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置いていくな


レイラは泣き疲れた身体のまま、

テュエルの腕に抱えられて自室へ戻り――

そっと寝台の上に座らせられた。


しばらくのあいだ、

テュエルの腕に包まれたまま静かに呼吸を整えていた。


ずっと、背を撫でる手がそこにあった。

強すぎず、弱すぎず、

ただ寄り添う温度で。


その温もりに安心して、

レイラはそのまま眠り落ちてしまう。


──陽が傾き、外が夜色に染まりはじめたころ。


レイラは微かに身じろぎした。


「…………ん……」


(……安心する匂い……)

(……この温度……そして……後ろの腕……)


目を開けると、

自分はテュエルの腕に包まれたまま眠っていたのだと気づく。


テュエル

「……レイラ様。落ち着きましたか……?」


驚くほど柔らかい声だった。

昼間の嫉妬の影など、どこにもない。


レイラ

「ん……。テュエル……ありがとう……」

「もう……大丈夫……」


テュエルは返事をせず、

ただそっと背を撫で続けた。


理由も聞かない。

状況も責めない。


ただ、

レイラが苦しんだ。それだけが胸に刺さっていた。


(……怒気が向いたのはレイラ様にじゃない……

 ただの焦りの漏れ……

 シャガルが本気で怒ったわけじゃない……

 わかってる……)


むしろ僅かな同情さえあった。

嫉妬の苦しさを誰よりよく知っているから。

ただ、それを漏らさない術を持っているだけで。


震えて息を詰まらせるレイラを見た時、

胸が裂けそうになった――それだけだった。


レイラは上体を起こす。

テュエルもそれにつられてゆっくり身を起こした。


(…………シャガル……

 このままじゃ……だめ……)


レイラは申し訳なさそうに顔を上げる。


レイラ

「……テュエル……」


テュエル

「はい。なんでしょう。」


レイラは胸を握りしめ、

言葉を探しながらゆっくり吐き出す。


レイラ

「今夜……シャガルの部屋へ行かせて……」

「昨日に続いて……二夜連続で……」

「取り決めを……また破ることになるけど……」


テュエルの視線はぶれず、

遮らず、ただ受け止めている。


レイラ

「このままじゃ……よくない気がする……」

「ちゃんと……私の言葉で……伝えたい……」

「……伝えなきゃ……」


その瞳は、弱々しいものではなかった。

あの日見せた“怯えの影”は、もうどこにもない。

代わりにそこに灯るのは――

向き合うことを選んだ強い意志。


震える指先で胸を押さえるレイラを見て、

テュエルの睫毛がふるりと揺れる。


テュエル

「レイラ様……」


その声には

心配、敬意、愛しさ――

さまざまな感情が滲んでいた。


テュエル

「俺は……あなたの決断を拒みません。」

「……どうか気にせず、行ってください。」


そっと肩に触れ、優しく微笑む。


レイラ

「テュエル……ほんと……ありがと……」


睫毛が震えて伏せられる。


だがテュエルはひと呼吸置いて――つけ足す。


テュエル

「……ただし。」


レイラ

「……?」


テュエル

「今度……俺とも、逢瀬してください。」

「前のような、急なものではなく……」

「あなたのために……ちゃんと整えますから。」


レイラは驚いたあと、

ふわりと柔らかく微笑んだ。


レイラ

「当たり前だ……」

「いつも……私のために我慢ばかりさせて……すまない……」

「埋め合わせは必ずする。……ありがとう、テュエル。」


(いつも……理由を聞かず、責めず……

 どれだけ救われてきたことか……)


レイラは立ち上がり、扉へ向かう。


が――

手をかけたところでふと立ち止まり、

くるりと戻ってきてテュエルの頬にそっと口づけた。


レイラ

「……テュエル。」

「お前のおかげで……行ける。」

「……本当に、ありがとう。」


“好き”でも“愛してる”でもない。

でも、それ以上に胸に沁みる言葉。


テュエル(心の声)

(…………殺す気か……)


カタン──

扉が閉まる。


ひとり残されたテュエルは、

静かに瞳を細める。


テュエル

「……レイラ様。がんばって。」


優しい声なのに、

胸の奥が少しだけ痛んだ。


(――見せないけどな。)


深く息をつき、ぽつりと零す。


テュエル

「はぁ……いいなぁ……シャガル……」


羨望 九割。

苛立ち 一割。


それでも、

レイラの心の健康がなにより優先だった。


誰より深く愛しているからこそ、

今は“送り出す”ことを選んだ。


静まり返った部屋。

テュエルは息をひとつ吐き――


(……レイラ様……)


視線は自然と、

レイラが使っていた枕と布団へ落ちた。


――――


テュエルの視線が

レイラの残り香を宿した寝具へ落ちたその頃。


レイラは静かな廊下へ足を踏み出していた。


外はもうすっかり夜。

冬の夕刻を越えた深い蒼さが、宮内に満ちている。


心臓はまだ少し早い。

それでも、前へ進む足は揺るがない。


薄灯りの続く夜の廊下。

その先を見据えながら、

胸の奥でそっと誓う。


(ちゃんと……話す……

 ちゃんと伝える……)


向かう先は――

シャガルの私室。


その頃。


――――


夜の私室。

窓から差し込む淡い光が、黒い床に細い影を落としていた。


シャガルはゆっくりと目を閉じる。


(……また……傷つけた……)


レイラの震え、浅い呼吸、怯えた瞳。

忘れたいのに、焼き付いたように離れない。


(余は……怒っていたのか……)


怒るつもりなどなかった。

そんな自覚すらない。

ただ胸が疼いた。

苦しくて、焦れて、もどかしくて――

無意識に感情が漏れた。


(……思い出させた……余のせいで……)


胸の奥で何かが、

きしりと音を立てて軋む。


(崩れ去るのは……一瞬よな……)


指先がわずかに震えた。

その震えすら、止められない。


ふと脳裏に蘇る。


酒呑童子だったころの、自嘲に満ちた声。


――『そうだ、退屈だしな、人間ごっこでもして楽しんでやろう』


(……人間ごっこ、か……)


あの頃は本気でそう思っていた。

世を嘲り、人を嘲り、

感情など “玩具” 程度にしか考えていなかった。


いつからだ。

“ごっこ” のつもりが、こんなにも深みに沈んでいたのは。


シャガルは苦く笑う。


テュエルに抱かれ、

外套で包まれて震えていたレイラの姿が

鮮明に胸へ突き刺さる。


ぐしゃり、と胸が潰れる。


(何が “守る” だ……)


拳を握りしめた瞬間、

爪が掌に食い込む。


(自ら傷つけておいて……!)


喉が焼けるように熱い。


(……所詮、余は……妖よ……)


王ゆえに、言葉を選ぶなど知らぬ。

妖ゆえに、情や愛を“扱う”術など持たぬ。

ただ強く、ただ鋭く、ただ荒い。


その粗さで、愛しい女をまた裂いた。


(……もう、疲れた……)


胸奥に沈む黒が重くなる。


――愛する女からの怯え

――自分の未熟さへの嫌悪

――忘れられない甘いひととき


笑い合った夜。

抱き合った温もり。

素直に愛を向けてくれたあの瞳。


(……余は……やはり……お前の心に触れる資格など……)


言葉が胸で沈む。


(妖界へは……やはり、ひとりで行くしかなかろう……)


あんな状態のレイラを連れて行けるはずがない。


……いや。

むしろ――


「…………」


その先を考えただけで、

心臓が凍るほど痛んだ。


(レイラには……余など……いないほうが……)


その続きを、

シャガルは噛み殺すように胸へ押し込める。


静かに立ち上がった。


(……深夜に出る。今夜のうちだ……)


新月など関係ない。

ただ――


今なら、まだレイラに気づかれない。

“消える”なら、今しかない。


(歪みが開くその時まで……

 レイラに悟られぬほど遠くへ……身を隠せばよい……)


妖王らしからぬ、弱い逃避とわかっている。

わかっていても、胸の痛みの方が勝った。


(……最後に……一目だけ……)


一瞬、そんな弱さが胸を掠めたが――

すぐ首を振る。


(……馬鹿な。見れば、揺らぐ……)


低く、荒く息を吐き。


(今しかあるまい……この未練ごと、断ち切るのは)


そう呟き、

酒呑童子の装束へ手をかけて着替えはじめる。


ふと視線が吸い寄せられる。


――紺色の外套。


レイラ専属の証。

彼女に選ばれ、彼女に仕える者だけが纏える色。


(……持つべきか……置くべきか……)


どちらを選んでも胸が裂ける。


手を伸ばし、外套に触れた――

その瞬間。


背後に“気配”。


ハッとして振り返る。


そのはずみに外套が、


パサッ……


と床へ落ちた。


そこに――


レイラが立っていた。


「……っ!!」


喉がひゅ、と狭まる。


レイラは落ちた外套へ視線を落とし、

そしてゆっくりと顔を上げ――


逃げ場のないほど、真っ直ぐにシャガルを射抜く。


レイラ

「……ずいぶんと無責任で自分勝手だな?」


その声音は静か。

だが、決して弱くはなかった。


シャガル

「……っ……」


(目を……合わせられぬ……)


胸が締め付けられ、視線が床に落ちる。


シャガル

「余は……やはり……お前の心に触れる資格など……」


レイラ

「私の気持ちは……考えないのか?」


食い気味に胸に刺さるような言葉。


レイラ

「勝手に私の心を揺さぶって、

 勝手に掴んで、奪っておいて……

 ひとりで完結しようとするな。」


「ひとりで……どこへ行こうとしてた?」


シャガルの肩がびくりと震える。


レイラは落ちていた外套へしゃがんで手を伸ばす。

指で拾い上げ――静かに見つめた。


レイラ

「この外套が……お前を縛っているのか?」


握りしめる指に力がこもる。


レイラ

「ならば――助けてやる。」


次の瞬間。


レイラはその外套を

“引き裂こうとする”ほど強く握り込んだ。


シャガル

「……っ!!」


反射。いや、本能だった。

飛びつくように腕を伸ばし、


バッ――!!!


レイラの手から外套を奪い返す。


肩で息をし、顔は完全に青ざめていた。


レイラは小さく息を吐き、

意地悪く微笑む。


レイラ

「なんだ……?

 不要になったのではなかったのか?」


シャガル

「…………っ……こっ……“これは”……

 そんな簡単に……整理できるものではないっ……!」


声が震えている。


レイラ

「未練があるなら……

 なぜ去ろうとする?」


シャガル

「………………」


レイラ

「私に嫌気が刺したか?」


シャガル

「違う……」


レイラ

「私に飽きたか……?」


シャガル

「違う……!」


レイラ

「私と――袂を分つつもりだったか?」


その瞬間。


シャガルは、怒気とも動揺ともつかぬ感情を爆発させるように叫んだ。


シャガル

「違うッ!!!!!!!」


レイラは一度黙り、

その叫びの奥にある“痛み”を聞いた。


シャガル

「違うのだ……っ……」


その声は、もう泣き声だった。


レイラはゆっくり歩み寄り、

責める色を一切含まない声で言った。


レイラ

「……シャガル。」


「すまなかった。」


「信じられないかもしれないが……

 あの時、体が……勝手に反射してしまっただけだ。」


「私の意思ではない。」


「私は……お前の――」

「泣きたくなるほど深い愛を……ちゃんと受け取っている。」


シャガルの睫毛がふるりと揺れる。


レイラ

「お前はいつも、私を待ってくれた。

 尊重してくれた……立たせてくれた。」


「ならば――今度は私が、お前を立たせたい。」


「立てないなら、待つ。

 立つなら、一緒に立つ。」


レイラは床に膝をつくシャガルを真正面から見下ろし、


レイラ

「置いていくな。

 私は……お前と一緒にいたい。」


ゆっくりとシャガルは顔を上げる。


レイラ

「私は……お前の“妻”なんだろう?」


――その一言は刃ではない。

けれど、胸の奥の最も痛む場所だけを正確に突いた。


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