


医者も呼ばれない。

治療も許されない。

誰も来ない。



――――――


夜――

爺は確かにテュエルへ伝えた。


「陛下がお呼びです」


そしてそれが――

あの若造を見た最後だった。


―――――


翌日。


さらにその次の日。


城の中で、あの騒がしい声が一度も聞こえない。


「レイラ様ーー!!」

「今日もお美しいですねーー!!」


あの賑やかな声が。


不思議と、聞こえない。


―――――


昼過ぎ。


廊下で、ふと声がした。


「……爺」


振り向くと、レイラだった。


爺

「おぉ!姫さま、どうかされましたかな?」


レイラは一瞬、言葉を探す。


ほんの僅かに視線が揺れた。


「……あいつ……」


そこで言葉が止まる。


爺は黙って待つ。


レイラはすぐに顔を戻した。


「……いや」


「なんでもない」


そう言って歩き去ろうとする。


爺は少しだけ目を細めた。


(……あの若造)


そういえば。


あの夜――

陛下に呼ばれて向かったきりだ。


それきり、一度も顔を見ていない。


爺は小さく息を吐いた。


「……まさか」


胸の奥に、嫌な予感が落ちる。


城の空気が、妙に重い。


違和感を辿るように

そのまま地下の石段へ足を向けた。


―――――


地下牢の石段を降りると、

湿った空気と血の匂いが混ざっていた。


爺は足を止めた。


「……これは……」


鉄格子の奥。


石床に座り込んだままの影が、ゆっくり顔を上げた。


テュエルだった。


顔は腫れ、唇は裂け、片目はほとんど開いていない。


それでも、爺を見ると小さく笑った。


「……あぁ……爺殿……」


爺の表情が、わずかに険しくなる。


「……何をされた……」


テュエルは苦笑した。


「……まぁ……少し……」


爺は少し黙り、やがて言った。


「……少し、待っていなさい」


そう言って石段を上がっていく。


しばらくして。


再び足音が降りてきた。


布に包んだ握り飯を、鉄格子の隙間から差し入れる。


「食べなさい」


テュエルの腹が、ぐう、と小さく鳴る。


「……助かります……」


震える手で握り飯を受け取る。


少し食べてから、テュエルは小さく言った。


「……爺殿」


「……なにかな?」


「……このこと……レイラ様には……」


爺は即答した。


「言わんよ」


テュエルが安心したように息を吐く。


「……ありがとうございます」


少し沈黙が落ちる。


そして爺は、静かに言った。


「……ですが…それはなぜかな?」


テュエルは少し考え、笑った。


「……レイラ様は……きっと……自分のせいだって思うでしょうから」


沈黙。


爺は小さく息を吐き、苦笑した。


「……本当に、面倒な親子ですな」


そう言って、石段を上がっていく。


その背中にテュエルが言う。


「……爺殿」


「はい?」


「……ありがとう……ございます……」


爺は振り返らずに、ふっと笑った。


「……また来ますよ」


――――


それ以降――

爺殿は、何も言わなかった。


ただ時々、地下へ降りてきては

握り飯を置いていく。


説教もしない。

事情も聞かない。

慰めもしない。


ただ――


「食べなさい」


それだけだった。


城の中で、爺殿に逆らう者はいない。

位を持たぬのに、誰よりも重い存在だ。


もちろん俺もだ。


逆らう気なんて、最初からない。


……だが、この一件で、

俺は改めて思い知った。


あの人は――


この城で、

レイラ様の次に、

俺を生かしてくれる人だと。


あの地下で、

それは十分すぎる救いだった。


―――――


“なぜ殺されなかったのか”――

それを七日間、血の味を舐めながら考え続けた。


七日目。

ようやく一つだけ分かった。


――あいつの本気を、俺は一度も見ていない。


あれはほんの“始めの一撃”で、

まだ殺すつもりも、戦うつもりもなかった。


ただの躾。

ただの確認。

ただの――牽制。


そして同時に、もう一つ分かった。


あいつは死ぬほど不器用で、

死ぬほど口下手で、

死ぬほど愛の向け方を知らない男だ。


豆一つでこれ。


(……バカかよ……)


レイラ様は全く気づいておられなかったが、

気づけるわけがない。


あんな態度じゃ、

誰にも伝わらない。


(……少しは……

父親らしく優しくしてやれよ……クソ岩が……)


痛みは、もう慣れていた。

骨がどうなっているのかも、よく分からない。


天井を見上げる。


(……勝てない)


(あれは……なんだ)


あの男の強さの理由を考えた。


拳の重さ。

速さ。

気配。


だが、何一つ理解できなかった。


(もし……)


その時、ふと浮かんだ。


(もし、あいつが)


(レイラ様に……本気で拳を向けたら……)


――脳裏に、ある光景がよぎる。


子供達を攫っていた賊を片付けたあと、

馬の音と共に現れた、あの人の姿。


そして――


レイラ様が謝罪を口にした、次の瞬間。


乾いた音が響いた。


――バチン。


レイラ様の頬を打った、あの一撃。


俺の頭の中が、一瞬で真っ白になった。


(……てめぇ……)


あの時、俺は本気で

陛下を殴り返す寸前だった。


だが――


次の瞬間。


あの人は、レイラ様を

強く抱きしめた。


『心配……かけさせるな……』


『ミコトだけではなく……お前も失いたくはない……』


震えていた。


あの男の声が。


あの、岩みたいな男の声が。


(……なんだよ……それ)


ただの叱責なんかじゃない。


怒りでもない。


あれは――


恐怖だ。


娘を失うかもしれないと

本気で思った男の顔だった。


(……本当に…バカかよ……)


(そんな顔……見せるくらいなら……)


(最初から優しくしとけよ……)


だが。


あの時、確かに分かった。


あの人は――


レイラ様を、誰よりも愛している。


ただ。


死ぬほど不器用なだけだ。


……帰りが遅ければビンタ。

豆一つでこの有様。


(……極端すぎるだろ……あの岩……)


だがそれでも――


(あの人の手が……)


(レイラ様に触れた)


胸の奥が、ぎり、と軋む。


(俺は……)


(何もできない)


その瞬間だった。


胸の奥で――


なにかが燃えた。


熱い。


だが、痛みとは違う。


腹の奥から、背骨を伝い、腕へ流れる。


(……なんだ……これ)


手を見る。


ぼんやりと。


指先の空気が――


揺れていた。


火ではない。

だが確かに、熱を持っている。


(……力……?)


初めてだった。


自分の体の奥に、

こんなものが眠っていたなんて。


テュエルは静かに拳を握る。


(……まだ、足りない)


(こんなものじゃ……)


(あいつには……届かない)


炎は小さかった。


だが確かに――


この日、初めて俺にオーラが生まれた。


そう――


皮肉な話だが。


俺がオーラを発現したのは、あの地下牢だった。


陛下に叩き伏せられ、石の床に転がされ、

何度も何度も立たされては、また叩き落とされた。


骨が軋み、血が滲み、意識が飛びかけても、

あの人は一切、手を緩めなかった。


そして、そのまま地下へ放り込まれた。


一週間。

光もろくに差さない石牢。


……だが。


あの時だ。


身体の奥で、何かが燃えた。


怒りでも、憎しみでもない。

もっと原始的な――命の底から湧き上がる熱。


――炎。


皮肉な話だ。


俺のオーラが生まれたのは、

あの地下牢だった。


つまり。


俺を壊したのも陛下なら、

俺を強くしたのも――あの人だ。


思い返せば、

それだけではない。


「私の生き血を飲め」


そう言って、

長い時間レイラ様の傍にいられるよう、

俺に長寿を与えた。


結果として――


俺があの人から受け取ったものは、


オーラ発現のきっかけ。


長寿。


そして――


俺が勝手に奪った力。


……もっと力が欲しい。


そんな浅い考えで、

俺はあの人の心臓を喰った。


だが――


まだ完全に俺のものじゃない。


形にすら出来ていない。


……あの人の力には、

まだ遠い。


……笑える話だ。


あれほど殴られ、

あれほど嫌われたと思っていた男から、


気がつけば

これだけのものを受け取っている。


……陛下。


あなたは、あの時から知っていたんですか。


「オーラを発現させるために殴ったのか」


それとも――


「ただ怒っていただけなのか」


答えは、わからない。


あの人は、最後まで

何を考えているのか分からない男だった。


――だが。


一つだけ、確かなことがある。


俺は今でも、

あの背中を追っている。


そしてきっと、

一生追いつけない。


そんなことを思いながら――


テュエルの長い長い回想は終わる。


――――――


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― 新着の感想 ―
全てが陛下の思惑だったかどうか分からなくても、そう思うのは勝手ですから……私は全て、強い護衛を育てる為にしたことだと信じています。やり方は酷く許されないものですが、陛下なりの少し歪んだ愛みたいなものを…
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