約束の逢瀬
薄い朝光が、寝台にふたりの影を落としていた。
シャガルはゆっくりと目を開け、腕の中で静かに眠るレイラを見下ろす。
昨夜の涙の余熱が、まだ胸の奥に残っている。
レイラが気配で目覚め、かすかに瞬きをした。
「……おはよう、シャガル」
「…うむ……おはようだ、レイラ」
まだ少し照れの残る声。
ふたりは短く視線を交わし、気まずくも柔らかな微笑みを交わす。
「では……また後ほどな」
「うん……」
別れの言葉さえ、どこか大事に扱うような朝だった。
⸻
シャガルの部屋を後にすると、廊下で待っていたテュエルが小さく頭を下げる。
レイラの顔を見た瞬間、その瞳の奥が和らいだ。
(……光が戻っている)
(地に足がついて、目の焦点も合っている)
と胸の奥で静かに安堵する。
「レイラ様、おはようございます^^」
「本日の体調はいかがですか?」
「……うん。昨日より、ずっと。」
どこか恥ずかしげだが、声に力があった。
朝餉を二人でとると、レイラは皿を半分以上食べきった。
昨日は一口二口しか入らなかったのに。
(……食べられている。よかった)
テュエルは顔に出さないが、内心深く息をついていた。
⸻
食後、短い散歩に出る。
皇族の庭……昨日の朝はレイラが無意識にでも足を踏み入れなかった場所。
今日は——
(……歩けている)
(恐らく、意識的に…)
だが、テュエルが横目で確認すると、レイラの肩は固くない。
一歩一歩、地面を踏みしめている。
「無理は…していませんか?」
「うん。…大丈夫。」
テュエルは言葉にせず、本当に良かった、と思うだけにした。
⸻
散歩のあと休もうという話になり、ふたりで居間へ。
そこに——
静かに扉が開き、シャガルが姿を見せた。
いつもよりほんの少し照れた顔で。
「……レイラ。おはよう」
その声に、レイラはピタッと動きを止め、頬をほんのり赤く染める。
「……おはよう、シャガル……」
シャガルの声音は、いつもよりわずかに柔らかい。
その“柔らかくなった理由”を想像できてしまい、
テュエルのこめかみが一瞬だけピクッと跳ねた。
(……はいはい。昨夜はさぞ“仲睦まじく”過ごされたのでしょうね^^)
表情には出さない。
出さないが——胸の奥でメラメラと焼けるような嫉妬が煮え、湯の音が少しだけ強くなる。
三人で卓を囲むと、一瞬だけ気恥ずかしい沈黙が流れる。
だが、その沈黙は不快ではなかった。
むしろ、
“昨夜の優しい余韻”
がくすぐったい形で残っているだけの、静かな心地よさ。
レイラが何か言いかけ——
唇を開いた瞬間。
「レイラ様!! おはようございます!」
勢いよく扉が開き、ヤヒロが駆け込んできた。
「す、すみません! ほんの少しだけ……教えていただきたいことがあって!
あの……すぐ終わります!!」
レイラは苦笑しつつ立ち上がる。
「わかった。じゃあ、執務室で……すぐ戻る。」
テュエルが口を開きかけた――その時。
シャガルはレイラの顔色をひと目だけ確かめ、先に問いかけた。
「……余も同行するか?
護衛は――必要か?」
その声音には、
“無理をさせたくない”
“だが、過度に縛って怯えさせたくもない”
そんな深い思案が静かに滲んでいた。
テュエルは、一瞬だけまぶたを伏せる。
(……先を越された)
そんな、刺すほど静かな嫉妬が胸に広がる。
レイラはすぐに気づく。
――これは、不安ではなく気遣い。
自分を尊重し、そっと背中を押そうとしてくれている問いなのだ、と。
胸の奥がふわりと熱くなる。
「大丈夫。すぐそこだから……」
「戻ったら、また来るね」
ほのかに微笑むと、シャガルの紅い瞳が安堵の色を宿した。
レイラは扉へと向かう。
扉が静かに開き、廊下へ消えていく。
居間には――
シャガルとテュエル、ふたりだけが残された。
静かな沈黙が落ちる。
次の瞬間、
テュエルが碗を置いた。
「……で、昨日は?」
「……レイラ様の様子、
少しは持ち直したようだが……」
ちら、とシャガルを横目で射抜く。
「無理は……させていないだろうな?」
シャガルは短く息を吐いた。
「……あぁ。」
「少し……肝を冷やしたがな。」
テュエルの指が止まる。
「………………」
(いやな予感しかしない)
「大丈夫だったんだろうな……?」
内心、焦りと嫉妬と苛立ちが渦を巻く。
シャガルは視線を落とした。
「……レイラが。」
「余の自室に入ってすぐ……」
「身を削る形で、献身をしようとしてきた。」
テュエルの表情が一変する。
(は…………?)
(……資料室……!)
(まさか、そのために……?)
(頬を赤らめて出てきたとは思ったが……)
(まさか……そんなことを…………)
背筋が冷たく凍りつく。
「………………まさか。」
「……させてはいないだろうな?」
微かに滲む怒気。
シャガルは即答した。
「させるわけがなかろう。」
低く抑えた声に、まだ震えが残っていた。
「一気に……血の気が引いた。」
「レイラに……そんなことしてほしいと思うわけがない。」
テュエルはゆっくり息を吐く。
「……そうか。」
「なら……いい。」
短い沈黙。
「レイラ様は……お前が思うより、ずっと脆い。」
「お前は、レイラ様の自主性を育てた。」
「だが、それを壊すことも容易いということを……忘れるな。」
シャガルはうつむいたまま、小さく答える。
「……あぁ。」
「もう、同じ過ちは犯さない。」
テュエルはため息をひとつ。
「……でも、昨夜お前の横で寝られたのなら、大丈夫だ。」
「少しずつ……戻るはずだ。」
シャガルは静かに頷く。
「……分かっている。」
そして――
「明日、レイラを逢瀬に誘っておる。」
「……二人きりにさせてくれ。」
テュエルは沈黙した。
「………………………………」
(は……?)
(あぁ…やられたな……)
(くっそ腹立つ……)
(今、俺が何もできないことをいいように…)
「……あぁ…………」
そんな微妙な空気の中――
ガラッ――
「……戻った」
レイラが顔を覗かせ、二人の視線が一斉に向く。
レイラは首をかしげた。
「……え? どうかしたか?二人とも……」
空気は少し張っていて、でも不思議と温かかった。
――
その夜。
レイラはテュエルの部屋で、彼の隣に身を横たえた。
部屋の灯りは落ち、静かな呼吸だけが満ちている。
テュエルはレイラに触れすぎないよう気をつけながら、けれど離れすぎることもなく、そっと距離を測って寄り添っていた。
「……眠れそうですか?」
低く柔らかな声。
レイラは小さく頷く。
「うん……大丈夫。テュエルがいると…落ち着く。」
その言葉にテュエルのまつ毛がわずかに揺れる。
安堵と、どこか満たされたような気配。
「レイラ様が休めるなら……それで十分です。」
レイラはそっと目を閉じる。
昨日の動揺も、胸に残る後悔も、テュエルの緩やかな体温に溶けていく。
――安心。
その言葉が、ゆっくり心に満ちていった。
やがて、テュエルの指先がためらいがちにレイラの手に触れる。
握りしめはしない。ただ、そこにいることを伝えるように。
レイラはその温度に微笑んだ。
「……おやすみ、テュエル。」
「はい。おやすみなさい、レイラ様。」
優しい夜がゆっくりと更けていった。
朝。
レイラはいつもより穏やかな心地で目を覚ました。
横にいたテュエルは既に支度を整えており、レイラの顔を覗き込みながら微笑んだ。
「……よく眠れたようですね。」
その声に、レイラはゆっくり身体を起こす。
「うん……。ありがと。」
昨日まで胸に重く沈んでいた不安は、テュエルの温かさと寄り添いでずいぶん薄れていた。
テュエルはレイラの髪にそっと手を伸ばし、一房を丁寧に梳いた。
「今日は……シャガルと逢瀬、なんですよね。」
「……うん。誘ってくれたから。」
緊張と期待が、胸の奥で同時に息をする。
その揺れを感じ取ったのか、テュエルは柔らかく微笑んだ。
櫛を手に取り、膝を寄せる。
「でしたら……少し整えさせてください。
レイラ様が美しく見えるなら、ボクは嬉しい……。」
その声は優しく、どこか嫉妬の影を落としている。
だがレイラを縛る色は一切ない。
ただ “夫としての愛しさ” だけが静かに滲んでいた。
レイラは微笑み、身を任せる。
テュエルはいつもより時間をかけて梳き上げ、
簪はあえて一本だけ。
後れ毛をほんのり残し、しっとり艶を帯びるようにまとめ上げた。
まるで、
「強く飾りすぎず、ただ貴女の魅力をそっと引き立てたい」
と言うような調髪だった。
「……できました。行きましょうか、レイラ様。」
「……うん。」
廊下を歩く足取りは自然と早まる。
扉を開けた瞬間、冷たい空気とともにシャガルの姿が視界に入った。
今日は護衛服ではない。
落ち着いた色の着物に羽織。
逢瀬のために選んだのだとわかる、凛々しさと静かな艶があった。
レイラを見ると、シャガルは一瞬だけ息を忘れたように目を細めた。
テュエルに整えられた髪に、ほんのわずか見惚れるように。
「……来たか、レイラ。」
低く甘い声音には、一昨夜よりも深い安堵が宿っている。
レイラが近づくと、シャガルは腕を少しだけ広げた。
怖がらせぬように、抱かれる場所を示すような、静かな誘い。
レイラは少しためらいながらも、その胸元へ収まる。
すぐに大きな腕が腰を包み、優しく支えた。
「行くか……レイラ。」
「……うん。」
レイラは抱かれたまま、テュエルへ振り返る。
「テュエル……行ってくるね。」
テュエルは微笑んだ。
「はい。お気をつけて……^^」
表面は穏やか。
けれど胸の奥の嫉妬の焔が揺れているのを、自覚しないほど器用に隠していた。
だが次の瞬間、視線だけが鋭くなる。
【……わかってるだろうな?】
【くれぐれも無理はさせるなよ】
シャガルも静かに目を返した。
【あぁ……心得ている。】
【レイラを泣かせるつもりはない。】
無言で交わされる、夫同士の火花。
けれど同時に、誰よりレイラを大切にしたい――
そんな同じ強さの愛に満ちたまなざしだった。
シャガルはレイラを抱き寄せる腕に、そっと力をこめる。
「しっかり掴まれ。
……怖がらせはしない。」
レイラは彼の胸に手を添え、小さく頷いた。
「うん……大丈夫。」
そして――
ふわり、と身体が浮く。
シャガルはレイラを抱えたまま、ゆっくりと空へ昇り始めた。
その背を見送りながら、テュエルは祈るように呟いた。
「……いってらっしゃい、レイラ様。」
冬の空気が揺れ、二人の姿を遠ざけていく。
二人の夫の想いに守られながら、レイラは冬空へと抱き上げられていく――。




