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そこにいるだけでいい


扉が静かに閉まる。

シャガルはそのまま十歩ほど奥へ進んだ場所に立ち止まっていた。

背を向けたまま、腕も足も威圧にならぬよう注意深く──ただ、そこに“いる”という最小限の姿勢で。


「……レイラ…」

「……来てくれて……嬉しい…」


その声音には、責めも怒りも微塵もなかった。


けれどレイラは部屋に入った瞬間、胸の奥で別の声が暴れ始める。


(喜ばせないと……捨てられる……

 繋ぎ止めるんだ……嫌われるな……)


指先が震えながら、着ていた薄衣をそっとほどいた。

布が床に触れて落ちる乾いた音が、夜気に溶ける。

肩を撫でる寒気に、レイラ自身も一瞬だけ身をすくめた。


その音でシャガルが振り返る。


目に飛び込んできた光景に、呼吸が止まった。


レイラは俯きながら頬を赤くして、それでも決意を誤ったような表情で近づいてくる。

彼の目前で膝をつき、震える指先を、彼の衣の“裾”へと伸ばそうとして──

顔を上げ、目が合った。


その瞬間、


ぞくり――――


シャガルの背筋を冷たいものが走った。


その瞳は焦点を失い、温度を持たず、どこにも生気が宿っていない。


“壊れている”


(……誰が、こんな歪んだ教えを……

 いや……違う……余が……)


レイラの動作そのものが“自己犠牲”であることに、シャガルは痛いほど気づいてしまう。


(余は望んでなどいない……

 こんな……身を削る献身など……)


(愛する女に……妻に……

 なぜ……こんな目をさせてしまった……!!)


胸の奥が、焼けるように痛んだ。


「っ……!! やめよ!!」


掴んだ肩は強くも乱暴でもない。ただ、必死だった。

レイラの身体を引き剥がすと、彼女は小さく跳ねた。


レイラ

「……ごめっ……」

「……嫌だった……?」

「わ、私……ちゃんと…できるように……頑張るから……」

「お願い……だから……嫌わないで……」


その声が、刃物よりも鋭く胸に刺さる。


シャガルの顔から血の気が引き、呼吸が乱れた。

床に落ちた薄衣が視界の端に映り、

ほとんど反射のようにそれを掴んだ。


(もう……)


すべるようにレイラの肩へ強めに——

躊躇なく、ガバッと被せた。


取り返しのつかないことをしたことを再認識させられ、シャガルの目から耐えきれず涙が零れた


衣を掛けると、シャガルは握る手を震わせながら、

吐き出すように言う。


「……もう……もうやめてくれ……」


声が震えた。泣き声だった。


「余が……悪かった……

 お前が……大切なのだ……」


「どうして……それが伝わらぬ……

 頼む……レイラ……

 自らを……その身を……大切にせよ……」


シャガルは涙をこぼしながら、そっとレイラの肩を包む。

レイラは何が起きているのか理解できず、ただ呆然と彼を見つめる。


シャガル

「……レイラ。」

「余は……お前に“そんなこと”を望んだことは、一度もない。」


声が掠れる。


「余に媚びる必要も……

 体を代償にして繋ぎ止める必要も……ない。」


レイラ

「で、でも……嫌われたくなくて……

 男の人は……こういうの、喜ぶって……」


シャガルは首を横に振る。

まるで“そんなことを言わせてすまない”とでも言うように。


「違うんだ、レイラ。」

「……お前は、ただ、生きて……そこにいてくれればいい。」


レイラ

「…………え……?」


シャガル

「自分を傷つける形で、余の機嫌を取るな。」

「そんなもの……余の望みではない。」


そして堪えきれず、声が震えた。


「……お前は、大切なのだ。」


「愛される価値がある。」


「無理をして捧げる必要など……どこにもない……」


ぽたり、と落ちたシャガルの涙がレイラの手の甲を濡らす。

その一滴が、言葉以上の真実を物語っていた。


レイラはただ、困惑のまま硬直する。


シャガルは、もう堪えられなかった。

彼女を強く──けれど壊れないよう、痛まないよう抱きしめる。


「……レイラ」

「お前を嫌うことなど、ありえぬ」

「捨てるなど……そんな選択肢すら余にはない」


「余は……お前とずっと一緒だ」


「……レイラ」

「余は……お前を愛している」

「心から……深く……愛している」


「どうか……届いてくれ……」

(戻ってこい……レイラ……)


その声は祈りにも似ていた。


しかし、レイラには届かない


レイラを抱きしめながら、

シャガルはふっと息を震わせる。


(……違う。

 ただ愛を告げるだけでは……届かぬ。

 今のレイラには、余の“想い”だけでは足りない……)


(言葉を……間違えるな。

 恐らくここが……分岐点だ……)


(余が夫として、レイラのたった一人の伴侶として……

 “彼女の恐れ”に触れねば……)


強く抱きしめる腕が、ゆっくりと、優しく緩む。


逃げられるように。

怯えさせないように。


シャガルは額をレイラの肩にそっと押し当て、

低く、震えを押し殺した声で言う。


「……レイラ」


「お前が……どれほど怖かったか、余は分かってやれていなかった」


「捨てられるのが怖くて……

 嫌われるのが怖くて……

 余を繋ぎ止めようと、必死だったのだろう?」


「その恐怖を……余は見落としていた」


静かに息が震える。


「余は……お前の“心の傷”を愛さねばならぬのに……

 癒すべき恐れに、触れてもいなかった……」


「レイラ……すまぬ……」


腕に込める力は、先ほどよりもずっとぬくもりがあった。


「お前が自分を傷つける姿を見るのが……余は、怖いのだ」


「お前が苦しむのが……耐えられぬほど、怖い」


「だから……どうか、自分を犠牲にする形で余を繋ぎ止めようとしないでくれ」


「余は、お前と……“共に”在りたい」


「お前の手が、痛みではなく……ぬくもりで余を触れる日を、

 共に作っていきたいのだ……」


シャガルの胸の中で、

レイラの肩がぴくりと震えた。


まるで、今まで必死で堰き止めていたものが

一瞬で押し寄せたかのように。


「……っ、あ……」


声にならない息が漏れ、

レイラの指先が、シャガルの服をぎゅっと掴む。


(こわかった……

 ずっと……ずっと、こわかった……)


(嫌われるのが……

 捨てられるのが……

 役に立たないと、置いていかれる気がして……)


胸にしまい込んで、誰にも言えなかった本音が

ぽろぽろ零れ落ちるように、涙が伝う。


レイラ

「……ごめん……なさい……っ」

「こわ…かったの……ほんとうに……」


「シャガルが……離れていく気がして……」

「だから……だから……無理してでも……」


「“価値”を作らないと……って……思って……」


嗚咽で言葉が崩れる。


「わたし……役に立たないなら……

 愛してもらえないって……思ってた……」


シャガルの胸元に顔を押しつけ、

小さな子のように泣きじゃくる。


その涙は、

必死に張り詰めていた心がほどけた証だった。


シャガルは何も言わず、

ただそっと、頭を撫でた。


強くではなく。

慰めるように。

レイラの泣き声を受け止めるように。


しばらくして──

レイラの呼吸が少し落ち着いた頃。


シャガルは腕の力を緩め、

彼女と目線を合わせるためにそっと顎を上げさせる。


その瞳はどこまでも優しく、

揺らぎひとつない。


「……レイラ」


「今日は、無理をさせたくない」


「ここからは……お前の望む形で決めよ」


優しく微笑む。


「ひとつめ。

 ──自室に戻って休む」


「ふたつめ。

 ──もう少し話して、心を整えてから自室で休む」


そして。


一拍、言葉を置いてから

一番最後の選択肢を静かに告げる。


「みっつめ。

 ──余と、共に過ごす」


「もちろん、添い寝だけだ」

「嫌がることは……決してせぬ」

「ただ──お前が望むなら……

 余は隣で、お前が眠るまで手を握っていよう」


その一言に、レイラの瞳が大きく揺れた。


「レイラ。

 選ぶのは……お前だ」


迷いに揺れる目。

揺らめく呼吸。

そして、レイラの細い指がそっとシャガルの袖を掴む。


「……いっしょに……いて……いいの……?」


シャガルは迷わず、柔らかく返す。


「もちろんだ。

 レイラ──お前が望むのならな」


レイラは、少しの沈黙の後

涙を拭った跡のある瞳で、絞るように告げた。


「……今夜……そばにいてほしい……

 ……手、離さないで……」


震え声のまま、しかし確かな意思で言う。


「……シャガルと……いっしょがいい……」


その言葉を聞いた瞬間、

シャガルの胸の奥が強く震えた。


(選んで…くれるのか……)


言葉にはしないが、

その腕の強さだけが、彼の安堵を物語っていた。


「……分かった。

 では、行こう。無理はするな」


レイラの手をそっと取って立たせ、

寝台の方へゆっくり歩く。


シャガルは急がず、レイラの歩幅に合わせてゆっくり寝台へ向かう。


レイラは嬉しい。

でも──まだ少し怖い。

その気配をシャガルは敏感に察していた。


寝台に入ると、レイラは布を胸まで引き寄せ、

シャガルを待つように、でも遠慮するように身を縮める。


シャガルはそっと問いかける。


「……レイラ。

 入っても……いいか?」


レイラは、小さく、でも確かに頷いた。


「……うん……」


遠慮がちで、どこか震える返事。

シャガルはその不安を壊さぬよう、

音を立てずに寝台へ上がる。


しかし、すぐには触れない。


しばらく彼女の様子を見て、

呼吸が少し整ったのを確認してから、そっと手を差し出す。


「……手を……握ってもいいか?」


レイラは目を伏せ、

それでも勇気を出してそっと自分の手を差し出した。


「……ぅん……」


指先が触れた瞬間、

レイラはびくりと小さく震えたが、すぐに緩む。


「……大丈夫だ。

 嫌なら言え。すぐ離れる」


レイラは首を振り、シャガルの手を握り返す。


シャガルはその手を、

まるで宝物に触れるような優しい力加減で包み込む。


「大丈夫だ、レイラ。

 今夜は……ただ隣にいるだけだ。

 お前が安心できるまで、余は離れぬ」


レイラは胸の奥の恐さと、

シャガルに包まれる嬉しさの間で揺れながら、

そっと彼の方へ身体を寄せた。


レイラは胸元へ身体を預けつつも、

シャガルは抱きしめようとはしない。

ただ、寄り添う距離をそのまま受け止めてくれている。


「……おやすみだ、レイラ」


低く穏やかな声。

レイラもそれに応えて、小さく囁く。


「……うん……」


——静寂。


寝殿に満ちるシン……という音が、逆に耳に刺さる。

レイラはまばたきを繰り返し、胸の中でそっと息を殺した。


(……どうしよう……眠れない……

 シャガルに悪い……)


心臓の音ばかりがやけに大きく響く。


その時——


「……レイラ」


耳元に落ちてきた声。

驚いて、身体がわずかに跳ねた。


「まだ……起きているか」


レイラ

「………うん……」


隠すような返事だったが、

シャガルは責めるでも呆れるでもなく、

むしろ、どこかくすぐったそうな息をひとつ漏らした。


「……そうか。

 ならば……少し、話をしようか」


レイラ

「……は、なし……?」


シャガルがぽつりと口をひらく。


「うむ。」


「……レイラ。

 余が……お前を愛おしいと思い始めた頃の話を、してもよいか?」


レイラは驚いたように目を丸くし、

それでも小さく、こくりと頷く。


シャガルはほんの少し照れたように息を吐いた。


「そうか。では……余が勝手に語ろう」


どこか、昔を懐かしむ柔らかな声だった。


「人間界に降り……秩序も何も分からず……

 余は初めて “病” などというものになった」


「力が弱るとは……あれほど心細いものなのかと思った」


レイラが小さく瞬く。


シャガルは続けた。


「だが……あの日、お前は看病してくれたな。

 粥を食べさせ、体を拭き、水を飲ませ、そばにいてくれた」


レイラ

「……そ、そう…だったか……?

 どうすればいいか分からず……あたふたして……」


シャガル

「ふ……あれを“あたふた”と言うのなら、

 世の女たちは皆、お前を見習うべきだ」


「余はあの時、初めて……

 “誰かに守られているのだ” と思った」


「尊い、と思った」


レイラの胸がじんと温かくなり、頬が紅く染まる。


シャガルはふっと笑う。


「凱帝国との戦で、お前が剣を振るった姿を見た時……

 余は目を奪われた」


「流れるような動き……勇ましさ……

 そして、美しさ……」


「まるで舞を見ているのかと錯覚した。

 心が痺れ……掴まれた」


レイラ

「そ、そんな……闘っていただけ……」


否定しながらも、どこか嬉しそう。


シャガル

「否。

 余は戦場に恋したのではない。

 ──お前に、だ」


レイラのまつげが震え、胸の奥で何かが膨らむ。


シャガルは急に顔をそむけ、ぼそり。


「……余は、な……

 お前に早く振り向いて欲しくて……

 今思うと柄にもなく、しょっちゅう花束を贈っておった……」


完全に“やらかした顔”。

レイラは思わず吹き出す。


レイラ

「……ふふっ……

 そうだった……な……」


シャガル

「忘れよ、今のは」


レイラは小さく笑い、

その笑顔はシャガルの胸を柔らかく溶かした。

シャガルはふと何か思い出したように、目を細めた。


「……そういえば、今さらだが……」


「アインの娘と婚姻を結んだとなると……

 余にとってもアインは──」


レイラ

「……父……?」


シャガル

「……そうなるのか……?」


ふたりは顔を見合わせる。


薄闇に沈む寝台で、しん……と一拍の間が落ちた。


──そして。


ぷっ。


レイラは堪えきれず、肩を震わせ笑い出す。


「父上が聞いたら……絶対、全力で嫌がるな……」


シャガル

「うむ。確実に不機嫌になるな」

「もしあの世で再会したら……“父上”と呼んでやろう」


レイラ

「ふっ……やめておけ……。

 本気で怒られるぞ……」


互いに息を漏らしながら笑い合う。


アインにとっては

——何千年も生きる最強の男と

最愛の娘が夫婦になっているなど地獄そのものだろう。


だが、今この寝台に流れる空気は、

ただただ穏やかで、温かかった。


レイラの緊張が、またひとつ静かにほどけていく。



シャガルはレイラの髪を、指先でほどくようにそっと撫でた。

その仕草は、ただ優しいだけではなく——

「もう傷つけたくない」という祈りのようでもあった。


低く落とす声が、静かな寝台に染みる。


「……余に、神木から妖力が流れ込み……異形となった日があったな」


「理性も形も壊れ、何もかも呑まれそうだった。

 あの時、お前は危険すら忘れて……余の名を呼び続けた」


「“戻ってこい”と……必死に」


レイラは息を呑む。


シャガルは続けた。


「夜……疼く妖力に自我が砕けそうになった時も……

 お前は自らの妖力を使って、余を繋ぎ止めてくれた」


「もし……あれがなければ——」


言葉が小さく掠れた。


「余らは……婚姻すら結んでいなかったかもしれぬ」

「今思えば、あの一連の出来事は……

 “お前と共に歩む”という未来への伏線だったのかもしれぬな」


胸の奥をさらけ出すような声音。


「……お前が余を救ってくれなければ……」


「余は……お前を永遠に、得られなかったかもしれぬ」


レイラは静かに聞いていた。

その瞳は、どこか幼い子のように真っ直ぐだった。


シャガルは小さく苦笑する。


「惚れさせてみせる、などと言ったが……別に自信があったわけではない」


レイラが“そうなの……?”と目で問いかける。


シャガル

「ふっ……長期戦の覚悟はしていたがな」


「本当に、全く響かず……余は随分、苦労したのだぞ」


レイラ

「……そんなこと……」


シャガルは彼女の言葉をそっと遮るように、柔らかく告げる。


「レイラ。

 余がお前に惚れた理由は……一つなどではない」


「強いお前も。

 泣きそうなお前も。

 誰より優しく、誰より不器用で……

 困ったようにあたふたするお前も——」


「全部、愛しい」


レイラの瞳がうるみ、

涙になりかけた光が、今度はこぼれずに留まった。


その代わりに、静かで温かい微笑みが咲く。


「……ありがとう、シャガル……」


シャガルはその笑みを見届け、低く囁く。


「レイラ……明後日。

 余に時間をくれぬか」


レイラ

「……明後日……?」


シャガル

「あぁ。

 お前を……逢瀬に誘いたい」


レイラの呼吸がふっと止まる。


「気張らずともよい。

 お前を癒し、楽しませたい。

 お前は……そこにいるだけでいい」


「どうだ……?」


レイラ

「………うん……

 行く」


シャガル

「機会をくれて、礼を言う」


レイラ

「……機会だなんて……」


シャガル

「よいのだ。

 明日は猿と休め。そして……今宵の疲れを癒せ」


そして、ゆっくりと手を伸ばす。


「レイラ……

 眠れ。今日はもう……余に預けてよい」


レイラは少し遠慮がちに、胸元へ身を寄せる。

シャガルはそっと、その小さな身体を抱き寄せた。


腕は強すぎず、弱すぎず。

ただ確かに『守る』形。


レイラはその胸の鼓動を聞きながら、

ようやく深く息をついた。


シャガル

「……おやすみ、レイラ」


レイラ

「……うん……シャガル……」


夜の静けさの中、

ふたりの呼吸だけが、寄り添うように溶け合っていった。

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