心を見せてくれるお前が、愛おしい
互いの体温が押し合うほどの距離で、
シャガルの呼吸はいつもより荒く、熱を帯びていた。
肌越しに伝わる衝撃も、いつもより強い。
その最中——
シャガルは、心の奥で独り言のように呟いていた。
(……全く……)
(余は、なんと情けないのだ……)
焦りが滲み、
普段のような余裕も、静かな制御もきかない。
(レイラに気を遣わせ……)
(心を見せるのが怖いなどと……)
(王の矜持も、何もあったものではない……)
腕にこもる力が抜けない。
熱が引かない。
(……加減が……わからぬ……)
レイラが来てくれた理由も、
彼女の優しさも、
(……無自覚なのだろうな……)
(なぜ余のもとへ来た……)
(同情か……情けか……それだけだろう……)
そんなふうに、
自分に最も痛い答えを勝手に決めつける。
(……愚かだ……)
それでも——
胸に触れるレイラの温度が愛しくてたまらなかった。
(そうだとわかっているというのに……)
(……それでも、愛しい……)
(余は……その情けですら……)
(……嬉しく思ってしまうのだ……)
シャガルは黙っている。
黙ったまま、抱き寄せる力だけがじり、と強くなる。
考え事や隠し事があるときの、
彼特有の静かな沈黙。
気づけば、体が勝手に熱を求めてしまっていた。
(……テュエル……)
(あの猿は……)
ふと記憶がよぎる。
あの日の、三人で過ごした夜。
テュエルがどれほど強くレイラを抱いたか、
どれほど余と張り合ったか。
(……強かったな……)
その思い出が、
嫉妬とも違う刺を胸に残し——
無意識に、
抱き寄せる腕がさらに力を込めていく。
距離は詰まり、
触れ合う熱は深く、強く——
もはや制御もきかない。
……明日からは、普段の余に戻らねばならぬ……
だが……今だけは……許せ……
余を……受け入れてくれ……
レイラ……
レイラの身体が、ひとつ震えた。
「……っ!!」
抱き寄せる腕も、
口づけも、
ひどく強くて、どこか余裕がない。
レイラはすぐに気づいた。
(……いつもと……違う……)
普段のシャガルなら、
触れ方は深く、ゆっくりと溶かすようで——
息がほどけてしまうほど優しい。
なのに今は、
どこか追い立てられるように、
すがるように、
抱きしめる力が強すぎる。
奪うような口づけに、
思わず息が詰まるほどだった。
(……シャガル……?)
(焦ってる……?)
間近で触れ合う肌越しに、
彼の鼓動が異様に速い。
そして——
レイラの嗅覚が、
微かな“感情の香り”を拾った。
孤独。
焦燥。
寂しさ。
自分を見失うほどの不安。
「……!」
胸が締め付けられ、
レイラの目に涙が浮かぶ。
シャガルは気づき、動きを止めた。
熱だけが互いの間に残る。
「レイラ……?」
「どうした……余が、何か……」
いつになく戸惑った、低い声。
その瞬間——
シャガルの心の中に、鋭い焦りが走った。
(……痛かったか?)
(加減を誤った……?)
(嫌……だったか……)
(まずい……なにをしているのだ、余は……)
普段の威厳も余裕も影を潜め、
ただただ“傷つけてしまったのでは”という焦燥だけが滲む。
「ごめ……、ちがっ……」
言葉がうまく出ない。
胸がいっぱいで。
そして、レイラは気づいてしまう。
(私は……)
(シャガルが“完璧すぎて”怖かったんだ……)
(勝ちたいんじゃなかった。)
(ただ……シャガルの本音が見えなくて……)
(どれほど愛していると言われても——
“心の底”が分からなくて。)
でも今は。
こんなに不器用で、
嫉妬して、
焦って、
寂しがって、
掴み損ねるのが怖くて強く抱きしめてくる。
そんな彼が、
どうしようもなく愛しくて震えた。
レイラの頬を伝う涙に気づきながら、
シャガルは困惑した顔のまま、そっと問いかける。
「レイラ……? 本当に……どうした……?
余は……お前を……傷つけてしまったのか……?」
レイラはかすかに笑って、首を横に振った。
「……嬉しくて……」
「……嬉しい?」
シャガルの眉がわずかに寄る。
疑うようでもなく、ただ理由が分からないという顔。
「なにがだ?」
レイラはそっと彼の頬に触れた。
「シャガルの……本音が」
「初めて聞けた気がするの……」
「今日のシャガルの気持ちが、すごく……嬉しい」
シャガルの目がわずかに揺れる。
「私は…シャガルが強いから好きなんじゃない。
強さ“だけ”じゃないシャガルが好きなんだ。」
重ねた体がわずかに震える。
シャガルの呼吸が、ほんの一瞬止まった。
レイラは息をのみ――
胸の奥に積もり続けていた想いを、そっと解き放つように語り始めた。
過去をひとつひとつ、
宝石を掌で確かめるように拾い上げながら。
「シャガルと出会ったころ……
私は、自分は“強くなきゃいけない存在”だと思い込んでた」
「大きな体で……人を守るためにいるんだって。
そうしなければ価値がないって……ずっと、思ってた」
視線がシャガルへ戻る。
その眼差しは泣き笑いのように優しい。
「でも……お前は違った」
「私に花を贈ってくれて……
宝石よりも美しいって、目を褒めて……
“お前は女だ”って……」
「揺らしたんだ……私を」
沈黙。
シャガルの喉が、ひく、とかすかに鳴った。
痛みとも安堵ともつかぬ音。
レイラはそっと息を吸い、続ける。
「……お前と出会って、初めて、自分を好きになれた」
その言葉が、刃のようにシャガルの胸へ刺さる。
息を止めたような顔になる。
「凱の戦のとき……お前は私に“女だ”と、たんぽぽを挿してくれた」
「茨木に折られて……もう立てなかった時……
お前は、あの致命の一撃から守ってくれた」
「天墓使に倒れたときは……
私に、血を誇れと……立たせてくれた」
そして声をそっと落とす。
「あの八岐大蛇のときも……」
「シャガル。
お前は――
必ず……私のもとへ来てくれた」
「全部……本当に、嬉しかったんだ……」
シャガルは俯く。
強さと弱さの境界がほどけるように、
その横顔はいつになく脆くて、不器用で、
レイラの胸がじんと熱を帯びる。
「……私は、強いシャガルが好きだ」
レイラは震える指で、そっと彼の頬をなぞった。
「お前の……“心の強さ”に、惹かれたんだ」
「でも……今日みたいに」
「不器用で、焦って……
寂しがって……
私を失うのを怖がって……」
「そんなお前は……もっと好きだ……」
涙を伝わせながら続ける。
指先が、シャガルの頬をゆっくりと滑り落ちていく。
まるで、彼の孤独そのものに触れようとするように。
「心を見せてくれるお前が……
たまらなく、愛おしいんだ……」
静寂が訪れた。
互いの息だけが触れ合う距離で、
シャガルの体は硬直したまま微かに震えていた。
──耐えきれないほどだった。
レイラの言葉が、胸の奥を満たし、溢れさせ、軋ませる。
レイラはそっと囁く。
「シャガル……」
「私は、“強さ”じゃなくて」
唇が触れそうなほど近く、まっすぐに見上げて。
「お前そのものを……愛してるんだ……」
「言ったこと……なかったな……」
そう言って、覆いかぶさるシャガルの胸に
静かに、ぎゅっと腕を回した。
「本当に、愛しているんだ……」
レイラが静かに腕を回し、
覆いかぶさるシャガルの胸にそっと抱きついた、その瞬間。
シャガルは――完全に固まった。
「………………」
まばたきすら忘れたように。
呼吸の仕方も一瞬わからなくなったように。
レイラの言葉が、胸の奥の深いところへ
ぽたり、ぽたりと落ちていき――
理解が追いつくより先に、感情だけが溢れ始める。
(……余を……)
(強さではなく……余そのものを……?)
胸の奥で、誰にも触れられたことのない場所が
静かに、しかし容赦なく震えた。
レイラの細い腕が自分の背でぎゅっと締まる。
その温もりが、遅れて――
やっと、シャガルの中で“現実”として成立した。
(……レイラ……)
ゆっくりと、まるで壊れ物に触れるように。
シャガルの腕が動き出す。
レイラの背へ、腰へ、
大切な宝を抱きしめるように回っていく。
胸の奥からせり上がる。
愛しい。
愛しい。
愛しい——。
言葉にならない熱が喉まで満ち、
声にならずに息だけが震えた。
「…………レイラ」
ただ、名前を呼ぶだけで精一杯だった。
その声にはもう、
さっきまで胸を締めつけていた焦燥も、
誤魔化す強さも、孤独も、
すべて溶けてしまっていた。
残ったのは、ただ深く柔らかな愛だけ。
レイラが胸に腕を回し、
静かに抱き寄せてくる。
そのぬくもりが落ちてきた瞬間――
シャガルの心に、得体の知れない衝撃が走った。
(……なぜだ。
なにも言っておらぬのに……
なぜ余の“底”まで見える……)
理解されることに慣れていない男の、
小さく、必死な戸惑い。
弱さは隠すものと思っていた。
王であれ、強くあれ、と自らを縛ってきた。
だから――
“弱い余”を抱きしめて、喜ぶ者がいるなど。
(……そんなこと、思いもしなかった……)
胸が軋む。
どうしようもなく、愛しさが溢れる。
(レイラ……
お前はどこまで余を……壊す……)
(あの猿が壊れた理由も……
少しだけ、わかってしまう……)
離れたくない。
いや、離さない。
——いや、離れられない。
腕に力がこもる。
抱きしめても抱きしめても足りない。
口づけても、触れても、
互いの熱を繋げても、
それでもなお、満たされない。
(どうすれば……
この愛しさを伝えられる……)
レイラの指が背に添えられるだけで、
心臓がひどく脈打って息が乱れた。
(余は……どうすればいい……)
そう思いながら、
それでも離れようとは微塵も思わず、
ただレイラを胸に強く抱きしめた。
レイラが胸に腕を回して抱き寄せたまま、
シャガルはしばらくの間、言葉を失っていた。
呼吸だけが、浅く、熱く、触れ合っている。
やがて——
ゆっくりと、ほんの少しだけ、シャガルが顔を上げた。
まるで“再起動した”かのように。
瞳の奥に迷いはもうなく、
王としての誇りと、男としての愛が同時に燃えていた。
レイラを胸に抱いたまま、
シャガルはゆっくりと息を吸い、吐いた。
迷いが消えた眼差しで、静かに言う。
「……レイラ。
ひとつだけ……覚えておけ」
少し伏せた声は低く、熱を押し殺している。
「お前が余を愛しているというのなら——
余が抱いている想いは、その比ではない」
言葉にする瞬間、喉がわずかに震える。
「お前を求めるこの心は……
誰にも、何にも、止められぬほど深い」
頬を寄せ、耳元で押し殺すように囁く。
「レイラ…お前は……生涯、余に勝てぬ。」
レイラの背を包む腕に、静かな力がこもる。
「それほどに……惹かれている」
「負けぬ。
愛の深さでは……決して、お前などに」
わずかに照れを含んだ、しかし真剣な“対抗心”。
レイラが思わずくすりと笑うと、
シャガルは、息を震わせながら囁いた。
「……だから、離れるな。
今夜は……余を拒むな」
レイラは静かに首を振る。
「拒むわけ……ないだろう…」
その瞬間——
二人の距離は再び、溶けるように消えた。
止まっていた熱が、
途切れていた想いが、
ふたたび流れはじめる。
触れ合う指。
重なる吐息。
強く抱き寄せる腕。
甘く震える声。
何度も、言葉では言えないほど深く確かめ合いながら。
—――夜は、ゆっくりと更けていった。
朝の光が差し込むころ。
レイラはシャガルの胸にそっと寄り添ったまま、静かな寝息を立てていた。
シャガルだけが、微かに目を開けている。
レイラの髪に顔を埋めたまま、
指先は無意識の癖のように、その髪先をくる、くる、と巻きつけては解き、
また巻きつけて遊んでいた。
眠るレイラの髪がふわりと揺れるたび、
淡い香りがシャガルの呼吸に混ざる。
(……甘いな…)
シャガルは小さく息を吐き、
その髪をそっと指から滑らせた。
まるで、互いの心の欠片を
夜のうちに全部交換し終えたかのように。
……ただ、ひとつだけ。
忘れてはいけない、ある“取り決め”のこと。
レイラは無意識のまま、その取り決めを破ってしまっていた――
シャガルのまぶたは徐々に落ちていく。
レイラの髪を最後にもう一度、くるりと巻きつけたあと、
彼は静かに微笑み、レイラを抱き寄せたまま、再び眠りへと沈んでいった。




