癒えぬ記憶
薄い朝光が障子越しに差し込み、
静かな温度が部屋を優しく満たしていた。
レイラはゆっくりと目を開ける。
熱を交わしたわけではない。
それなのに――胸の奥には、昨夜の鼓動の名残がまだ息づいていた。
すぐそばで眠るシャガルの腕は、
レイラを抱いたまま離さない。
大きくて、温かいその腕に触れるたび、
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
(……シャガル……)
名残惜しさを噛みしめながら、
そっとその腕の中から抜け出し、扉へ向かう。
振り返ると、シャガルは穏やかな表情で眠っていた。
その寝顔に胸がふわりと温かくなる。
(……もう……仲直り……できたよね……)
心に芽生える安堵と幸福をそっと抱いて、
レイラは静かに部屋を後にした。
⸻
廊下に出た瞬間だった。
角の先から、
まるで“レイラが出てくるのを確信していた”ような完璧なタイミングで――
「レイラ様、おはようございます^^」
軽やかな声とともに、
テュエル が柔らかい笑みを浮かべて姿を現した。
レイラは安心したように微笑み返した。
「おはよう、テュエル。いい朝だな。」
「はい^^ とても素晴らしい朝です^^」
【いや俺は寝起きからメンタルボコボコだが!?】
「顔色がとても良さそうで……安心しました。」
「昨日は、楽しめたようですね?^^」
耳に心地よいほど優しい声。
“あなたが幸せならボクも嬉しい”――
そう語っているかのような微笑み。
レイラは小さく頷く。
「……うん。ゆっくり眠れた。」
「……仲直りも、多分できたと思う……」
テュエルは目を細め、柔らかく微笑む。
「それは良かった……本当に^^」
――だが。
その完璧な笑みの裏では、
こめかみの横に薄く血管が浮くほど、
内心は地鳴りしていた。
テュエル(内心)
【ぁぁぁぁぁああぁあ……
シャガルのやろう……】
【今の俺が手を出せないのを良いことに……】
【レイラ様と……逢瀬……か……】
【後で絶対許さねぇ……ッ】
外面:微笑む天使
内面:怨念MAXの地獄の炎
テュエル(内心)
【でも……レイラ様……幸せそうで……】
【可愛い……可愛い……つらい……】
【……近いうちに絶対……逢瀬に誘う……!!】
【いや……むしろ今行きたい……ッ】
嫉妬と愛情、護衛と男、
そのすべてが入り乱れた複雑な笑み。
しかし、レイラにその色を悟らせることは決してない。
「朝食はもう整えてあります。
一緒にいかがですか、レイラ様^^」
その声は完璧なほど穏やかで、
昨夜の嫉妬の影など一片も感じさせない。
レイラは微笑み返す。
「……うん。一緒に行こう。」
「もちろんです。」
テュエルは静かに歩み寄り、
レイラの歩調に合わせて隣を歩き始めた。
――護衛として。
――そして、レイラ様を愛する夫として。
そして朝食。
ここ数日ほとんど箸が進まなかったレイラが――今日は、きれいに完食していた。
テュエル(内心)
(全部召し上がっていらっしゃる……!!
よかった……!!
本当によかった……!!)
外の表情は、いつも通りの穏やかな護衛の顔。
だが胸の内では、何度も何度も拳を握りしめていた。
散歩に出れば、レイラの横顔は柔らかく、
どこか艶の残る、充たされたような静かな微笑みを浮かべている。
(かわいい……♡)
(なんだ今日の破壊力は……♡)
(……うん、シャガル殺す^^)
テュエル、一人で勝手に瀕死&地獄。
散歩の終わりに、レイラが振り向く。
「テュエル、今日は何して過ごそうか?」
「うーん、そうですね」
一見落ち着いた声。
だが内側は――
【まだ体調も心も万全か見極めたい。
無理に逢瀬に誘うのは違う。
だが……今日くらいは独占したい……。】
【家臣も兵も近寄るなよ。今日だけは譲らねぇ…】
念がゴリゴリに飛んでいた。
テュエルは軽く考えるふりをしてから、
「あ、馬もそろそろ運動させたいですし……乗馬なんてどうですか?^^」
外面は爽やかな護衛の笑み。
だが内心では――
(※二人きりになれるし)
(なんなら二人乗りできる……♡)
(ずっと腰に手回せる……♡)
「うん……いいな……」
レイラがふわりと嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、昨朝までの不安の色がすっかり消えて、
どこか艶すら宿した穏やかな表情。
テュエルはその顔を見た瞬間、
ふっと胸の奥がゆるんだ。
(……よかった……)
(ちゃんと表情が戻ってる……)
(本当に……元気になってくれたみたいだ……)
微かな安堵の息が、漏れた。
「じゃあ、準備してきま――」
言いかけたところで、レイラの言葉がそっと割り込む。
「シャガルも…久々に乗馬に誘おう。」
「…………^^」
一瞬の沈黙。
刹那の間に、魂がふっと抜けた。
「……いいですね!!^^」
内心
【全然よくない!!】
【なんで今出てくんだよアイツ!!】
【今日の“レイラ様との癒しの時間”が……ッ!!】
「よかった…じゃあ、シャガルが起きて来るのを待とう。」
「……はい^^」
内心
【覚えてろよシャガル……乗馬中ひっくり返してやる……】
(※当然、実行はしない。理性はある。)
「じゃあ、それまで外で茶でも飲むか。」
レイラが嬉しそうに歩き出し、
皇族専用の庭に隣接した小さな休み処へ腰を下ろす。
朝の光に露がきらめき、静かな香りが風に混ざる。
テュエルはレイラの好みに合わせ、
熱すぎず、香りが強すぎない、香ばしい香りの茶を淹れた。
レイラは湯気を受け取り、ふっと目を細める。
(……美味しい……)
その横顔を見ながら、テュエルは穏やかに微笑む。
しかし内心では、嫉妬の炎を、
“護衛としての微笑み” という薄い膜で必死に押し殺していた。
一方レイラは、
ご機嫌に茶をすすりながら、
まだ来ないシャガルをのんびり待っている。
どこか嬉しそうに、
昨夜を思い出して頬を緩ませながら。
(……シャガル……まだかな……)
その柔らかい表情に、
テュエルの嫉妬はさらに静かに燃え上がるのだった。
――
香ばしい茶の香りがふわりと揺れる中庭で、
レイラは穏やかに茶碗を手にしていた。
その隣で、テュエルもにこにこと微笑んでいる。
外見は、相変わらず絵に描いたような爽やかな青年。
しばらくすると――
ザッ…ザッ…ザッ……
中庭を横切って兵舎へ向かう大部隊が見えてきた。
ざっと百名はいる。
細長く続く隊列は、まるで“流れ込んでくる行列”のようだった。
レイラを見つけた瞬間、兵たちの目が一斉に輝く。
「レイラ様っ!!♡」
「今日もお美しい!!」
「おはようございます!!」
「また剣術の指南お願いします!!」
「暇な時は遊びにいらしてください!!」
「レイラ様ぁぁぁ♡」
レイラ推しの兵士たちが、
黄色く太い声を全力で飛ばしてくる。
レイラは軽く微笑み、
そっと片手を上げて返すだけにとどめた。
(……シャガルが……言ってたな……
『兵士に笑いかけるお前を見ると、胸が焼ける』 って……)
だから今日は、少し抑えめに。
「……あぁ。」
「そうだな。」
「またな。」
短い返事。落ち着いた声音。
それでも兵士たちは感激して騒ぎ出す。
だが――その裏側では。
兵士たち
(……あっ……)
(テュエル様……横にいらっしゃったんですね……)
(あの顔……“さっさと行け” の顔だ……)
(これは “話しかけんな” のやつ……)
(最後のは……“触れたら指落とす” の表情……!?)
なぜか全員、彼の微細な表情のニュアンスを理解している。
理解したくなくても、伝わってくる。
隣でにこにこ微笑みながら茶を啜るテュエルは、外面は天使そのもの。
しかし内心は――
(はいはい、早く行け^^)
(声かけんなって言ってんだろ^^)
(一歩でも近寄ったらその指、飾ってやるからな^^)
笑顔そのままに、眼だけが氷のようだった。
兵士たちはレイラへぺこりと礼をして、
通り過ぎた途端、全員そそくさと小走りになる。
(※理由:隣が怖いから)
レイラはその様子を眺めながら、心の中で小さく息をついた。
(……このくらいなら……シャガルも……大丈夫だろうか……)
そう思った、その瞬間――
ざわり……
空気が冷えた。
背筋を、ひやりと冷たいものが撫でていく。
――まるで、
誰かの“強い感情”に射抜かれたように。
レイラは気づく。
その気配が、自分の真後ろから放たれていることに。
ゆっくりと立ち上がり――
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは。
少し眉を寄せ、
目の奥が氷のように冷えて、
静かな怒気をまとうシャガルだった。
遠目から見えた光景は、
レイラが“兵士と楽しげに笑っているように”見えたのだ。
シャガルの胸に、
またあの痛みが走る。
(……また……無防備に……)
悲しみと怒りの色が混じった感情が、
無意識に、ほんのわずかに漏れ出していた。
その“わずか”が、
今のレイラには致命的だった。
レイラの視界にその姿が飛び込んだ瞬間――
「……っ……!」
反射で身体がびくりと跳ねた。
あの夜。
レイラがシャガルを探して彷徨い、
怒気を浴び「嫌われた」「捨てられる」と泣き崩れ、
呼吸が乱れた、あの夜が
一瞬で、脳裏によみがえる。
喉が震える。
「……ぁ……っ……」
(だめだった……?)
(間違えた……?)
(……嫌われる……?)
(捨てられる……の……?)
足が震え、肩が震え、
呼吸が浅くなる。
視界が揺れ、心臓が痛いほど暴れる。
ほんのわずかな怒気。
それでも今のレイラには、
あの日を思い出させるには十分すぎた。
その変化に最初に気づいたのは――
テュエルだった。
バッ――――
風を裂くほどの勢いで、
レイラの肩を引き寄せ、
自分の胸元へ抱き込む。
その外套がふわりと広がり、
レイラの震えを包み隠した。
テュエル
「――シャガル。下がれ。」
低く、冷たい声。
シャガルの胸が、
ぐしゃりと潰れるように痛んだ。
そんなつもりではなかった。
怖がらせるつもりなど、微塵もなかった。
穏やかに迎えるつもりだった。
ただ……胸が痛んだだけで。
しかし今目の前にあるのは、
テュエルに抱かれ、彼の外套で守られるレイラ。
自分が犯した“過ち”が突きつけられるようで、
胸がきしむほど痛んだ。
シャガル
「……すまぬ……レイラ……」
「今日は……余は、自室で休む……」
「安心せよ……」
声が震えていた。
その言葉を置き去りにして、
シャガルは踵を返す。
レイラはその背が遠ざかるのを見て、
ハッとする。
「……ぁ……っ……」
(違う……違うの……)
(体が……勝手に反応しただけ……)
(シャガルを傷つけた……)
(行かないで……)
(引き止めたい……のに……)
(声が……出ない……身体が……動かない……)
シャガルの背が完全に消えた瞬間、
レイラの心に、痛みと罪悪感が押し寄せた。
堪えきれず、
涙があふれる。
レイラはテュエルの胸で、
堰を切ったように涙をこぼした。




