嫌わないで
夜空には、欠けゆく三日月がひっそりと浮かんでいた。
光は弱く、闇がより濃く感じられる夜。
レイラは人目を避けて城外へ出ると、
深く息を吸い――静かに、両の瞳を閉じた。
次の瞬間。
ふわり、と空気が揺れた。
足元から淡い光が立ち上り、レイラの身体を包み込む。
九本の、光を帯びた尾が顕現し、
唸りを上げて宙を裂いた。
レイラの瞳はゆっくりと開き、
その虹彩は、獣のような縦の紋へと変わる。
――レイラの姿が、
純粋な“九尾”の異形へと、変貌する。
前のように、雪女の冷気は纏わない。
氷のオーラも吹き荒れない。
今回はただ、九尾そのものの力だけが静かに脈動していた。
身体への負担も、命を削るようなものではない。
ただ――少しの疲労だけ。
それでも、風を切る尾のしなりは研ぎ澄まされ、
夜の匂いが一気に濃く流れ込んでくる。
レイラは天を嗅ぐ。
すん―――
……まだ、シャガルの匂いは薄い。
遠い。
まるで意図して距離を置かれているような淡さだった。
「シャガル……。」
胸の奥がきゅっと痛む。
(そんなに……怒らせてしまったのか……)
(私のこと……嫌いになったのか……?)
(嫌だ……どんな欠点でも直すから……)
(だから…戻ってきて……)
レイラは九つの尾を大きく払うと、
八合目のリュウコを、四方へ駆け抜ける。
風が裂けるほどの速度で。
――前に連れて行ってもらった草原。
――一緒に降り立った高台。
――魚を釣って笑い合った渓流。
思い当たる場所を、ひとつずつ辿っていく。
岩場も、沼地も。
息が白く散るほど駆け続け、
森へ差しかかったその瞬間――
ぴくり。
レイラの縦の瞳が大きく開く。
鼻先に、決定的な匂いが走った。
「……っ!!!」
(シャガル……!!!)
血の匂いはしない。
怪我は――していない。
けれど。
夜気に混じって漂うのは、
抑えきれず滲み出た深い悲しみと、
胸を切り裂くような激しい怒り。
九本の尾がざわりと逆立つ。
(……シャガル……すごく……怒ってる……)
レイラの胸がひゅっと縮んだ。
⸻
三日月が白銀の欠片のように空に浮かび、
淡い光が森の奥の岩場を静かに照らしていた。
その中心に――
シャガルは立っていた。
姿勢は揺るがない。
王としての威厳そのままに、背筋は真っ直ぐ。
ただ一つ違うのは――
その身から、押し殺された怒気が微かに滲み出ていたこと。
肩は震えていない。
怒りに呑まれているわけでもない。
むしろ逆。
自分を制御するために、
感情を深く深く押し込めている。
レイラを怒鳴りたくない。
泣かせたくない。
真正面からぶつかったら、
怒りで傷つけてしまう――
それがわかっているから、
シャガルは城から距離を置き、
一人で月下に佇んでいた。
だが。
抑え込んだはずの感情は、
夜風に溶けるように漏れ出ている。
悲しみと痛みと、どうしようもない苛立ち。
九尾の鼻が敏感にそれを捉える。
レイラ
(……シャガル………)
足がすくむ。
胸がひゅっと縮む。
その静かな背中に宿るのは、
爆発寸前の怒りではなく――
“それでも怒りたくないのに怒ってしまう自分”を抑え込む苦悩だった。
レイラの気配に気づいた瞬間、
シャガルの肩がわずかに揺れた。
だが振り返らない。
背中のまま、三日月に照らされて立ち尽くす。
そのまま低く、押し殺した声が落ちる。
「…………何の用だ、レイラ」
穏やかな口調のはずなのに、
押し殺した怒気が滲んでしまう。
静かすぎるその声がかえって恐ろしくて、
レイラの九尾の尾がびくりと震えた。
レイラ
「……シャガル……」
声を漏らした瞬間、
シャガルがゆっくりと振り返る。
シャガルの三日月に照らされた紅い瞳を見た瞬間――
レイラの縦の瞳孔が、ぎゅっと細まり、
九尾の尾が一斉に萎む。
“本能”が怯えた。
――足が凍りつく。
それでも……不快にさせたことを謝らなければと勇気と声を振り絞る
レイラ
「…シャ…ガル…ごめ……ん……」
震える声がこぼれた。
謝らなければ。
嫌われる。
嫌だ。
捨てられたくない。
その感情だけが胸を締め付ける。
シャガルは歩み寄らない。
ただ、暗い目でレイラを見下ろした。
「……猿はどうした」
レイラ
「……え………?」
シャガル
「……護衛もつけず。
そんな格好で……一人で来たのか?」
“そんな格好”――
薄い寝巻きは草に引っかかれ、ところどころ破けている。
裸足は土と夜露で汚れ、指先まで冷たく濡れていた。
息を切らして急いで来たのだろう、
胸元もわずかにはだけ、乱れた髪に草が絡んでいる。
シャガルの視線がそこをなぞった瞬間、
レイラはようやく自分の姿の惨めさに気づいた。
「――っ……!」
慌てて腕で胸元を隠す。
髪を押さえようとしても震えてうまく掴めない。
(……気づかなかった……
なんて……だらしない……)
羞恥と恐怖と後悔が一気に押し寄せ、
レイラの尾が小さく縮こまる。
シャガル、怒りが爆ぜる。
「…ふざけるな」
その言葉が落ちた瞬間、
レイラの尾がビクッと震える。
レイラ
「……ごめ……なさい……っ」
シャガル
「……勘違いするな。
謝れと言っているわけではない」
レイラ
「……っ……?」
シャガル
「“何が悪かったのか”――言ってみよ」
心臓が、ひゅ、と縮んだ。
その問いだけは。
レイラにとって、もっとも答えられない最悪のものだった。
レイラ
「……ぇ…………?」
(なに……?
なにを……間違えたの……?
どうして……?)
“考えろ”と命じても、頭が真っ白になる。
怒りの匂いが濃すぎて、胸が焼けつく。
息が苦しい。指先が震える。
(……だらしなかった、から?)
(九尾の姿……初めて見せたから……気味が悪かった?)
(私……なにか、不快になること……言った……?)
――シャガルが怒っている“理由”が、わからない。
理解できない恐怖が、
じわじわと心臓の奥を締めつけていく。
どう謝ればいいのかも、
なにを直せばいいのかも、
レイラには本当に、ひとつも思い当たらない。
聞きたかった。
「なぜ怒っているのか教えて」と。
でも、もう先に“答えろ”と言われてしまった。
逃げ道はない。
レイラ
「……わ、わか……らない……」
その言葉が落ちた瞬間。
シャガルの眉が、かすかに――しかし鋭く吊り上がった。
空気そのものが震えるほどの怒気が、
一段と濃く、鋭くレイラを刺す。
レイラ
「………っ…!!!」
喉がぎゅっと縮み、声が裏返る。
全身が、勝手に震えはじめた。
レイラ
「や……だ……」
「シャガル……嫌わないで……」
「お願い……っ……」
九本の尾はみるみる萎み、
怯えた獣のように身体を小さくすぼめる。
レイラ
「悪い…ところ……欠点は……全部治す……」
「九尾の姿が……不快なら……もう、ならない……」
「兵士たち…への指導が悪かったなら……もうしない……から……」
「だ…から……だから……捨てないで……」
言いながら、レイラの目に涙が滲む。
しかし――必死にまばたきをして堪えようとする。
(だめ……泣いたら……もっと……嫌われる……)
(泣くのは……ずるい…………)
(でも……止ま……らない……っ……)
堪え方が逆に苦しくなる。
息が吸えない。胸が締め付けられる。
呼吸が乱れ、浅く、速くなり――
――過呼吸。
膝がガクガクと震え、
涙を止めようと噛みしめた唇まで震え、
地面に手が落ちそうになる。
ぽたり。
耐えきれず、涙がひとつ落ちた。
(いや……いやだ……)
(嫌われたくない……っ……)
(シャガルに……だけは……)
そんなレイラを見て、
シャガルの怒りとは別の感情が、
胸を深く、鋭く刺し抜いた。
(……違う)
(余は……こんな顔を……)
(怯えて泣き崩れる姿など……
見たいわけがない……っ)
(なぜ……こうなる……)
歯を噛み締める音が聞こえそうなほど、
シャガルの表情が揺らぐ。
怒りはまだ消えていない。
しかしそれ以上に――
胸が締め付けられる。
レイラを傷つけたくなどなかった。
ただ、気持ちを分かって欲しかっただけなのに。
レイラ
「ひ……っ……う……」
「ごめ……ごめん……っ……」
「嫌わないで……シャガル……」
縋りつくような声。
その声が、
シャガルの胸の奥をぐしゃりと握り潰す。
(……やめろ……そんな泣き方……)
(余が……悪者ではないか……)
(違う……違うのだ、レイラ……)
耐えきれず、一歩だけ近づく。
その瞬間――
レイラはびくっ、と肩を跳ねさせ、
大きく後ずさった。
目を見開き、涙で濡れた頬を震わせて。
レイラ
「ご、ごめんなさい!!」
「ごめんなさいっ……!」
「嫌わないで……いやだ……っ……!」
息がうまく吸えず、胸が痙攣するように上下する。
呼吸が乱れ、正気を保てないほど怯えきっていた。
涙で視界が揺れ、足元もふらつく。
九本の尾は完全に萎れ、
まるで小さな子どものように震えている。
(……!)
シャガルの胸が、悲鳴をあげた。
(違う……違う……)
(余は……怯えさせたいわけでは……!)
(もう……見ていられぬ……!)
気づけば、シャガルは地面を蹴っていた。
次の瞬間――
レイラの細い体を、強く、しかし壊れ物に触れるように抱きしめていた。
壊れ物に触れるように。
けれど、離したら崩れてしまいそうで強く――
「っ……!」
抱きしめられた途端、
レイラはびくりと震え――
涙が、一気に溢れだした。
泣きたくなかった。
シャガルの前では絶対に泣きたくなかった。
泣いてしまう自分に怯え、さらに涙が零れる悪循環。
「ご……ごめ……なざい……」
「嫌われるようなこと……したのに……」
「気づけなくて……ごめん……」
「寝て……ばかりで……っ」
「鈍くて……ごめん……っ……」
自分を責める言葉しか出てこない。
その声に、
シャガルの心は限界まで締め付けられた。
「……レイラ」
低く、震える声。
レイラは胸に顔を埋めたまま、か細い声で続ける。
「……私が……悪い……」
「気づかなかった……」
「怒らせて……ごめん……」
「嫌わないで……お願い……っ」
シャガルは、これ以上ないほど困惑した。
(なぜ……ここまで恐れる……?)
(怒られたことなど、今まで何度もあっただろう……)
少しでも強い声を出せば――
ほんの僅かでも力を入れれば――
レイラは今、壊れる。
(……今のレイラは、余の一言で砕ける……)
(言葉を……選べ……)
王として怒りを伝える言葉は持っていても、
誰かを“壊さないように”選ぶ言葉など知らない。
胸の奥で困惑が渦巻く。
(どうすれば……落ち着く……?)
(どう言えば……余を恐れず……顔を上げる……?)
そして――
頭の片隅に、嫌いな男の顔が浮かぶ。
(……あの猿なら……)
(ヤツならば、どう声をかけ……どう落ち着かせる……?)
脳裏に浮かぶのは、
いつもレイラに優しく触れ、言葉で支えてきたテュエルの姿。
“王”ではない。
“愛を教えた夫”でもない。
――初めて生まれた、“支える夫”の思考。
(……考えろ)
(余は、レイラを泣かせたいのではない)
(嫌われるのが怖いなど……言わせたいわけがない)
胸が締めつけられる。
(……ならば……)
(余も……寄り添う言葉を探さねば……)
慣れず、苦手で、今まで一度も必要としなかった領域。
しかし――
レイラの涙が寝巻きを濡らし、
震えが胸元まで伝わってきた瞬間、
(……レイラのためならば……やる……)
「レイラ……ひとまず……落ち着け……」
声は低いのに、どこか震えている。
ぎこちなく背へ手を当て、ゆっくりと、そっとトントンと叩き始める。
そのリズムは、テュエルがよくしていたものを思い出しながら、必死に真似たもの。
最初は不揃い。
けれど、レイラの呼吸の乱れに合わせて、少しずつ一定になっていく。
「……そうだ……息を……ゆっくり……」
「余が……ここにおる」
レイラの呼吸はまだ深くはない。
けれど、さっきのように崩れ落ちそうな速さではなくなってきていた。




