余は……寂しかったのだ
シャガルは焦りながらも、
決して強く抱きしめ直したりしない。
ほんの少しでも圧が強ければ、壊れてしまうと本能で分かったから。
(違う……押さえつけるな……)
(軽く……包むように……)
もう一度、深く息を吸い、
自分の胸の鼓動をレイラに伝えるように抱きしめ直す。
「……大丈夫だ……ゆっくりでよい……」
「余は……どこにも行かぬ……」
レイラの肩が震え、しゃくりあげるたびに、
その震えがシャガルの胸まで刺さる。
涙は止まらない。
でも――
乱れていた呼吸が、ほんのわずかにゆっくりになる。
(……いい……そのまま……)
(息を……繋げ……レイラ……)
シャガルはしゃがれそうな声で続ける。
「怖がるな……余はここにいる」
「お前を嫌うものか……」
手のひらでレイラの頭を包むと、
震える額にそっと自分の額を寄せた。
触れた場所だけが、ほんの少し温まる。
「……泣いてもよい……」
「息さえ……できれば……それでよい」
今まで絶対に言わなかった言葉を、
ひとつひとつ、探しながら、絞り出すように。
「余は……お前のそばにおる」
「大丈夫だ……」
「ここに……ちゃんと……おる……レイラ」
レイラの呼吸はまだ深くはない。
けれど、さっきのように崩れ落ちそうな速さではなくなってきた。
涙は止まらない。
震えもまだ残っている。
それでも――
レイラの呼吸は、シャガルの胸に合わせてゆっくり整っていく。
(……よい……)
(そのまま……息を……)
シャガルは祈るような気持ちで、
レイラの後頭部をゆっくり撫で続けた。
震えはまだ残っている。
涙も止まらない。
それでも――
レイラの呼吸は、先ほどのように乱れたものではなくなっていた。
肩が上下するたび、少しずつ、ゆっくり。
シャガルはその微かな変化を見逃さない。
(……落ち着いて…きたか……)
(言葉を……受け止められるほどには……)
彼はしばし迷い、
レイラの呼吸のリズムに合わせて自分も息をゆっくり整える。
焦れば、また壊す。
慎重に。
恐れないように。
もう一度、頭を包む手に力を込めすぎないよう意識しながら――
ほんの指先ほどの優しさだけを足す。
レイラの震えが、ほんのひと呼吸ぶんだけ弱まった。
シャガルはそれを確かめるように、
低く、ためらいがちな声で呼びかける。
「……レイラ」
レイラは胸に顔を埋めたまま、かすかに反応する。
シャガルはさらに息を飲み、
一拍置いてから――
ゆっくりと口を開いた。
「……違うのだ」
その声は、怒りよりもずっと弱く、痛みに満ちていた。
「余は……怒っていたのではない」
レイラの肩がぴくりと震える。
けれど、先ほどのように息が乱れることはなかった。
シャガルはそっと、続けられる。
シャガルは目を伏せ、
胸の奥に押し込めてきた感情をようやく吐き出す。
「余は……寂しかったのだ」
レイラは小さく息を呑む。
「兵士に笑いかけるお前を見て……
胸が焼けるように痛んだ」
「二日連続で余を置き去りにして寝た時……
“疲れている”とわかってはいた」
「巫女の目と、九尾の五感、それはお前を人より疲れさせることも……全部わかっていた」
「それでも……余は……寂しかった」
「九尾の姿が嫌なのではない」
「そんな薄着で……他の男の目に触れてほしくなかった」
「余の妻としての自覚がないのか、と……勝手に思ってしまった」
「……全部、嫌だった」
レイラは震えながら首を横に振る。
「……それは……私の……」
「気づけなかった……寝てしまった……私が……悪い……」
「ごめん……ごめん……」
シャガルは頬を両手で包む。
「違う。
余が勝手に……嫉妬していただけだ」
「お前が他の男に向ける無自覚な視線も」
「余を対象外にしているように見えた素振りも」
「笑みも……言葉も……全部」
「余が……勝手に……恐れていた」
レイラの涙が止まらない。
「……し……らなかった……」
「ごめん……」
「気づかなかったの……」
「本当に……ごめん……シャガル……」
シャガルはレイラをさらに強く抱きしめる。
「もう……謝らなくてよい」
「お前が悪いのではない」
「悪いのは……余の心の狭さだ」
レイラは胸元に顔を押しつけ、弱く呟く。
「……嫌われたと思った……」
「捨てられると思った……」
「怖かった……っ」
シャガルは息を呑み、
レイラの額にそっと口づけた。
「余が……離れると思うな」
「愚か者め……」
その声は、怒りよりも嫉妬よりも、
ずっと深く優しかった。
力の抜けたレイラは、
そのままシャガルの胸に身を預ける。
九本の尾がふわりと消え、
夜風の中、人の姿へと戻る。
シャガルはその軽い身体を抱き上げた。
「帰るぞ、レイラ」
レイラはうっすらと目を閉じながら、胸元に縋りつく。
「……嫌わないで……」
シャガルは歩きながら、そっと髪に触れた。
「嫌うわけがない。
余の唯一が……お前だ」
その瞬間、レイラの涙が静かに止まる。
シャガルは悟った。
(ああ……)
(余も、あいつのように……支えられねばならぬのだな)
――――――
そして、月の下。
シャガルはレイラを抱きしめたまま、静かに城へ戻っていった。
レイラの額はシャガルの胸に預けられ、
呼吸はもう浅く、弱い。
泣きすぎたのと、九尾の負荷。
精神の限界。
そのすべてが一気に押し寄せ、体の力が抜けていた。
けれど――
レイラは耐えていた。
閉じかける瞼を無理やり持ち上げようとして。
(……まだ……話さなきゃ……)
(シャガルと……ちゃんと……)
揺れる視界の中で、必死に意識をつなぎとめている。
シャガルもすぐに気づく。
「レイラ……」
胸の奥が痛む。
それでも柔らかい声で囁いた。
「無理をするな」
レイラはわずかに首を横に振る。
「…むり……じゃ……ない……」
声は掠れ、焦点の合わない目はほぼ白目。
しかし気持ちだけは折れていない。
意地。
根性。
シャガルを失いたくない一心。
シャガルは思わず、そのこめかみへそっと唇を寄せた。
「よい……寝ろ」
「…………」
「余はどこにも行かぬ」
「明日……話すぞ」
レイラは震える唇を開こうとする。
「……で……も……」
その声は限界だった。
「お前に無理をさせたくない」
「休め、レイラ」
その一言に、レイラのまつげがかすかに震え――
否定するための言葉は、もう出てこなかった。
「……………」
力が抜け、完全にシャガルの胸に沈み込む。
気絶に近い眠り。
シャガルはその寝顔を見下ろし、静かに息を吐いた。
(……レイラ……)
その名を呼ぶ声は、悔恨に濡れていた。
――――
城の灯りが、ようやく遠くに見え始めた頃。
空気が――すっと変わった。
(……ヤツだ…)
夜風に混ざる、ひりつく気配。
音も足跡もないのに、存在そのものがこちらへ迫ってくる。
次の瞬間。
闇を切り裂くように、テュエルが姿を現した。
走ってきたのが一目でわかる。
額には細かな汗、衣の裾には夜露とわずかな土。
普段なら息一つ乱さない男が、僅かに肩を上下させていた。
それだけ――
長い時間、広い範囲を、本気で探し続けたという証だった。
テュエルの視線は、シャガルを素通りし、
腕の中のレイラに吸い寄せられる。
テュエル
「…………」
息を整えることすら後回しに、
そっと手を伸ばし――触れずに止める。
だが、その距離だけで全てを読み取った。
(……瞼が腫れている)
(泣き疲れて……呼吸も乱れた跡が残っている)
胸の奥で、静かに熱が噴き上がった。
いつもの冗談めいた殺気とは違う。
これは“本気”だ。
レイラを守る者としての――怒り。
テュエルはゆっくりと、シャガルを見た。
その瞳に言葉はいらない。
“わかっているな?”
“どういう状態にしたかわかっているのか?”
“次は、容赦しない。”
その全てが、冷たい刃のように突き刺さる。
シャガルは目を伏せた。
反論も、弁解すらもできない。
シャガル
「…………」
沈黙が、罪を認める音よりも重い。
テュエルは怒鳴らない。
レイラを起こすことこそ、最も避けるべきことだからだ。
ただ、静かに顎で指示する。
「……行け」
シャガルに歩かせ、
自室――レイラの寝室へと導く。
寝台の前で、テュエルは足を止めた。
その瞬間――
視線も、気配も、想いも――
全てがレイラへと向かう。
(……レイラ様)
(どうか……今はゆっくり……休んでください……)
その内声は、怒りではなく、
心臓を握り潰されるほどの“心配”そのものだった。
シャガルはそっとレイラを寝台に降ろし、
涙で濡れた髪を指先で整えた。
テュエルの内側に渦巻くのは、怒号ではない。
愛しい宝を壊されかけた者の――静かな、しかし凶悪な怒気だった。
シャガルはレイラを寝かせ終えたその瞬間、
その気配の刃を、背中で確かに感じ取る。
レイラは守られた。
だが――これで終わりではない。
まだ向き合わねばならぬ相手が、すぐそばに立っている。
テュエルの怒気は、ただ静かに燃えていた。
声を荒げるより、よほど残酷な温度で。
シャガルはその圧に逆らわず、ただ受け止める。
反論の余地も、戦う意思も――もう、どこにもない。
レイラの寝息だけが静かに満ちる中、
二人の間に残ったものはただひとつ。
――逃げられぬ対話が、これから始まる。
その重さを、シャガルは静かに飲み込んだ。




