俺で、上書きする
夜が、最も深く沈む刻。
宮内の灯が落ち、
人の気配が完全に消えた頃――
ようやく、テュエルは動く。
外気は鋭く冷え、
吐いた息が白く揺れた。
レイラが最も深く眠る時間。
それを、彼は疑いようもなく知っている。
足音を消し、
気配を削ぎ、
影のように宮を抜ける。
向かう先は、稽古場のさらに奥。
冬の冷気が溜まりやすい、静まり返った一角。
人目を避けるように進んだ先にある――
一筋の滝。
昼間は、ただの修練用の場所。
だが夜、この季のこの時間帯だけは違う。
水音だけが、世界を満たす。
月明かりに照らされた滝は、
白く、冷たく、
飛沫の端が霧氷のように光っていた。
テュエルは、その前に立つ。
衣を脱ぎ捨てた瞬間、
冬の空気が皮膚を刺すように触れる。
ためらいなく、滝に踏み込む。
氷水が、全身を叩く。
呼吸が奪われ、
胸がきしむ。
思考が、一瞬で削られる。
――それでいい。
(……ここしか、ない)
音が、声を殺す。
水が、気配を隠す。
ここなら、
誰にも、見せずに壊れられる。
テュエルは目を閉じた。
炎の気配を、沈める。
代わりに、
胸の奥に沈んでいる“別の何か”を探す。
(……白群色の気配)
熱ではない。
光でもない。
冬の空気のように、触れたものを拒絶する力。
存在を凍てつかせるような、未だ形を持たない力。
掌を掲げた、その瞬間――
脳裏に、唐突に。
朱蓮丸との戦いが、
鮮明に、蘇った。
攻撃を喰らい、
意識が途切れ、
地に伏せた自分。
血に濡れ、
呼吸もできず、
肋骨の軋む音だけが、やけに大きく響いていた。
――動けなかった。
――間に合わなかった。
一瞬、精神が尖る。
集中が、乱れる。
「……っ」
滝の水が、
さきほどよりも冷たく感じられた。
まるで、心の動揺を見透かしたように。
(……ダメだ)
(落ち着け……)
短く息を吐く。
白い霧が、滝の水煙に紛れて消える。
深く、吸い直す。
胸の奥まで、冬の空気が入り込む。
何度も、何度も。
――今は、ここだ。
過去は、切り捨てる。
テュエルは、再び意識を研ぎ澄ませた。
次の瞬間。
滝の水の中で、
淡く、白に近い揺らぎが生まれる。
一瞬。
本当に、一瞬。
次の瞬間には、
何事もなかったかのように消えた。
テュエルは、息を吐いた。
その白い息が、ふわりと立ちのぼる。
(……近づいてはいる)
だが、まだだ。
脳裏をよぎる声。
『次に、間に合うために』
『強くなれ』
――あぁ。
なってやるさ――――
だが。
(俺が強くなる理由は)
(あんたじゃない)
胸の奥に、
はっきりとした像が浮かぶ。
柔らかな体温。
無防備な仕草。
名前を呼ぶ声。
(レイラ様だ)
(あの人の隣に立つために)
(あの人を、守りきるために)
(――触れさせないために)
(――必ず)
(必ず、間に合わせる)
それは、誰に誓った言葉でもない。
滝の水音に紛れて、
ただ一人のためだけに、
その決意は、深く沈んだ。
それでいい。
この修行は、
誰にも見せるものではない。
(知らなくていい)
(知る必要もない)
ましてや――
レイラ様にだけは。
あの人が見るのは、
立っている俺だけでいい。
血も、失敗も、
間に合わなかった夜も――
全部、俺が持っていればいい。
そして――
修行を終える頃には、
東の空が、わずかに白み始めていた。
冷え切った身体から上がる白い息が、
静かな夜明けに、ふわりと溶けていった。
テュエルは、即座に戻る。
湯浴みの時間は、最短。
痕跡を消し、
呼吸を整え、
何事もなかった顔を作る。
そして――
いつもの場所。
レイラ様の部屋の前。
彼女が目覚めるのを、
静かに待つ。
(……今日も、よく眠っているはず)
そう、思っていた。
レイラは、自室から出てこなかった。
代わりに――
シャガルの部屋の方から、
ゆっくりと歩いてくるレイラの姿があった。
髪は、少し乱れ。
着物の襟元も、いつもより柔らかい。
歩き方も、どこか緩やかで、
まだ夜の余韻を引きずっているような――
そんな空気。
そして、
テュエルと視線が合う。
ほんの一瞬。
沈黙。
テュエル
「…………」
その一瞬で、
全てを理解した顔だった。
怒りはない。
声もない。
ただ――
世界の構造を、一段深く知ってしまったような目。
(……なるほど)
(昨夜は……そういう日でしたか……)
(シャガルのヤツ…………)
理解は、早かった。
理解してしまったからこそ――
こめかみの奥で、
何かが、かすかに軋んだ。
理性の皮膚の下で、
獣が歯を噛みしめる音がする。
だが、表情は崩さない。
ゆっくりと、瞬きを一つ。
感情を、奥底に沈める。
そして――
完璧な笑顔を作る。
テュエル
「おはようございます、レイラ様^^」
声は穏やかで、
態度はいつも通り。
その笑顔の裏で、
こめかみの血管だけが、
ほんの一瞬、脈打っていた。
――――
シャガルとの夜の後だから――
と、レイラは少しだけ恐る恐る、テュエルの目を見つめた。
(……何も、聞こえない……)
テュエルは、いつも同じだった。
疲れた様子も、鍛えた様子も、決して見せない。
なのに。
触れた身体だけが、すべてを物語っている。
――どこで、何をしているのか。
考えたことも、聞いたこともなかった。
普通の人の心は、目を見れば分かる。
強い想いほど、はっきりと伝わってくる。
けれど――
オーラを巧みに操れる人ほど、
私は、その内側を読めなくなる。
テュエルが護衛になりたての頃は、
目を見ると、ほんの少しだけ聞こえることがあった。
けれど、聞こえてくるのはいつも同じ。
私を肯定する言葉。
好意の言葉ばかり。
それが、恥ずかしくて。
いつしか、目を見て話すのが少し苦手になった。
護衛になってしばらくすると、
テュエルはオーラを習得したらしく、
心の声は、次第に聞こえなくなっていった。
今は――
見つめ合っても、何も聞こえない。
それが、たまに不安になる。
笑顔の裏に、
もしかしたら違う気持ちがあるのかもしれない。
そんなことを、ほんの一瞬だけ考えてしまう。
……今でも、たまに。
レイラ
「……おはよう、テュエル」
(テュエルが待機する時間より早く起きたつもりだったのに……)
(もっと、早く起きればよかった……)
少しだけ気まずくて、視線を落とす。
二人夫、という関係。
頭では理解していても、
こうして鉢合わせると、やはり胸がざわつく。
テュエルの目を見つめても、
やはり――何も見えない。聞こえない。
匂いすらない。
感情を、完璧に制御しているのだと分かる。
そのことが、
レイラの胸に、ふとした不安を落とした。
そして、ゆっくりと口を開く。
「私は……」
「テュエルのこと、何も知らないのかもしれない」
「こんなに長い間、一緒にいるのに……」
「お前の心が……分からない……」
「読めたら、いいのに……」
不安が、そのまま言葉になる。
――完璧に整えられた、
“いつものテュエル”。
その瞬間。
テュエルの腕が、静かに伸びた。
抱き寄せるほど強くはない。
けれど、逃げ場は、確かに塞がれている。
額に、温もりが触れる。
テュエル
「……何を言っているんです?」
低く、穏やかな声。
ほんの少しだけ、困ったような響き。
「レイラ様は、
俺の全部を知っています」
一拍。
「不安にさせたなら、
それは俺の落ち度です」
「申し訳ございません」
指が、そっと髪に触れる。
頭を撫でる仕草は、あまりにも慣れていて。
(不安に、ならないでほしい……)
テュエルはふっと息をつき、
レイラの額に額を寄せた。
「……困りましたね」
「これ以上、何を見せればいいのか……」
声は穏やかなのに、
その奥では“決意”が鋭く光っている。
――そうだ。
(上書きだ)
額を、軽く寄せながら。
テュエル
「……今から、教えますね?」
微笑みは、優しいまま。
「全力で」
その次の瞬間、
視界が、くるりと反転した。
「……ぁ……」
足が、自然と浮く。
気づけば、
レイラはテュエルの腕の中にいた。
抗う理由など、
最初からなかった。
不安を抱いたこと自体が、
失礼だと思ってしまうほど、
テュエルは、私を甘やかし、安心させてくれる。
端正な顔。
かっこよくて、さわやかで、
自分にだけ向けられる笑顔。
眩しくて。
優しくて。
たくましくて。
無駄のない、完成された身体。
この腕に包まれていると、
言葉にできないほどの安心感を覚える。
少しでも不安になると、
すぐに察して、
手を握ってくれる。
頭を撫でてくれる。
何も言わずに、抱きしめてくれる。
――声で、分かる。
私は、肯定されている。
だから。
私は、疑わない。
テュエルが見せてくれる、
この「完璧な姿」を。
それが、
彼のすべてだと――
信じている。
――そうだ。
(朱蓮丸だけじゃない)
(アイツだって……)
(――俺で、上書きする)
静かに。
だが、確実に。
テュエルは、
レイラを連れ去る。
誰にも見えない場所へ。
誰にも、触れさせない距離へ。




