偶然を、必然へ
___西の草原 ___
草原に入った瞬間、空気の密度が変わる。
周囲だけ不自然なほど草木が生い茂り、
まるでふたりを隠すために自然が“壁”を作ったかのように
外からはまず見つからない場所になっている。
草の香りは青く、
陽に透けた葉が風に揺れてちらちらと輝く。
小川は太陽の反射で白い光の筋を走らせ、
小動物の影が草をかすかに揺らした。
レイラ
「ふ……。やっぱり……落ち着く場所だな……」
テュエル
「はい……。」
ふたりは、いつも腰かけていた木の幹へ。
陽に温められた木肌が心地よく、
ここが“二人だけの場所”だとすぐに思い出させる。
テュエル
「昔は……親父の稽古が嫌でサボって逃げてきた場所でしたが……」
「今は、レイラ様との……特別な場所になりましたね。」
レイラ
「…そうだな。」
「なにか、したいことでもあったのか?」
テュエル
「いえ……」
「こうして、明るい草原で……二人でゆっくり過ごせれば、それで……」
ふっと笑い、
「それとも……かくれんぼ、でもしたかったですか?^^」
──胸の奥で、ひとつの記憶が静かに息を吹き返す。
護衛になって間もない頃。
初めて、レイラと“遊び”をした、あの一日。
まだ互いの距離が遠く、
レイラは冷たく、
自分は空回りばかりで。
けれど――
“かくれんぼ” から始まったあの日が、
自分とレイラの距離を初めて変えた。
レイラ
「ふふっ、懐かしいな?」
「でも…お前は私を三年間捕まえられなかったじゃないか?」
テュエル
「………………」
急に黙る。
レイラ
「? どうした、テュエル?」
テュエル
「……いえ。」
「……そうですね……」
昼下がりの風が草を渡り、
彼の声音だけが静かに沈んだ。
「俺は……レイラ様に、
“かくれんぼなら見つけるの得意だから待っていて”
そう言ったくせに……三年も……あなたを一人にした……」
「……そう思うと、居た堪れなくて……」
レイラ
「テュエル……」
テュエル
「偶然が重なって、あなたと……また再会できました。」
「でも……あの方たちがこの地に来なければ、
起こりえなかった話だと思うと……」
「ゾッとして……胃がひっくり返りそうです……」
レイラは何も言わずに聞く。
テュエル
「バグジだって……たしかに首位だった。
選ばれるのは……あいつだったかもしれない。」
「俺は……“偶然”に助けられてばかり。
頼りなくて……自分でも嫌いな言葉なのに。」
拳をぎゅっと握りしめる。
「だから……学びました。努力しました。」
「剣術、武術、裁縫、刺繍、着付け、調髪、化粧、料理、手当、看病……」
「思いつく限り……全部。」
「あなたに選んでもらうために。」
レイラの瞳がわずかに揺れる。
テュエル
「全部……レイラ様のため。」
「偶然じゃなく……必然にするために。」
昼の光の中で、その言葉はかすれ、
だけど真っ直ぐに響いた。
レイラ
「…………テュエル」
「私は……お前の努力を知っていた」
テュエル
「……え」
レイラ
「この話は……お前とはしたことなかったな」
その声音は穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。
「お前と手合わせした時――
いや、ちがうな。
“なぜ手合わせをしたのか”だな。」
テュエルは静かに息を呑み、耳を傾ける。
「最初は確かに、私を外に出してくれる者なら誰でもよかった。
だが、資料室から見える東部兵の稽古を見ていても……
目を見張る者はいなかった。」
「父上から護衛試験の実施を告げられ、
“東西南北の合同稽古”の日に期待していたんだ。」
ゆっくりと視線を落としながら続ける。
「……でも、やはり私や父上のお眼鏡に適う者はいなさそうでな。
半ば諦めていた。」
そして――
「庭を散歩していた時に……お前と出会った。
……テュエル。」
名前を呼ばれ、テュエルの肩がぴくりと震える。
「十二歳。
なのに……潜在能力の高さに足が止まった。」
淡く、レイラは微笑む。
「ふ、まさかこんなに口数が多くて、嫉妬深くて、
まっすぐで……愛が重い奴だとは思わなかったがな?
当時の私は、それがとても億劫だった。」
テュエル
「っ……!」
レイラはその反応に小さく喉を鳴らした。
「……“偶然”?」
「勘違いするな。」
「テュエル。私は――
お前と手合わせする前から……
“お前を選んでいた”。」
テュエルの瞳が潤み、光を帯びる。
彼は立ち上がり、レイラの前に膝をつき、その手をそっと取った。
「……レイラ様。何度でも言います。」
「俺の気持ちは……
初めてあなたと手合わせした十二の時から……
今まで、一度も揺らいでいません。」
そして、胸の奥から絞り出した。
「本当に……愛しています。」
レイラは陽だまりのような笑顔で、
「へへっ、知ってる。」
まるで“お前の愛は全部拾ってるぞ”と言うように、
無邪気で、人懐っこく笑った。
テュエルは、その愛おしい表情に息を止める。
――あぁ。
この笑顔だ。
次の瞬間、テュエルはレイラの顎をそっと掬い、
ゆっくりと唇を寄せた。
草木を揺らす風。
頬を撫でる東風。
唇が離れた後も、レイラはやわらかく笑っていた。
――そうだ。
俺はこの笑顔を見て……
もう一度、この人を笑わせたい、この人に仕えたいと――
そう思ったんだ。
今では……
自然と笑っている。
俺が、その笑顔のきっかけに……?
そう思っただけで胸がいっぱいになり、
抱きしめずにはいられなかった。
ふたりはそのまま草の香りの中で寄り添い、
テュエルはレイラを腕枕して昼寝させた。
昔から変わらない、この場所での日課だった。
――
昼寝を終えるころ、陽はゆるやかに傾きはじめていた。
ふたりは並んで馬に歩み寄る。
テュエルが先に鞍へ跨り、
いつものように手を差し伸べる。
レイラはその手を取って彼の前へ軽やかに座り込んだ。
夕風が草原を渡り、長い影が揺れるなか、
ふたりを乗せた馬は静かに城へ向かって走り出した。
――
レイラは前を見つめながら、
背中に寄り添うテュエルの体温を感じる。
馬の歩みに合わせて、ふたりの呼吸もゆっくりと揺れた。
しばらく静かな時間が続き――
レイラはそっと振り返らずに声を落とす。
レイラ
「なぁ……? テュエル?」
テュエル
「はい。なんでしょうか。」
レイラ
「……私はいつからお前のことを、特別だと……好きだと思ってたんだろうな。」
テュエル
「……へ?!?」
あまりの質問に、声が裏返る。
レイラ
「どうなんだろうな……?」
テュエル
(ほんとに……無自覚に……殺す気か……?)
軽く咳払いをして、
テュエル
「……さぁ。こちらがお聞きしたいぐらいです。」
レイラ
「ふふ……」
テュエル
(ほんとに、かわいいな……)
テュエル
「レイラ様。」
レイラは背後から軽く首だけ振り返る。
馬上で揺れる銀髪が夕日を受けてきらりと光る。
「……?」
テュエル
「――昨夜のこと、本当にすみませんでした……。」
「でも……今夜も……一緒にいちゃ、ダメですか……?」
「レイラ様と……いたいです。」
レイラ
「……あぁ。私も、テュエルと一緒にいたい。」
テュエル
「っ……! ありがとうございます……」
そう言うと、テュエルは背後からレイラをそっと抱きしめた。
城門をくぐる頃には、空はすでに群青へと沈み、
西だけがかすかに橙を残していた。
城下の灯りがひとつ、またひとつと灯り、
夜の気配が静かに城を包み込んでいく。
ふたりは一度別れ、
それぞれ湯殿へ向かったり、身支度を整えたりした。
やがてレイラは、テュエルの部屋へ続く廊下を歩く。
燭台の炎が揺れ、その影を踏むたびに、
胸の鼓動がそっと熱を帯びていく。
そして――
部屋の前で立ち止まり、
小さく息を整えてから、扉へ手をかける。
わずかに開いた隙間から、あたたかな灯りがこぼれた。
レイラは静かに、
テュエルの自室へ入っていった――。
――――
逢瀬の余韻を残したまま、
レイラとテュエルは静かに寝台へ潜り込む。
布団の闇の中、テュエルはいつもの柔らかな声で、
「レイラ様、おやすみなさいませ」
と告げた。
けれど、その声音の奥には複雑な揺れが隠れている。
(昨夜の俺は……完全にやらかした……)
(本当は、もっと触れたかったのに……)
(でも今は……まず信頼を取り戻さないと……)
勝手に距離を置いているだけなのに、
妙に胸が痛む。
レイラも小さく、
「テュエル……おやすみ……」
と返した。
しばし、
二人の呼吸だけが微かに重なる。
(……?)
レイラは、ふと違和感を覚えた。
こんなに近くにいるのに――
テュエルは何もしてこない。
「……テュエル?」
「はい。なんでしょう」
返答は優しい。
けれど、その胸の内は荒れていた。
(あぁ……触れたい……)
(すぐそこにいるのに……)
(でも我慢だ……今はまだ……)
レイラは少し迷ってから、尋ねた。
「……いいのか?」
その一言で、
テュエルの呼吸がふっと止まる。
「……もしかして、我慢してるのか?」
沈黙。
やがてテュエルは、
観念したように小さく息を吐いた。
「……俺も、触れ合いたいです。
でも……昨夜のことが……」
しゅんと肩を落とす。
レイラはそんな彼を見て、
思わず小さく笑った。
(……子猿みたいにしょげてる……)
そして――
珍しく、自分から彼へ近づいた。
そっと胸元に手を置き、
顔を寄せる。
唇が重なる。
今度は、
レイラから。
テュエルは一瞬、
何が起きたのか理解できなかった。
(……え……?
レ、レイラ様から……?)
やがて唇が離れると、
テュエルは呆然とレイラを見つめた。
「……レイラ様……」
レイラは恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……お前と……
もっと近くにいたい……」
その言葉に、
テュエルの表情がわずかに揺れた。
「……本当に……いいんですか?」
「……うん。」
小さな返事。
それだけで十分だった。
テュエルはレイラをそっと抱き寄せる。
今度は急がない。
昨夜とは違う。
確かめるように、
大切に触れる。
レイラもまた、
その腕の中へ身を預けた。
けれど――
(……あれ……?)
レイラは気づく。
いつものテュエルより、
ずっと慎重だ。
「……テュエル。」
「はい。」
「……何か、我慢してる?」
テュエルは、
ぴたりと動きを止めた。
「…………」
図星だった。
「……いえ……」
明らかに声が弱い。
レイラは少しだけ考えて――
頬を赤くする。
そして、
小さな声で告げた。
「……いいよ。」
「……え?」
「その……
お前がしたいこと……。」
言った瞬間、
恥ずかしさに耐えられなくなったのか、
レイラは両手で顔を覆った。
テュエルは完全に固まった。
(…………)
(…………無理だ。)
(……可愛すぎる。)
けれど今度は、
昨夜のように勢いに任せたりはしない。
そっとレイラの手を取る。
「……ありがとうございます。」
その声は、
どこまでも優しかった。
そして――
その先の時間は、
二人だけのものになった。
ただし。
分かってはいた。
分かってはいたが。
――テュエルは、やはり粘り強かった。
(…………長い。)
(…………まだ?)
(……たしかに「いいよ」とは言った……)
(……言ったけど……)
(……こんなに長いとは聞いてない……)
………。
(…………言ったの……後悔したかも……)
やがてレイラは、
そのまま疲れ果てて眠りへ落ちていった。
その隣で――
テュエルは、この上なく幸せそうな顔をしていた。
――そんな、静かな夜だった。




