愛ではない。これは、もう生活だ
その後、余は少しばかり――
いや、正確にはかなり執拗に、
あの猿の行動が「偶然」なのかどうかを探ることにした。
昼。
ただの、いつも通りの昼だ。
レイラが廊下を歩けば、
半歩遅れてテュエルがついていく。
……いや。
遅れているというより、
常に“同じ距離”を保っている。
それは意識して測っているというより、
身体が、もう覚えている距離だ。
近すぎず、離れすぎず。
影の位置まで計算されたかのような距離感。
(……出来すぎている)
レイラが立ち止まれば、テュエルも止まる。
レイラが振り返れば、すでに視線はそこにある。
レイラが「……?」と首を傾げれば、
テュエルは当然のように微笑んで言う。
「どうしましたか、レイラ様^^」
(いや、何も言っておらんだろう)
余は腕を組み、二人をじっと観察する。
レイラは無自覚だ。
本当に、驚くほど無自覚に――
寄る。
気づけば、テュエルのすぐ近くにいる。
寒くもないのに、袖を引く。
言葉もなく、ただ視線を預ける。
(……幼い頃からの癖)
(そう思うしかないほどに)
そして、テュエル。
あれは……
受け止めている、というより――
最初から、そうなる前提で構えている顔だ。
(余には)
(もう“そう”としか見えぬ……)
余がわざと咳払いをすると、
テュエルは即座に気づき、こちらを一瞥する。
口元はにこやかだが、
目だけが、余の存在を“認識していない”。
――邪魔をするな。
(…………)
ひやり、と背中に汗が伝う。
(……やはり、か)
そこで、ようやく理解した。
これは主従でも、恋でも、愛でもない。
ましてや、一方通行などでは決してない。
互いに、互いを必要とし、
互いに、互いから離れられなくなっている。
しかも――
片方は自覚していて、
もう片方は、していない。
(実に、忌々しい……)
(厄介極まりない)
シャガルは深く息を吐いた。
それでも。
余にとっても、レイラは妻だ。
愛する、唯一の女。
あんな男から――
守りたいと思う気持ちが、ないわけがない。
「……お前たち」
二人が同時にこちらを見る。
レイラはきょとんとした顔で。
テュエルは、すべて察したような目で。
(……今、目線だけで舌打ちされたな)
構わず、余は吐き捨てる。
「少しは、離れて歩け」
一拍。
レイラが首を傾げる。
「……なぜだ?」
テュエルは、間髪入れず、自然に答えた。
「必要ありませんので^^」
(ああ……)
余は額を押さえた。
(駄目だ)
(完全に、出来上がっておる……)
――しかも。
最初から分かってはいたが、
余が割って入る余地など、
最初から、どこにもなかった
その瞬間、
余の中で、いくつもの違和感が――一気に繋がった。
初めて会った時の、あの過剰なまでの拒絶。
必要以上に距離を取らせようとした、露骨な態度。
そして何より――
「護衛が二人になる」と知った時の、
あの、理屈を超えた反発。
あれは、警戒ではない。
牽制でも、対抗心でもない。
(……違う)
(あれは)
(排除だ)
シャガルは、はっきりと理解してしまった。
こいつは――
レイラの近くに属そうとする存在そのものを、嫌っている。
役職の違いでもない。
立場の上下でもない。
夫か、護衛か、王か――そんな区分ですらない。
ただ一つ。
レイラの「そば」にいるかどうか。
それだけが、基準だ。
だから、余は最初から拒まれていた。
必要以上に遠ざけられ、
必要以上に壁を作られた。
護衛が二人になる?
冗談ではない。
あの男にとって、
レイラの世界は――
自分ひとりで、完結していなければならない。
(……気色の悪い話だ)
そう思いながらも、
否定できない事実が、胃の奥に重く沈む。
レイラは、
その“完結した世界”の中で、
何の疑いもなく、呼吸をしている。
しかも――
心から、安心しきった顔で。
(救いようがない……)
余は、知らず、奥歯を噛みしめていた。
――ここまで徹底していて、
――ここまで長い時間をかけていて、
――しかも本人は、それを「自然」だと思っている。
それはもはや、
執着でもない。
生活だ。
習慣だ。
刷り込みだ。
(……本当に)
(どこから、どこまでが計算なのだ……)
答えの出ない問いだけが、
余の胸の内に、静かに、重く残った。
――
そして――
余は、決定的な違和感に、ようやく辿り着いた。
(……違う)
(あの男は、ただ傍にいるのではない)
レイラは、机に向かい書き物をしている。
皇務ではない。
思いついたことを走り書きする程度の、すぐ終わる類いのものだ。
その横に――
いるはずの男が、いない。
――いつの間にか、テュエルの姿が消えていた。
ほんの一瞬だ。
ほんの数歩、視界から外れただけ。
だが――
レイラが、僅かに瞬きをした。
「……?」
小さく首を傾げる。
無意識に、周囲へと視線を巡らせる。
「……テュエル?」
呼びかけは、ほとんど独り言だ。
探している、という自覚すら伴っていない。
返事はない。
レイラは、ふと鼻先を動かした。
すん、と小さく息を吸う。
――石鹸の匂い。
確かに、近くにあるはずの気配。
「……?」
いる。
はずなのに――
ほんの一瞬。
本当に、刹那の間だけ。
レイラの胸の奥が、すっと冷えた。
(……来た)
余の背筋に、ぞわりと寒気が走る。
(今だ)
(“今、必要になった”)
理解してしまった瞬間、
胃の奥が、きり、と嫌な音を立てた。
レイラ本人は、何も分かっていない。
不安でも、寂しさでもない。
ただ――
(……あれ?)
(いつも、いるのに)
(どこだ?)
その程度の、言葉にすらならない違和感。
だが――
それで、十分なのだ。
(……あの男)
(レイラが“必要とする瞬間”を)
(わざと、作っておる)
用もないのに席を外す。
戻ると告げず、
気配だけを、綺麗に消す。
だが、完全には離れない。
聞こえる距離。
声が、届く位置。
(……最悪だ)
レイラが、小さく息を吐く。
「……まあ、いいか」
そう言って、己を納得させかけた――
その、直前。
「お待たせしました、レイラ様^^」
ぬるり、と。
まるで最初からそこにいたかのように、
テュエルが現れた。
レイラの表情が、ぱっと緩む。
「……あ、いたのか」
「どこに行ってたんだ?」
責める色は、微塵もない。
ただの確認。
ただの、安心。
その瞬間――
余は、完全に理解してしまった。
(……聞いていたな)
(今の声を)
(拾ったな)
喉の奥が、ひくりと引き攣る。
レイラは、無意識に安堵している。
自分が探したことすら、覚えていない。
だが、あの男は――
“探された”という事実を、
確実に、数えている。
一度。
二度。
積み上げるように。
そして――
それを、快楽としている。
(……っ)
視界が、ぐらりと揺れた。
(吐く)
(これは、吐く……)
余は咄嗟に口元を押さえた。
――偶然ではない。
――気遣いでもない。
――忠誠でも、献身でもない。
これは、
“必要とされる回数”を、
意図的に、積み上げていく行為だ。
それも――
相手に、自覚させないまま。
そう――
積み上げて、
作っている。
必然を。
(……狂っておる)
(だが)
(あまりにも、完璧だ……)
レイラは、何も疑わず、
いつもの距離に戻っている。
心から、安心しきった顔で。
まるで――
最初から、離れるという選択肢など、
存在しなかったかのように。
(……救えぬ)
余は、膝に手をついた。
(これは、もう)
(吐き気で済む話ではない……)
――
夜。
城は静まり返り、灯りの数もまばらになっていた。
レイラは自室に戻り、昼の外套を解いてから、
夜用の薄手の羽織ものを肩に掛けた。
そのまま帯に手を伸ばしかけ――
ふと、動きを止める。
昼間のことが、唐突に脳裏をよぎった。
シャガルと二人で話した、幼い頃の記憶。
城の廊下。
資料室の窓。
あの頃、何も分かっていなかった自分。
(……懐かしいな)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
同時に、どこか落ち着かない。
(……もう少し、話したかったな)
それが誰と、とは考えない。
考えるより先に、体が動いていた。
レイラは、部屋を出る。
⸻
廊下は静かだ。
夜の空気は澄んでいて、足音がやけに大きく響く。
気づけば、足は迷いなく一つの部屋へ向かっていた。
(……もう、寝ているだろうか)
それでも、立ち止まらない。
(起きていたら、少しだけ話そう)
(寝ていたら……それはそれでいい)
理由は、それだけだった。
扉の前に立つ。
中から、気配はほとんど感じられない。
だが――
完全な「不在」でもない。
レイラは、僅かに首を傾げる。
(……?)
この感覚。
近い。
でも、静かだ。
軽く、扉を叩く。
返事はない。
一瞬、ためらい。
だが、そのまま取っ手に手をかけた。
⸻
一方。
廊下の陰。
灯りを落としたままの場所で、シャガルは立ち尽くしていた。
最初に気づいたのは、気配だった。
(……来た)
音を立てない足取り。
迷いのない方向。
その先にある部屋を、シャガルは知っている。
(……まさか)
いや。
否定する理由が、どこにもなかった。
そして――
気づいてしまった。
あの部屋。
灯りが、落ちている。
(……起きているな)
確信だった。
(……演技だ)
胸の奥が、ひやりと冷える。
⸻
扉の向こう。
「……レイラ様」
低く、穏やかな声。
灯りはついていない。
だが、そこにいる。
「どうされましたか?」
起きていた。
それだけで、レイラの表情が緩む。
「……起きていたのか」
「よかった」
無自覚に、一歩踏み込む。
「今日な」
「シャガルと、昔の話をしていたんだ」
懐かしそうに、少し笑う。
「……急に、思い出して」
「テュエルと話したくなって」
暗闇の中で、テュエルが静かに息を吐く。
「そうでしたか^^」
「それは……良い夜ですね」
責めない。
驚かない。
当然のように、受け止める。
レイラは、それを疑問に思わない。
(……やはり)
廊下の陰で、シャガルの喉が鳴った。
(待っていたな)
(最初から……)
偶然ではない。
噂でもない。
ただの一致など、あり得ない。
(どこまで……)
(どこまでが、計算なのだ……)
⸻
レイラは、少しだけ話すつもりだった。
だが、気づけば扉は閉まり、
時間の感覚は、ゆっくりと溶けていく。
笑い声は、小さい。
声も、低い。
外から見れば、何も起きていない。
だが――
シャガルには、はっきりと分かった。
(……入ったな)
(引き返す気など、最初からない)
(いや――
“返す”つもりも、ないのだろう)
⸻
余は、その夜、悟った。
あの男は――
レイラを奪おうとしているのではない。
レイラが、
自分以外を必要としなくなる世界を、
すでに完成させているのだと。
選ばせているようで、
選択肢は一つしかない。
拒ませない。
縛らない。
ただ、常に「そこにいる」。
――いや。
「そこにしか、いない」。
(……吐く)
シャガルは、静かに口元を押さえた。
これは、もう恋ではない。
愛でもない。
生活だ。
呼吸だ。
帰る場所だ。
レイラは、今もその中で、安らかに笑っている。
疑いもなく。
迷いもなく。
まるで――
最初から、離れるという概念そのものが、
存在しなかったかのように。
(……救えぬ)
その結論だけが、
夜の闇に、重く沈んでいった。
「……うぇっ」




