満月の夜、堕ちる
レイラ様の寝息が、静かに胸元へ落ちてくる。
白い月明かりが彼女の肩を照らし、
まるで――“俺の腕に収まるべき場所はここだ”と告げているようだった。
……こんな夜が来るなんて。
四年前の俺に言ってやりたい。
「望めば触れられる立場になったぞ」と。
「いや、触れるどころか――求められた」と。
信じられるか。
あのレイラ様が、俺の名を呼び、
震える指先で俺を抱き寄せてくれたんだ。
思い出すだけで、胸が熱くなる。
喉が乾き、理性がきしむ。
昨夜、何度も確かめ合った体温の余韻が、
まだ腕の中に残っている。
……抑えたつもりだった。
驚かせないように。傷つけないように。
だが、正直――限界なんて何度も超えかけた。
あんな声で名前を呼ばれて、
「離れないで」と縋られて……
どうして正気でいられる。
十一年前は触れることすら許されず、
四年前は心だけが追いすがって、
それでも届かなかった想いが――
今は“夫”としての、俺の胸に眠っている。
触れられる。抱きしめられる。
口付けも抱擁も、全部俺のものだ。
“夫”という名の下に、堂々と。
……レイラ様。
あなたはきっと分かっていない。
たった一晩で、どれほど俺を狂わせたか。
無防備に俺の腕の中で眠られて、
どうして落ち着いていられる。
喉の奥で、ひどくわがままな声が生まれる。
――ずっとこうしていたい。
――絶対に手放したくない。
――誰にも渡さない。
⸻
だが、同時に思い出すんだ。
四年前の夜のことを。
あの時の選択を、俺はいまだに完全には肯定できない。
ダイン陛下を殺すと決めた瞬間さえ、迷いはなかった。
レイラ様を売ろうとした男……
許すどころか、生かしておく理由すらなかった。
だからソンゴルの使者に取引を持ちかけた。
“姫を望むなら王の首を持っていけ。
その代わり、俺を凱帝国の将軍として迎えろ”――と。
本当は、あの時すでに決めていた。
レイラ様だけは、絶対に逃がすと。
権力を手にすれば――
レイラ様の行方を国ひとつ使って探せる
どこかに囚われていても奪い返せる
たとえ捕えられても、俺なら逃がせる
守る場所も、隠す場所も用意できる
将軍になること自体が、レイラ様を取り戻すための地盤だった。
権力を手に入れれば、必ず迎えに行ける。
そう信じていた。
……だが、そこでひとつだけ俺は賭けた。
そしてそれは、確信に近かった。
――レイラ様は、煌龍国には向かわない。
陛下は“城の隠し通路から抜けたら煌龍国を目指せ”と命じていた。
だが俺は知っていた。
レイラ様は外の世界を知らない。
見知らぬ地へ飛び込むよりも、
己に課された責務と、この双国の民を捨てることを選ばないお方だ。
逃げるという選択肢をとらない。
恐怖より、責任を優先する。
そんな人だ。
だから俺は――
捜索範囲を双国一本に絞った。
しかし、レイラ様は俺の予想よりずっと強く、ずっと賢く、
そして、圧倒的に“気配に鋭敏”だった。
逃げ、隠れ、息を殺し、
痕跡すら残さない。
俺は三年間、その背を追い続けて――
一度も捕まえられなかった。
俺の気配も、
陛下の心臓を喰ったせいで別物に変わっていた。
レイラ様には届かなかった。
ある日、膝をつき、
「もしかしたらレイラ様はもう……」
と喉の奥で凍る考えがよぎった瞬間――
月明かりに、きらりと光った一本の髪。
拾い上げた瞬間に分かった。
世界にただひとつ、俺を救う光。
――レイラ様の髪だ。
胸が痛いほど脈打った。
狂気じみていようが構わない。
あれは、奇跡を握りしめた瞬間だった。
そこから始まったのは、
レイラ様との終わらない“かくれんぼ”。
気配を消す姫と、それを追う俺。
運命に翻弄され続けた、長い三年間。
……本当に、あの選択で良かったのだろうか。
もしあの時、レイラ様を抱えて逃げていれば――
こんなに遠回りせずに済んだのかもしれない。
あんなに泣かせることも、傷つけることもなかったのかもしれない。
⸻
けれど今、こうして。
レイラ様が俺の腕の中で眠っている今。
“選び続けてくれた”と涙で言ってくれた今。
……俺は、生きていてよかったと思える。
腕の中の温もりが、
四年前の後悔すら静かに溶かしていく。
あなたが俺を抱き返してくれた夜。
俺を呼び、求めてくれた夜。
その全てが、あの後悔を上書きしていく。
レイラ様。
あの時、あなたを逃したことは間違いだった。
三年も離れ離れになるなんて思いもしなかったから。
けれど――
あなたが俺を選んでくれた今となっては、
あの間違いでさえ俺の人生の“伏線”だったのだと思える。
だって今、こうして。
あなたは俺の妻で、
俺の腕の中で眠っていて――
望めば抱けて、
名前を呼んでくれて、
俺を求めてくれる。
……これ以上、何を望めばいい。
いや。
本当はまだ望んでいる。
もっと深く、
もっと強く、
もっと俺だけを見てほしいと――
こんなにも、醜く、愛している。
そして俺はそっとレイラ様の頬へ手を伸ばし、
人に触れるときとはまるで違う、
本当に大切なものだけに触れる指先で彼女の頬を撫でた。
すると――
昨夜、涙の中で震える声で言われたあの言葉が、
胸の奥でゆっくりと蘇る。
『私は……初めては……テュエルがよかったの……!』
その瞬間の衝撃が、
身体の奥でふたたび爆ぜる。
俺でよかった。
俺がよかった。
俺“しか”嫌だったんだ……。
信じられるか。
あの言葉を聞いた時、
心臓は確かに一度止まった。
いや――一回死んで、
レイラ様に生かされたくらい嬉しかった。
(殺す気か…じゃない、殺されたんだ)
レイラ様の寝顔を見つめながら、
胸の奥で静かに――
しかし抗えないほど強く確信する。
――俺はもう、この人から離れられない。
** いや、離れる気もない。**
** そして絶対に離さない。**
だって昨夜、
この腕に抱きつき、
泣きながら俺の名を呼んだのは――
他の誰でもない、レイラ様自身だったのだから。
その事実ひとつで、
俺の人生は救われ、
そしてもう二度と手放せなくなった。




