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何も知らなかったのは、余の方だった


シャガルがそっと立ち上がった瞬間――

低く抑えた声が、背中を射抜いた。


テュエル

「……来い」


レイラを起こさないため、声量は最小。

けれど、その一言に込められた感情はあまりに重かった。


シャガルは一度だけレイラを振り返る。

眠る彼女の顔を見つめ、

何も言わず、静かにテュエルのあとを歩き出した。


扉が「パタン」と閉じた瞬間。

空気が一変する。


月明かりだけが照らす静かな回廊へと進み、

誰にも気配の届かない奥まった場所で、テュエルが足を止めた。


ゆっくりと振り返る。

その目は、冷え切っていた。


テュエル

「話せ。……全部だ」


レイラの部屋では抑えていた怒気が、

もう隠す必要のない場所で、静かに滲み出す。


シャガル

「……あぁ」


反論する意志は最初からない。

敗北も、過ちも、すべて覚悟している声。


テュエル

「…話せ」


その言葉を受け、シャガルは深く息を吸い、

逃げ場のない現実を正面から吐き出すように語り始めた。


シャガル

「……あの日、余は……

 家臣や兵たちに向けた嫉妬で心を乱し、

 城を離れ、レイラから距離を取っていた。」


怒りを飲み込めず、戻るのを先延ばしした――

その選択が最悪の始まりだった。


シャガル

「……そんな折だ。

 護衛もつけず、薄手の寝巻きで裸足のまま……

 九尾の姿で、レイラが現れた。」


その無防備さに、

驚きよりも怒りが勝ってしまったことを、

シャガルは唇を噛んで認める。


シャガル

「……余は怒気を纏っていた。

 “何が悪かったか言ってみろ” と……

 強引に言わせようとした。」


しかしレイラは――

理由など言えない状態だった。


シャガル

「……あやつは……

 何も言えず、ただ謝るだけだった。」


“ごめんなさい”

“ごめんなさい”

“私が悪いんです”


その言葉を繰り返すほど、

怒気を受けた九尾の感覚は敏感に震え、

恐怖が増していく。


シャガル

「余の言葉が……火に油を注いだ。

 自分を責め続けたレイラは……

 震えが止まらず、呼吸も乱れ……

 過呼吸になった。」


止めようとしても、もう遅く。


シャガル

「……壊れる直前だった。

 あのままでは……本当に取り返しがつかなかった。」


最後の言葉は、

自嘲にも似た痛みを含んでいた。


シャガル

「……すべて、余のせいだ。」


逃げも誤魔化しも一切ない、

最悪の自白だった。

その声音には、本気の後悔と自己嫌悪が滲んでいた。

――その瞬間だった。



シャガルが語り終えた直後――

テュエルの目の奥で、何かが静かに「切れた」。


ドッ――ッ!!


石壁に叩きつけられた音が、夜の回廊に鋭く響く。


胸ぐらをつかんだテュエルの手は怒りに震えている。

だがその力は寸分も揺らがなかった。

斬撃を放つより正確な、鍛え上げられた“殺意”そのもの。


テュエル

「……お前は、知らないな」


低い声。

しかしその奥で、怒りに混じって別の“痛み”が揺れていた。


テュエル

「レイラ様が……幼い頃、誰にも愛されなかった日々を。」


シャガルの肩がわずかに硬直する。


テュエル

「“心を見透かされるようで気味が悪い”

 “氷の姫”――

 そんなふざけた呼び名で、誰も近寄らなかった。」


言葉は淡々としているのに、刃のように鋭い。


テュエル

「……俺が初めてその噂を聞いたのは、まだ護衛になる前だ。」


胸ぐらを掴む指先がわずかに強くなる。


テュエル

「宮内の巡回、門兵どもの世間話……

 六歳の小さな子を、“気味が悪い”“冷たい”“笑顔がない”と笑った。

 ……俺は、胸が焼けるほど腹が立った。」


その怒りは、子供の恋情の延長ではない。

もっと深く、もっと厄介で、もっと純粋な衝動。


テュエル

「それがどれほど無礼で、残酷で、間違っているか……

 あの頃の俺でもわかっていた。」


まだ護衛ですらなかった少年が、

噂を流す者を睨みつけ、

止められるまで殴りかかり、

無礼な者に食ってかかった。


だが、それしかできなかった。


テュエル

「……俺は、あの方を守りたかった。

 ただ、それだけだ。」


怒りだけではない。

十数年分の後悔と誓いが、掌に乗って揺れていた。


テュエル

「ようやく護衛になれたのは、レイラ様が十一の時。

 それでも……まだ同じ噂を言う奴らがいた。」


苦い記憶が滲む表情。


テュエル

「俺は全部、潰した。

 レイラ様の耳に届く前に、全部、俺が受けた。

 家臣も兵も、近くに立たせなかった。

 俺一人で、全部やった。」


“十一歳の少女を守る”と決めた男の年月が、そこにあった。


テュエル

「だからこそ言う。」


その声には、怒りより深い何かがあった。


テュエル

「レイラ様には……

 “愛される”という選択肢が最初からない。」


孤独に育ち、

父からも、誰からも肯定されなかった幼い少女。

自分の価値を知らぬまま大きくなった姫。


テュエル

「自分を責めるしか、選べないように育ってしまった。」

「何度も直そうとした。何度もだ。」

「だが……もう手遅れだった。」


怒りよりも悲しみが勝っていた。


テュエル

「そんな方に――

 “自分のせいだ”と思わせる状況を作った。

 それがどれほど罪深いか……お前には、まだわからないようだな。」


そして最後に、刃のように鋭い宣告。


テュエル

「レイラ様を責めることは……禁忌だ。」


長い年月、少女を宝物のように守ってきた男の瞳だった。


テュエル

「二度と……あの方を傷つけるな。」


ゆっくりと、胸ぐらを掴んでいた手が離れる。


解放されたシャガルの身体から、一気に力が抜け――

その場に、ズルズルと音を立てて座り込んだ。


レイラは、

テュエルにとって“守ってきた証そのもの”であり、

傷つけられることが許されない“宝石”だった。


回廊の夜気が震えた。


シャガルはその冷たい空気の中、

自分が取り返しのつかないことをしたと――

ようやく深く、痛烈に理解した。


石壁に座り込んだまま、

しばらくシャガルは呼吸を整えることすらできなかった。


胸の奥が焼けるようだった。

罪悪感ではない。

“自分はレイラを守るに値しない”という痛感。


やがて、ゆっくりと顔を上げ…

テュエルの視線を真正面から受け止めた。


シャガル

「……テュエル」


声はひどくかすれていた。


シャガル

「レイラが……目を覚ましたとき……」

「……そばにいてやってくれ。」


言い訳ではない。

頼みごとですらない。


ただ、敗北を認める者の、静かな懇願だった。


シャガル

「余では……だめだ。」

「今は……あの者の心に触れる資格が……余にはない。」


その正直すぎる言葉に、

テュエルの怒りがふっと沈む。

消えはしないが、向かう矛先を失う。


シャガル

「……レイラが……怯えずに、呼吸できるように……」

「お前が……いてやってくれ。」


その声は、完全に折れた男の声だった。


テュエルは沈黙する。

怒りの余熱だけが、夜気を震わせていた。


だが――

返答する必要はなかった。


“レイラのそばにいる”

そんなものは、頼まれるまでもなく決まっている。


それを知っているからこそ、

シャガルはあえてその言葉を口にしたのだ。


テュエルは視線をそらすことすらせず、

ただ短く息を吐いた。


テュエル

「……ああ。」


それは、怒りでも非難でもない。


“レイラのためなら当然だ”

そう告げる意思だけが込められていた。


シャガルの膝が、わずかに震えた。

安堵でも、救いでもない。


ただ、自分が担えなかった役目を託すしかないという、

苦い現実の重さだった。


テュエルはシャガルを一度も振り返らないまま、

レイラの寝室へ向かって歩き出した。


その背中は迷いがなく、

長年、レイラの傍に立ち続けた者だけが持つ

確かな覚悟に満ちていた。


シャガルはその後ろ姿を、

まるで遠ざかる光を見るように――

ただ静かに見送るしかなかった。


足音が廊下の奥へと消えていく。

その音が完全に消えた瞬間、

胸の奥に冷たい現実だけが残った。


自分が取り返しのつかないことをしたのだと、

ようやく、痛烈に理解した。


そして、不意にあの日の自分が蘇る。


テュエルの行動を執拗なまでに探り、

レイラを一人の世界に閉じ込めようとしていると決めつけ、

心の中で吐き捨てた。


『気色が悪い話だ』


口には出さずとも、確かに抱いた軽蔑だった。


だが――


シャガル

(……違った。違っていたのだな)


いまテュエルが語った“幼いレイラ”を思い返す。


愛されなかった少女。

抱きしめられた記憶のない少女。

肯定されないまま、自己否定だけを

当たり前のように積み上げ続けた少女。


そんな心が、どれほど脆いか。

どれほど簡単に壊れてしまうか。


ようやく理解したのだ。


テュエルが、狂気じみた“完璧さ”になった理由。

狂愛と言われるほどの執着に至った理由。


六歳のレイラと出会ったあの日から――

彼はずっと知っていた。


この少女を守れるのは、

“常識的な優しさ”では足りないのだと。


中途半端な距離感では届かないのだと。

誰かに任せていいほど、軽い命ではないのだと。


だからこその“過剰”。

だからこその“異常”。


シャガル

(……そうか。あれは)


(愛だけではなく)

(支配でもなく)

(ただの執着ですらなく)


(――必要だったのだ)


レイラを守るためには、

周囲の雑音を遮断し、

傷つける者を排除し、

レイラの世界を一つ残らず把握し、

生活のすべてを管理するほどでなければ足りなかった。


テュエルが狂愛になったのではない。


狂愛にならなければ、

レイラという存在を守れなかったのだ。


シャガルは静かに目を伏せる。


(……気色が悪い、だと)


(何も知らずに……何も見ずに……)


胸の奥が鋭く締めつけられる。


あの男は支配のためではなく、

“生かすために”あれほどの異常さを背負っていた。


シャガル

(……本当に、何も知らなかったのは余の方だった)


もしテュエルが“過剰”でなければ。

もしあれほどの“異常”を貫かなければ。


レイラはとうに壊れていたかもしれない。


その事実が胸を貫いた瞬間、

シャガルは膝から力が抜けるように座り込んだ。


(……あいつは、正しかった)


(余は……)


(軽率すぎた……)


壁にもたれ、瞼を閉じる。

寒い廊下の空気が、痛いほどに身に沁みる。


そして胸の底で、ぽつりと呟いた。


(……レイラが目覚めた時は)


(……あいつの方がいい)


それは敗北の宣言だった。

自嘲であり、悔恨であり、

だが同時に――避けられない事実でもあった。


(余はまだ……レイラの心を守れる器ではない)


震える指で顔を覆いながら、

シャガルは苦く息を吐いた。


(だからせめて……)


(目覚めた時には……あの男がいてやってくれ)


それが今のシャガルにできる、

ほんのわずかな贖いだった。


――そして、その頃。


テュエルは、寝台に横たわるレイラの横で膝をつき、

その寝息を確かめるように静かに見つめていた。


薄明かりだけが揺れる室内で、

ふっと短く息を吐く。


先ほどシャガルが残した言葉が、

耳の奥にまだ残っていた。


『レイラが……目を覚ましたとき……』

『……そばにいてやってくれ。』


――まるで、当然のことを頼むように。


テュエルは目を細めた。


(……言われるまでもない)


その無言の反発は怒りではなく、

誰よりも長くレイラを見てきた者だけが抱く、

揺るぎない確信だった。


そっと、レイラの手の甲に触れる。

指先が微かに震えた。


(レイラ様は……強くなんてない)


(誰よりも脆くて)

(誰よりも美しくて)

(誰よりも……優しいだけだ)


掌に触れるその体温は、

壊れかけた宝石に触れたように頼りなくて、

それでいて、何より大切だった。


(……だから俺は)


レイラの細い指を包むように握り、

胸の奥に沈んだ言葉を、静かに落とす。


(――離れられない)


それは独白ではなく、誓いだった。


深い夜の静寂が、

まるでふたりを守るようにその場を満たしていく。


テュエルは、その静けさの中で

ただレイラの眠りを見守り続けた。


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