禁欲三日目、すれ違う
【禁欲1日目】
翌日に控えたヤヒロへの王権譲渡式典は、形式だけの簡素なものとはいえ、
王家としての準備は必要だった。
朝から城内は、ほどよい緊張と慌ただしさで満ちていた。
レイラはシャガルとテュエルと共に、譲渡書面の確認や、
式次第の最終決定、王印の用意など、
いつもより細かい確認仕事に追われていた。
ヤヒロの即位は政務上は大きな区切りだ。
だからこそ誰も失敗はできない。
レイラも集中していた――はずなのに。
ふと、周囲のざわめきの中で、
調理師や女官たちが何やら噂話をしている声が耳に入ってくる。
「明日で正式にヤヒロが…あっ、ヤヒロ様が王……」
「じゃあシャガル様とテュエル様は?」
「姫様のおそばに戻られるのかしら……」
「三人の仲睦まじさは有名だしね……」
小声なのに、ひどくよく聞こえた。
レイラは一瞬だけ視線を上げたが、
噂を気にする素振りは見せず、静かに作業へ戻る。
だがその“噂の余韻”は心の奥にうっすら残った。
⸻
夕刻。
ようやく区切りがついたと思える頃には、心地よい疲れが残っていた。
レイラは深く息を吐き、
「今日はよく頑張ったな」とひとりで苦笑しながら寝室へ戻った。
そして――寝室の扉を開けた瞬間、
かすかな違和感が胸を刺した。
誰もいない。
当然だ。
禁欲の一週間が始まったばかりで、
二人は別室で過ごしている。
この静けさも、広すぎる寝台も、最初から分かっていた。
分かっていた…はずなのに。
レイラは寝台に腰を下ろし、
薄暗い部屋でゆっくりと羽織りを脱ぐ。
そしてふと、いつもの癖で枕元に手を伸ばした。
――シャガルの体温が少し残るはずの位置。
――テュエルの香りが混じるはずの空気。
何もない。
レイラは思わず苦笑した。
「……一人で、寝ていたじゃないか…」
言葉にした途端、胸の奥がわずかに沈んだ。
いつもなら、
シャガルが先に抱き寄せてくれる。
テュエルが静かに髪を撫でてくれる。
そんな些細なぬくもりが自然すぎて、
それがないだけで空気がひどく冷たく感じた。
(……二人の匂いが、ない)
衣服にかすかに残っているはずなのに、
今日に限って何も感じられない。
落ち着かない。
胸の奥にわずかに空洞ができたようだった。
レイラは寝台に横たわる。
大の字になれば充分すぎる広さがあって、
どうしようもなく“片側が寒い”。
「……こんなに寂しいものだったか?」
思わず小さく呟いた声が、部屋に虚しく広がった。
静かで、暗くて、あたたかさがない夜。
そのすべてが、じわじわと心に沁みていく。
それでも眠ろうと目を閉じる。
眠れる……はずだ。
一人でも、大丈夫なはずだ。
だけど。
胸の奥がぎゅっと痛む。
寂しさの正体が何か、
問いかける前に意識が沈みはじめた。
禁欲1日目の夜は、思ったよりずっと、冷たかった。
――――
【禁欲2日目】
翌日。
大広間には厳かな空気が流れ、
ヤヒロの即位を見届けようと村人、侍従、女官、宦官まで多くの者が集まっていた。
レイラはゆっくりと歩み、
手にした王冠をヤヒロの頭へそっと置く。
金の冠が輝いた瞬間、
場内にざわめきが走った。
レイラの少し後ろには、
テュエルとシャガルが控えていた。
どちらも言葉はなく、
ただ静かに、その瞬間を見届けている。
レイラが動くたび、二人の視線が自然に彼女を追う。
ヤヒロは短く息を吸い、宣言した。
「本日より――俺は正式に王となる!」
まだ声変わりが終わりきらない声が、
それでも堂々と響きわたる。
民衆の顔には誇らしげな微笑みが広がる。
前列にいた女官たちでさえ、
「ヤヒロ様……立派になられて……」と涙ぐむほどだった。
テュエルは腕を組み、黙って成長した少年王を見つめる。
その横でシャガルは珍しく表情を和らげ、
レイラとヤヒロの姿を静かに見守っていた。
ヤヒロは緊張して喉を鳴らし、背筋を伸ばす。
「だが……っ、勘違いするな!!」
語尾が強すぎて、威厳より“必死さ”が滲む。
だが、誰一人として少年を笑わない。
むしろ温かい視線が、場を満たした。
「レイラ様の立場は……今までと同じじゃない!
むしろ――もっと、上だ!」
民衆がざわつく。
「レイラ様は“巫女王”だ!
俺だって、民だって、誰もがその加護を受けてる!
だから……軽んじることなんて、絶対に許さない!」
拙くても、まっすぐ。
その言葉は力を持っていた。
群衆が温かなざわめきに包まれる中、
ヤヒロは震える手を隠すように後ろで組む。
その一部始終を、
テュエルとシャガルは微動だにせず受け止めていた。
二人の視線の奥には、
“少年の決意を認める”静かな敬意があった。
*
ヤヒロの宣言を聞き終えた瞬間――
群衆の視線が自然とレイラに集まる。
レイラは面食らったようにぱちりと瞬きをした。
(……ヤヒロめ。そんな大げさに言わなくても……)
そう思いながらも、胸の奥がじんわりと熱くなる。
テュエルは、そんなレイラの横顔をちらりと見て
「照れてるな」とでも言いたげに目を細めた。
シャガルは静かに、その頬の朱を見逃さずにいる。
レイラは視線を逸らしながらも、
ヤヒロの背中をそっと見守る。
(ふふ……ありがとう、ヤヒロ)
声に出さずとも、
目元に自然と柔らかな笑みが宿る。
大広間に広がる祝福のざわめきの中、
三人は確かに“そこにあった大切な絆”と
少年王の成長を同じ場所で噛みしめていた。
⸻
式典が終わり、
城内では囁き声が飛び交い始める。
「姫様は…これから巫女王として国の象徴に…?」
「シャガル様とテュエル様は、ヤヒロ様と協議して双国を離れられるとか…?」
「だったら……せめて、せめて一度でいい…!」
その“せめて一度”という想いが危険だった。
そして午後、
その歪みはすぐ行動として現れ始めた。
曲がり角。
静かに歩いていたテュエルに、
一人の女官がわざと勢いをつけてぶつかる。
「きゃっ……! テュ、テュエル様……っ!」
テュエルは反射的にその腰を支えた。
揺らぎのない、端正で丁寧すぎるほどの手つき。
「……大丈夫ですか?」
春の風のような柔らかい声。
だが、その裏側は冷えきっている。
(……触れるな。
レイラ様に捧げる手を、汚すな)
支え終えると、すっと手を引き、
完璧に距離を戻す。
「お気をつけを。」
ただそれだけ。
しかしその律儀さが、また誤解を生む。
女官は胸元を押さえ、震えた。
「テュエル様……なんて優雅なの……」
「触れられた瞬間、心臓が止まるかと思った……っ」
さらに周りからひそひそ声。
「見た? あの品。まるで光そのもの……」
「尽くしたくなるわ……あの物腰で“頼む”なんて言われたら……」
「清潔感ってあそこまで到達すると、もう罪深い……」
「姫様一筋だからこそ、余計に惹かれるのよね……」
「うん……ああいう忠誠心、胸が締め付けられる……♡」
勝手に盛り上がる女官たち。
一方、テュエルは背に刺さる熱い視線に眉をひそめる。
(俺はレイラ様のためにしか呼吸してねぇんだよ。
気安く触れてくんじゃねぇ……)
外面は優しいのに、内心はひたすら淡白。
しかし、その“困っているような柔らかい顔”がまた誤解を広げた。
「ねぇ、あの表情……反則……」
「守りたくなる……あの儚さ……!」
(……うるせぇな。
頼むから静かにしてくれ……)
こうしてテュエルの爽やかさは、
シャガルとは別方向の魅力となり、
宮中の女官たちを静かに狂わせていった――。
――――
一方、シャガルの前でも騒ぎは起きていた。
「……あっ、髪飾りが……!」
落とす必要のない場所で、
わざとらしく物を落とす女官が続出。
しゃがんで拾うシャガルの横顔を見たいがために、
周囲ではため息を漏らす者までいる。
シャガルは無言で拾い上げ、
表情ひとつ変えず差し出す。
「……………。」
ただそれだけ。
( 色目など使うな。レイラ以外、余の視界にはいらぬ )
その冷ややかな視線は刃のように鋭い。
向けられた女官は、一瞬息を呑んだ。
――普通なら怯えるほどの冷たさ。
しかし。
「ありがとうございます……!」
と受け取った女官は、ほてった頬を隠しながら去り、
「今の眼差し……背中まで痺れた……」
「刺されるようで……たまらない……♡」
と、震えながら同僚の袖を掴んでいた。
さらに別の女官が囁く。
「シャガル様のあの無慈悲な紅い瞳……心臓に刺さる……」
「わかる……冷淡さが逆に甘い……」
「睨まれただけで、一日幸せ……」
“シャガルの無表情と冷たさ”を賞賛する声は増えるばかり。
シャガルはその奇妙な熱狂に眉をわずかに動かした。
(……理解不能。近寄るな)
だが、そのたった一瞬の反応すら――
「いま、怒った……っ!!」
「ひゃあ……たまらない……!」
と歓声を生む始末。
その一方で、女官たちは見てしまっている。
「でも……姫様には優しく微笑んでいらっしゃるのよね……」
「あの冷淡な方が、姫様の前ではああも柔らかく……胸が苦しい……」
「完全に愛妻家なのよ……あの距離感……嫉妬で倒れそう……」
レイラ以外を見ない男の冷酷な美と、
“レイラにだけ向けられる甘すぎる眼差し”というギャップは、
宮中の女官たちの心をますます狂わせていくのだった――。
――――
そんな様子を遠巻きに見ていたレイラは――
「……。」
胸の奥が、きゅ、と小さく締めつけられた。
なんだ……この感じ。
ざわざわして……落ち着かない……。
(テュエル……あれ……、支える必要あっただろうか。
あんなに腰に手を回さなくても……)
(それにあの女官も……なんであんな近いんだ。
あれは……わざと……?)
さらに視線はシャガルへ移る。
(シャガルも……普段なら完全に無視するのに。
拾って手渡すなんて……珍しい…。
いつもより……優しくないか…)
普段なら流してしまう些細なことが、
なぜか今日は胸に引っかかる。
妙に敏感で、妙に気になる。
喉の奥がつかえるような、言葉にならない感情。
ほんの小さな、
だけど確かにそこにあるざわつきが――
レイラの胸を静かに揺らしていた。
⸻
夜。
部屋に戻ったレイラは寝台の前に立ち、
ぽつりと言った。
「今日も……一人、か……」
張りつめた式典の疲れより、
胸の寂しさのほうが重い。
「………寂しい…な……」
それでも自分に言い聞かせる。
「…でも……これは自分から言ったことだ……。
我慢…だ……」
寝台に入ったが、
眠れない。
目を閉じても、
一時間ごとに目が覚める。
枕を抱きしめても落ち着かず、
布団をかけ直しても心が冷たい。
――その中で、心の声が勝手に零れた。
……はぁ……せめて犬でもいれば……。
……シャガルがまた犬になってくれたら…
…絶対抱きしめて寝るのに……。
……テュエルの……あの厚い胸板…
…枕にしたい……沈みたい……。
ぽつ、ぽつ、と溢れる妄想は、
普段なら絶対に口にも心にも出さない種類のもの。
なのに今は、それすら止められない。
静かな部屋に、ため息が落ちる。
――しん、とした空気がやけに広く感じる。
(……二人の温もりって……
こんなにも……恋しかった……?)
布団を胸元まで引き寄せて丸くなる。
けれど、温もりは返ってこない。
腕の中も、背中も、指先も――
全部が“空っぽ”だ。
(……女官達より、
私の方がよっぽど……二人に触れたい……)
自分で決めたはずの一週間の禁欲が、
もう胸に重くのしかかる。
小さく震える吐息。
「……会いたい……
触れたい……
一緒に寝たいよ……」
ぽつりと漏れた声は、
寂しさに染まっていた――。
夜は長く、
2日目にして孤独は想像よりずっと早く深まり始めた。
【禁欲3日目】
朝から宮中の空気は妙にざわついていた。
“レイラ一行がもうすぐ双国を発つらしい”――
その噂が広がったせいで、二人を含む一行の周囲に人が群がり始めていた。
「テュエル様、こちらをお持ちしましょうか!」
「私が!」
「いえ、私が!」
女官たちの声が四方から飛ぶ。
テュエルは完璧な微笑で応じるものの、
(……囲むな。鬱陶しい。
近寄るんじゃねぇ……)
心の中では既に怒気が渦巻いていた。
一方シャガルは、女官たちの視線すら煩わしくて、
【皇族専用の庭】の大岩の上で堂々と昼寝していた。
寝そべりながら、気だるそうに目を細める。
(全く……不快でかなわん……)
皇族専用という“立ち入るな”の札付き空間。
その特権をこれでもかと活用し、完璧に逃げ切っていた。
レイラもまた、今日に限って人の出入りが激しく、
次々とかけられる声に落ち着けず――
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
(……少しだけ……静かな場所に……)
言葉にはしなかったが、
その思いだけが胸にふわりと浮かぶ。
そのまま歩き出し、
人の気配を避けるようにして 資料室へ逃げ込む。
扉を閉めた瞬間、
外のざわめきが嘘のように消え、静寂が落ちた。
「……なんか……二人に触れてないな……」
ぽつりと漏れた。
「二人は……平気なのだろうか……」
「……寂しい……」
膝を抱き、胸元に額を寄せる。
「……あんなこと……言わなければよかった……」
禁欲の一週間。
自分で言い出したことでも、心はついていかない。
気づけば、静かな資料室でそのまま寝落ちしていた。
目を覚ますと……
ふと肩に柔らかな重みを感じる。
薄く目を開けると、
自分にそっとかけられた外套が目に入る。
そして鼻をくすぐる、落ち着く香り。
「……この匂い……テュエルの……」
胸がふっと緩む。
(……気づいてくれたんだ……)
嬉しさが喉に溢れてくる。
扉の向こうにテュエルの気配があるのに気づき、
レイラは外套を抱きしめたまま歩き出す。
「テュ……」
呼びかけようとした、その瞬間。
またもや女官の“転倒劇”
テュエルの目の前で、女官が派手に転んだ。
「きゃっ……!」
テュエルは即座に受け止める。
「大丈夫ですか。お気をつけを。」
柔らかすぎる声。優しい手。
女官は顔を真っ赤にした。
「テュ、テュエル様……///
申し訳……ございません……
テュエル様は……お怪我は……」
なかなか立ち去らない。
しかも、彼の腕にそっと添えようと――
その瞬間、テュエルの内側がサァァァ……と黒く冷えた。
(……触れるな)
(俺の体はレイラ様だけのものだ。
勝手に触ろうとするんじゃねぇ……)
笑顔の奥では完全に“氷点下の修羅”だった。
咄嗟に割り込むレイラ
「テュっ、テュエル! 外套、ありがとう!」
あまりにも焦った声。
女官はレイラの存在に気づき、青ざめて逃げ去る。
二人の間に残る、気まずい沈黙。
レイラは胸元を押さえた。
(……知ってはいたが……
テュエルって……本当に誰にでも優しいんだな……)
もやもやが心を蝕む。
テュエルはレイラから外套を受け取りながら、
いつもよりほんの少し距離を置いた。
(あぁ…レイラ様…♡でも…。)
(……触れたら我慢できない……近づくな……)
その“わずかな後退”がレイラの胸にまた刺さった。
(いま……離れた……?)
――――
気を紛らわせようと、レイラはシャガルを探した。
今日も、皇族専用の大岩――シャガルの“特等席”で寝そべっている。
「シャガル。」
声をかける。
いつもなら勢いよく飛び起きて
笑顔で抱きしめてくれるはずが――
「……レイラ。何か用か……?」
寝たまま、距離を保った声。
(……近づいたら絶対抱く。
余よ、耐えろ……耐えるのだ……)
レイラの胸がチクリと痛む。
「……いや……
なんでもない……
用事を思い出した……」
逃げるように背を向けた。
シャガルは舌打ちする。
(?どうしたんだ、レイラ……)
(……くそ……触れたい……抱きたい……)
――――――――――
夕方。
縁側に座り込み、膝を抱えて小さく震えていた。
風が冷たくても胸の熱は消えない。
テュエルの言葉が蘇る。
「“自分だけが求めすぎてるのでは” とか……
“嫌われたのでは” とか……」
シャガルの言葉も。
「誰かに取られるのでは、とか」
唇が震えた。
「……っ……」
ぽたり、と涙が落ちる。
(ほんとうに……その通りじゃないか……)
(……二人が……遠い……)
(寂しい……)
(触れてほしい……)
禁欲の寂しさ。
女官への嫉妬。
自分が嫉妬していることへの自己嫌悪。
全部が胸を締めつけて、
涙が溢れた。
「ぐすっ……」
(いつから……こんなに泣き虫になったんだ……)
(前は……一人で寝るのが当たり前だったのに……)
(今は……二人の気配がないと……落ち着けない……)
両手で顔を覆い、肩を震わせる。
⸻
そして――
「姫様……?」
心配そうな声が降る。
門兵がそっと近づいてきた。
「どうかされましたか……?
まだ冷える季節です。
もしよければ……お話を……
中へ…入りましょう……?」
肩へ手を伸ばそうとして――
その瞬間。
⸻
低い声が二重に重なる
テュエル
「――レイラ様に触れるな。」
シャガル
「余の妻に触れるな。」
「そこから一歩でも動いてみよ。捻り潰す。」
背後から落ちた低い声。
空気が震えた。
レイラはびくりと肩を震わせ、振り返る。
そこには、
怒気を纏ったテュエルとシャガル。
完全に“冷えた獣”の目。
レイラは息を呑み――
目を伏せたまま駆け出した。
「レイラ様?!」
「レイラ!!」
呼ぶ声も追いかける足音も聞こえたが、
止まれなかった。
涙で視界が滲む。
⸻
門兵だけが震え立ち尽くし、
残された二人の男は――
守りたい相手に逃げられた事実に、
どうしようもなく立ち尽くしていた。




