あなたと向き合う夜
朝の光が薄く差し込み、
レイラは、泣きすぎてまだ腫れの残る瞼をゆっくりと開いた。
ぼんやりする意識のまま、反射的に――
布団の両隣へ手を伸ばす。
シャガルの気配はない。
その事実に、
胸の奥がざわりと波立つ。
焦燥と、安堵。
追いかけたい気持ちと、逃げたい気持ち。
相反する感情が一度に押し寄せ、息が少し詰まる。
その時――
「……レイラ様。おはようございます。」
静かに、優しく、
まるで壊れ物を起こすような声が降りてきた。
レイラははっとして振り返る。
寝台の縁――自分の足元のすぐ隣に、
テュエルが“最初からそこにいた”ように静かに座っていた。
レイラは、じっと彼を見つめた。
「………………」
言葉は出ない。
だけど胸が、痛いほどにきゅっと締め付けられた。
レイラはゆっくりと身を起こし、
そろり、そろりと近づいていく。
ためらいがちに、
テュエルの衣の裾へ小さな指が触れた。
掴んでいいのか迷うように、
震える手で、そっと――握る。
テュエルは何も言わない。
声を出さず、ただレイラを見つめる。
その瞳が告げていた。
「大丈夫ですよ」
「怖くありません」
「あなたを攻撃したり、責めたりしません」
その微笑みに、
レイラの胸の緊張がふっと緩んだ瞬間――
レイラはバッと勢いよく、
寝台の上でテュエルの胸に飛び込んだ。
顔を胸元に埋め、
その服をぎゅっと握りしめる。
手はかすかに震えている。
泣かない。
何も言わない。
ただ、離れようとしない。
まるで、ずっと探していた“場所”を取り戻したかのように。
静かに、強く、そこに抱きついていた。
テュエルは、その小さな震えを胸で受け止めながら、
そっと背に手を回した。
(……ああ。戻ってきてくれた……)
ゆっくりと実感が胸に満ちていく。
二夜連続で置き去りにされた孤独。
家臣や兵士たちが原因で起きた嫉妬の嵐。
それらはすべて――
「必要とされている」
「自分が役に立てている」
「守る意味がある」
その確信の前に、跡形もなく消え去った。
テュエルはただ、抱きしめられるままに言葉なく寄り添った。
レイラが満足して離れるまで。
どれほど長い時間でも、ただ穏やかに。
レイラが胸へ飛び込んだ瞬間、
テュエルは静かに目を閉じた。
(……氷の姫、だと)
(レイラ様が幼い頃、誰一人として
その内側を見ようとしなかった癖に……
成長して美しくなられた途端、
掌を返したように態度を変えたあの連中――)
薄く笑みが漏れる。冷たい、深い色の笑みだった。
(……滑稽だ。
あの時、まとめて斬り捨ててもよかった)
レイラの指先が、テュエルの服をぎゅ、と掴む。
(俺だけが知っていた。
レイラ様の中にある静かな優しさを。
嫌われていようと、気づかれなくとも、
陰でそっと人を支えていたことを)
ほんの僅かな震えが、胸元から伝わる。
(そんな方を……一人にできるわけがない)
(守りたいなどという生温い感情ではない。
レイラ様に触れるものすべてから――
俺が排除する)
とても静かで、とても優しいのに、
そこにあるのは狂気の誓い。
(レイラ様は……俺が守る)
(ずっと。誰に何を言われようとも)
テュエルはそっとレイラの背に手を添えた。
抱きしめるでも、縛るでもない。
壊れ物に触れるような、極端に繊細な触れ方だった。
そして、怯えさせないようにゆっくりと手を上へ滑らせる。
指先は震えていたが、撫でる動きは驚くほど優しい。
髪を乱さぬよう、敏感な場所を避け、
ただ安心だけを与えるための、静かな一撫で。
レイラの呼吸が少し落ち着いたのを感じ、
テュエルは小さく息を吐く。
(……大丈夫ですよ、レイラ様)
触れ方は柔らかいのに、
“絶対に手放さない”という意志だけは、
確かにそこにあった。
朝の光だけが、静かに二人を包み込んでいた。
――
レイラ様は、あの後まるで何事もなかったかのように微笑み――
“いつも通り”を装った。
けれど俺には、無理をしているのがすぐに分かった。
そもそも、目が違う。
普段と同じように開いてはいるのに、地に足がついていない。
焦点がどこにも合っていない、そんな目だった。
その後も、ずっと隣でレイラ様の様子を見守っていた。
朝餉は喉を通りやすいものばかりを少しだけ。
まだ食欲は戻っていない。
散歩に出ても、魂が抜けたように歩いていながら――
いつも通る皇族の庭だけは、避けていた。
あそこには、あいつの「特等席」があるからだ。
散歩を終えた後、いつもの癖で執務室へ向かおうとしたレイラ様は、
途中でふと立ち止まる。
もうその必要がないことを思い出したのだろう。
「レイラ様、今日は読書したり、お茶を飲んだり……ゆっくり過ごしませんか?」
「…そうだな」
微笑み返してくれたが、その笑みには温度がなかった。
(……)
(シャガルのやつ……)
(どれほど怯えさせたんだ)
レイラ様に悟られないよう、匂いも漏らさぬよう、
心の奥で静かに、だが確かに怒りが燃えた。
それでも――頭では理解していた。
二人で向き合わねば、この問題は終わらない。
このままでは、妖界へ行く余裕など生まれぬほど長引くだろうと。
──そして昼頃。
居間を出て少し歩いたとき、
レイラ様が「ビクッ」と肩を震わせ、俺の裾を掴んだ。
(……あいつだ)
(何を言うつもりだ)
態度しだいでは……。
そう身構え、いつでも飛び出せるように準備する。
だが現れたシャガルは――
レイラ様を怖がらせぬように、驚くほど距離を置いたまま立っていた。
その距離を詰めようとすらしない。
レイラ様の鼓動が、すぐ横で速くなるのがわかる。
レイラ
「シャガ……ル……っ、ごめ……」
反射的に怯えてしまったことへの、震える謝罪。
そのか細い声に、胸がひりつく。
シャガル
「レイラ……大丈夫だ」
「余は……ここから動かん」
レイラ
「……っ……」
声は穏やかだ。
だが表情は、昨日の自責を引きずり、痛々しいほどに沈んでいた。
シャガル
「攻撃したり、責めたりはせぬ」
「ただ……顔を見せに来ただけだ」
「レイラ……」
その名を呼ばれた瞬間、
レイラ様の肩がびくりと震え、
裾を握る指がぎゅっと強くなる。
シャガル
「レイラ……お前と、ちゃんと向き合い、仲直りがしたいのだ」
「夜、余の自室に来て欲しい……」
「今日が無理なら、別の日でよい」
「来れる日まで……余は待っておる」
レイラ
「……わかっ……た……」
消え入りそうな声だった。
それでも“返そう”としたその一言は、震える足で踏み出した確かな一歩だ。
シャガルはそれ以上何も言わず、ただ深く頭を垂れ、ゆっくりと背を向けた。
大きな背中が静かに遠ざかっていく。
その姿が角を曲がるまで見送ったあとも、レイラ様の指は俺の袖を離さなかった。
俺はそっと問いかける。
「……レイラ様、ひとまず部屋へ戻られますか?」
レイラは小さく首を横に振った。
その瞳には、決意とも不安ともつかない揺らぎが灯っている。
「……資料室……行きたい」
「資料室、ですか?」
また小さく頷く。
そして袖を握っていた手を離すと、ふらりと歩き出した。
――
資料室には静寂だけが満ちていた。
「では、ご用があればお呼びください。ここで待機しておりますので」
「ごゆっくり^^」
そう言って戸を閉める。
レイラ様が資料室へ籠る時──
それは決まって“一人で心を整えたい時”だと、俺は知っている。
ならば、今はそっとして差し上げるべきだ。
夕刻、扉が開いた。
レイラ様の頬はほんのり紅く、視線は揺れていた。
不思議に思ったが、詮索はしない。
──そして夜。
レイラ
「……シャガルの部屋、行ってくる……」
テュエル
「…大丈夫ですか?
外で待機しましょうか?」
レイラ
「……ううん。大丈夫。
仲直り……したいから」
テュエル
「かしこまりました」
俺はレイラ様をシャガルの部屋近くまで送り届ける。
テュエル
「……本当に、大丈夫ですか?」
レイラ
「…うん……ありがとう。
おやすみ、テュエル」
テュエル
「おやすみなさいませ、レイラ様」
レイラ様はゆっくりと歩き出した。
シャガルの部屋へと続く回廊を、ためらうように歩く足取りで。
やがて、曲がり角のところで一度だけこちらを振り返り──
小さく息を吸うと、迷いを断ち切るように再び歩き出した。
その姿は、角の向こうへ静かに消えていった。
――――――
曲がり角を曲がった瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
テュエルの気配が遠ざかるにつれ、足が急に重くなる。
シャガルの部屋の扉は、もうすぐそこなのに──
手が震えた。
扉を叩く勇気を、どうしても掴めないまま、
私は扉の前で立ち尽くしていた。
(テュエル……)
気づけば、心の中でその名を呼んでいた。
頼りたくなってしまう弱さが、胸の奥で疼く。
だけど、私は小さく顔を上げる。
(だめ……テュエルに頼ってばかりじゃ……)
(このままじゃ、ダメなんだ……)
(私だって……シャガルと――)
(仲直り、したい……)
(嫌われたく……ない……)
震える手をぎゅっと握って、もう一度深く息を吸う。
そして──
コンッ、と震える指で扉を叩いた。
すると。
「……レイラ……?」
中から聞こえた声は、いつもよりも柔らかくて。
怖がらせないように、そっと気遣うような響きだった。
「うん……」
「来た……よ……」
シャガル
「…………入れ。」
シャガルは扉を開けてはくれない。
私が自分の意思で、ここに来たと示すまで。
その手を伸ばすのを、静かに待っていてくれている。
ならば、私も。
勇気を出さなくちゃ。
ふぅ、と息を吐き、扉へそっと手をかける。
中へ──入る。
パタン──。
扉の閉まる音が、夜の静けさにひときわ響いた。




