強さ以外で、何を与えられるだろう
あの後、朝から、二人の張り合いは静かに始まっていた。
シャガルは――
勝つ気だった。
いや、勝つつもりだった。
まずは手始めに、レイラの髪を結んでやろうと、
そっと後ろへ回り、慎重に手を伸ばす。
(よし……こう、まとめて……む? この紐は――)
指が少しもつれる。
見たことのある結び方だが、再現できない。
その瞬間。
「レイラ様」
もう、テュエルが背後に立っていた。
表情は穏やか。
だが目だけが問答無用で告げている。
テュエルは、きっぱりと言った。
「何をしているんですか?!」
「あなたに触らせる髪ではありませんよ?!」
続く声は淡々としているのに、遠慮なく刺さる。
「レイラ様の美しい髪に
枝毛でもできたらどうするつもりですか!!」
「い、いや、余は――」
反論する暇などない。
テュエルの指はすでに動いていた。
紐を取り、
髪を撫でつけ、
形を整え、
流れるようにまとめ上げる。
ほんの数息のうちに――
見事な一つ結びが完成していた。
レイラは嬉しそうに微笑む。
「ありがとう、テュエル。」
「いえ^^ “当然のことをしたまでです”」
シャガルは硬直したまま動けない。
(……ぐ、ぐぬぬぬぬぬ……!)
テュエルはわざとらしくシャガルへ横目を向けた。
声にはしないくせに、
シャガルにははっきり聞こえる。
【あなたは下がっていてください】
【“できない”なら、最初から手を出さないことです^^】
シャガルのこめかみが震えた。
(余の……余のほうが先に手を伸ばしたのに……!)
その悔しさを噛みしめたまま、朝は過ぎ――
昼になれば、
レイラが手を伸ばす前に、
テュエルが当然のように茶を淹れてしまう。
(ま、また先を……!)
散歩に誘おうとすれば、
その道の点検を “偶然にも” すませてきたテュエルが
さりげなく同行してしまう。
(……こ、こやつ……!)
シャガルがレイラの肩に外套をかけようとした瞬間には、
テュエルがふわりと温めた布を渡してしまう。
(……なんなんだ……あやつは……!)
別にテュエルが張り合っているわけではない。
彼にとっては『いつもどおり』の献身だ。
しかしシャガルには違った。
すべてが、
“自分がしたいことを先回りされていく敗北”
に見えた。
昼から夕方にかけて、シャガルは何度も勝負を挑んだ。
だが結果は――惨敗続きだった。
そして極めつけは、夕刻。
レイラの好きそうな菓子まで取り寄せ、
“今日こそは”という想いと共に差し出した、その瞬間。
レイラは嬉しそうに笑って言った。
「シャガル…ありがとう。
ん?これ、テュエルも持ってきてくれたやつだな?
お前達、本当に実は仲良いよな」
満面の善意、そして完全なる誤解。
(…………っっ!!)
シャガルの魂が、物理的に “スッ” と抜けた。
横で水を飲んでいるだけのテュエル――
しかしシャガルにだけ、その表情は
“勝者の余裕” そのものに見えた。
(…………………)
シャガルは目を伏せる。
怒りでも嫉妬でもなく、
ただ 無気力 が落ちていく重さ。
余の努力は、今日も……届かなんだ……。
そんな沈黙があった。
──そして夜。
レイラが眠りにつく前の静かな時間。
「では……余は自室へ戻る。」
シャガルは立ち上がる。
いつも通りの声音だった。
だがその背に、ほんのわずか――
影が落ちていた。
席を立つ直前、
シャガルは短く、心の底で呟いていた。
(……どうせ、レイラの自室には
あの猿が見送るのだろう。
……もう、今日はよいか)
誰にも言わない。
見せるつもりもない。
妖王としての矜持。
――だが。
――ぴくり。
レイラの鼻が、かすかに動いた。
“……孤独の、匂い……?”
レイラだけが拾える、
感情のごく微細な香り。
その一滴が胸の奥に触れ、
きゅ、と静かに震えが走る。
シャガルが横を向き、歩き出す。
その、ほんの一瞬の横顔。
強さでもなく。
王の威厳でもなく。
豪胆さでもなく――
“ひどく、静かな寂しさ” が滲んでいた。
シャガルはゆっくり扉へ向かう。
(余は……
王であること、
強いこと以外で……
こやつに勝てるところは……あるのだろうか……)
誰にも漏れない独白。
誰にも届かないはずの弱さ。
しかし、レイラだけは――
嗅覚で、それを捉えてしまう。
(……シャガル……?)
言葉にできない何かが、
鋭い痛みとなって胸に沈んだ。
そして今日のどの瞬間よりも、
一番強く心に残ったのは……
去り際の、
あの寂しすぎる横顔。
答えのない孤独だけが、
重たいしこりのようにレイラの胸に落ちた。
その余韻を抱えたまま歩くレイラの横で、
テュエルはいつも通り淡々と寄り添い――
テュエルに部屋の前まで送られる
「レイラ様^^ おやすみなさいませ」
「うん…、おやすみテュエル」
レイラは一度、自室へ入った。
だが――
(……さっきのシャガルの横顔……)
胸の奥に沈んだ“寂しさ”が
またふっと疼いた。
「…………。」
(シャガル……どうしたんだろう……)
気づけばもう、レイラの足は
シャガルの部屋へ向かっていた。
***
シャガルは寝台に横たわり、
天井を静かに見つめていた。
(……なんだ……)
(余は……)
(焦っている……のか?)
気づかぬほど抑えていた鼓動が、
耳の奥で どくり と重く響く。
(……ふ……)
(昨夜の……あの“月の女神”のようなレイラを見たら……
焦りもする……)
月明かりに照らされたレイラの横顔が脳裏に浮かび、
胸の奥がじり、と熱を帯びた。
(余は……夫となったというのに……
まだ何ひとつ、力以外で示せていない……)
(いや……)
そこへ――
記憶が、突き刺さるように蘇る。
凱帝国との戦で、無理を押して倒れ込んだレイラ。
茨木童子に肋骨を折られ、息も絶え絶えに崩れ落ちたレイラ。
天墓使との戦い――
自分は結界に閉じ込められ、
レイラが袋叩きにされるのを “見ていることしか” できなかった自分。
そして――八岐大蛇の雷撃に焼かれ、
二重覚醒の反動と重度の火傷で、
血の気ひとつないほどに崩れ落ちた、あの瀕死の姿。
(力以外……だと……?)
(……その力ですら……届いておらぬではないか……)
胸の奥に、冷たい痛みが沈む。
(力があっても……
完全に守れたことなど、一度として無い……)
爪を噛むような沈黙が落ちた。
(何が勝れる……?
何を与えられる……?
余に……力以外の何がある……)
「…………。」
押し殺した息が、弱く揺れた。
「……くそ……」
強さを持つ者だけが味わう、
深く、静かな敗北感だけが残った。
その時。
――ふ、と空気がわずかに揺れた。
足取りの軽い、
小さな気配が近づいてくる。
シャガルには、すぐにわかった。
(……レイラだな)
寝台からゆっくりと起き上がり、座り直す。
コン、コン。
小さく戸を叩く音。
シャガルは扉を開けた。
「レイラ。……どうした」
レイラは少し俯き、
けれど真っ直ぐで迷いのない声で言った。
「……シャガルと……」
「…一緒にいたくて……」
シャガルの瞳が、わずかに揺れた。
その揺れのまま、
そっと手が伸び――レイラの髪を、指先でひとすくい触れた。
「…………」
短い沈黙のあと、低く小さな声が落ちる。
「……入れ」
「……うん」
レイラは静かに部屋へ入った。
(……ふ……余の焦燥に気づいたか)
(二日続けて……ここへ来るとは)
呆れたように、しかしどこか安堵を含んだ息が
胸の奥でひっそりと溶けた。




