朝から、もう一人の夫にマウントを取られた
薄い光が、障子越しに寝台を照らしている。
夜とは違う、柔らかな朝の静けさ。
レイラは、テュエルの胸に身を預けたまま、
ゆっくりと呼吸を整えていた。
体が、軽い。
いつもより、どこも痛くない。
――大丈夫だ、と
身体が先に教えてくる。
「……テュエル」
「はい、レイラ様」
すぐ返る声。
低くて、穏やかで、少しだけ近い。
「シャガルと、妖界へ行くつもりなんだが」
一拍。
「お前も、来てくれるだろ?」
疑問形。
けれど、答えを待つ気配はなかった。
テュエルは、短く息を吐く。
「……もちろんです」
呆れを含んだ声色。
それでも、どこか隠しきれない温度。
「俺が、レイラ様だけで行かせるわけがないでしょう」
レイラは、返事の代わりに――
小さく、楽しそうに笑った。
「ふふ……」
「全く……」
額に、軽く指が触れる。
「危険だと、わかっているはずなのに」
「困った人です。本当に」
レイラは、顔を上げて微笑む。
「だって……」
「テュエルが、守ってくれるって」
「信じてるから」
「…………」
(殺す気か)
(ふざけんな)
(――もう一回…)
(……いや、だめだ)
(くそ……)
「……もちろんです」
低く、覚悟を含んだ声。
「俺は、そのために存在しています」
「次は――次こそは」
「指一本、触れさせません」
「絶対に」
「うん……」
レイラは、短く答えて、
そのまま、再び胸に顔を埋める。
「……ありがと…♡」
「……」
(……死ぬ)
(……我慢)
――――――
シャガルは、久しぶりに“満ち足りた”目覚めを迎えていた。
胸の奥が、静かに熱を帯びている。
昨夜の温もりが、まだ指先に残っていた。
(…レイラ)
(こんなにも眠りが深くなるとはな…
まったく、余をどうするつもりだ)
今日は何の予定もない。
(ならば今日は――
レイラの傍で過ごすとしよう)
(ただ隣にいるだけで良い。
声を聞き、触れ、笑わせられれば…それで)
妖王らしい威厳を保っているつもりでも、
心の中は明らかに浮かれている。
(…ふむ。余もたまには、甘えたくなる)
そう思いながらシャガルは、
ゆっくりと居間へ向かった。
――このすぐ後に地獄を見るとは、
この時のシャガルは露ほども知らない。
そんな、実に穏やかで甘い計画を胸に、
身支度を整え、のんびりと廊下を歩く。
そして、見た。
……その考えは、
居間の戸を開けた瞬間、粉々に砕け散った。
そこにいた。
長椅子に、横並びで。
――近い。
いや、近いという言葉では足りない。
レイラは、ほとんどテュエルに預けるように座っている。
距離感は、護衛と主のそれではない。
そして。
テュエルの両手が、
レイラの手を包み込むようにして、ゆっくりと動いていた。
その指先には、淡い香りが宿っていた。
雪国の花から抽出した、清らかな香油。
強すぎず、近づけばふわりと香る程度。
――レイラが好きな、静かな香り。
揉む。
指を流す。
手首を押し開き、ゆっくり戻す。
力の加減は完璧で、まるで彼女の身体を
「知り尽くしている」 かのようだった。
丁寧すぎる。
必要以上に、優しい。
“労わり”ではなく、もはや“愛撫”の領域。
レイラはというと、
香りに包まれながら、微笑んでされるがままだ。
きゃっきゃ、うふふ――
そんな効果音がつきそうなほど、穏やかで甘い空気。
――冷える。
空気が。
内側から、急激に。
シャガルは、その場で静止した。
まるで視界が汚れたものを見たように、呼吸すら止まる。
表情はほとんど動かない。
だが、目だけが――ゆっくりと、細く、鋭くなる。
(…………気持ち、悪い)
胸の奥で、何かがひっくり返るような感覚。
嫌悪と拒絶と、理解不能な嫉妬が一気に込み上げる。
(なんだ、その……“触れ方”は)
(余が今まさに、レイラを甘やかそうとした、この“瞬間”で)
喉の奥に、形容できない“吐き気”がまた、せり上がる。
もう一人の夫が、妻の手を取っている。
しかも、朝から。
それも――零距離で。
(待て)
(落ち着け、余)
(これは……何かの……何だ?)
もう一度、よく見る。
テュエルの指は、
レイラの手を丁寧に揉みほぐしていた名残を残しつつ――
そこから、自然な流れのまま
既に外していた指輪を取り上げ、
柔らかい布でそっと磨き始めた。
布を取り、
まるで宝石職人のような手つきで磨き始める。
慣れた動きだった。
“過去にも何度もしてきた”男の仕草。
レイラも、完全に気を許している。
微かに笑ってさえいた。
(…………)
シャガルの背筋を、
ぞわりとした嫌悪が逆流するように走った。
――馴染みすぎている。
距離が近い。
息が触れ合うほど自然に寄っている。
だが、それ以上に腹立たしいのは――
十年来の付き合いとは思えない、
“付き合い始めの恋人”みたいな初々しい空気が漂っていることだ。
長年の信頼と、
初期の甘さが同居している関係など、本来あり得ない。
それなのに、この二人は平然とそれをしている。
――不快だ。
甘さと信頼が不釣り合いに混ざり合っている、その空気そのものが、
シャガルの神経を逆撫でしていた。
(……は?)
シャガルの背後で、
何かが静かに折れて落ちた。
音はしない。
ただ、冷えていく。
(……つがいの戯れ、か)
結論は、静かに下された。
この場に、
自分の居場所は、ない。
少なくとも――
今、この瞬間は。
シャガルは、何も言わず、
ただ一歩、前に出た。
その気配に、
ようやくテュエルが顔を上げる。
レイラも、遅れて振り返った。
「おはよう、シャガル」
無邪気な声。
それが――
致命傷だった。
居間に、沈黙が落ちた。
レイラは気づいていない。
――いや、正確には「気にしていない」。
テュエルの隣に座ったまま、
指を、指輪を預け、穏やかな顔で朝の空気を味わっている。
シャガルの視線が、
ゆっくりと、確実にテュエルへ向いた。
【貴様……もしや…】
【レイラを……】
言葉にはならない。
だが、殺気だけは、はっきりとあった。
テュエルは、気づいている。
気づいた上で、
視線を返さない。
ただ、指の動きを止めず、
いつも通りの距離感で、レイラに、指輪を磨いている。
(……あぁ)
(この顔……)
内心で、静かに息を吐く。
(はい…)
(上書き、してきましたが?^^)
(今朝一番で)
(念入りに)
シャガルのこめかみが、ぴくりと動いた。
【……やはり】
【やはり、こいつは好かん】
空気が、さらに冷える。
だが――
レイラは、そんなことお構いなしに微笑む。
「テュエル、ありがとう。
指、すごく楽になった」
その一言で――決定打。
テュエルは穏やかに微笑む。
「どういたしまして。
痺れ、早く取れるといいですね……レイラ様」
声も表情も、いつも通り静か。
レイラの目には、ただの丁寧な返事にしか見えない。
――だが。
シャガルには、テュエルの内側が丸見えだった。
ぽわ……ぽわ……と、
テュエルの心の中から立ち昇る 濃いピンクの気配。
(はぁ…♡…レイラ様…♡)
(かわいい…♡もっとしてあげたい…♡)
(もっと触りたい…♡あぁ…尊すぎて死ぬ♡)
声には出ていない。
表情にも出ていない。
レイラにも全く伝わっていない。
――だが。
シャガルには、全部聞こえた。
全・部・だ。
(……隠しておるつもりか、あやつめ!!!)
内側はピンク色全開なのに、
外側は涼しい顔で仕事をこなすテュエル。
そのギャップに、シャガルのこめかみがピクついた。
テュエルは、ほんの一瞬だけ視線を上げた。
シャガルと、目が合う。
ほんの一瞬。
だが、十分すぎる。
テュエルの心の奥で、
黒い笑みがふわりと広がる。
(守るのは、俺です)
(触れるのも、俺です)
(安心させるのも――)
(……全部)
(お ・ れ。)
挑発は、言葉など要らない――
ただ目が合えば、それで充分だった。
シャガルは、ゆっくりと目を細めた。
【……ほう】
【そう来るか】
そんな空気など微塵も気づかず、
レイラはふいに「あっ」と小さく声を漏らした。
「……少し、用事を思い出した。席を外す」
(ヤヒロを……明日、呼ばなくては…)
立ち上がり、まったく疑っていない足取りで部屋を後にする。
その途端、
ぴんと張り詰めていた空気が、わずかに揺らいだ。
テュエルも、シャガルも、
同時に視線を逸らす。
――無言の休戦。
だが、休戦は休戦でしかない。
すでに火種は落ちた。
互いに、はっきりとそれを理解していた。
窓の外には、柔らかな朝の光。
昨夜は満月だった。
次の新月――妖界へ渡る刻までは、
もう一月も残されていない。
静けさだけが満ちた朝に、
目には見えない戦いの音だけが、確かに響いていた。




