完璧すぎる護衛の習慣
レイラはその後、数日間を自室で静かに過ごしていた。
退屈ではあったが、爺の判断により――
「もう問題ない」とされ、ようやく外出の許可が下りる。
隔離されていた男二人はというと、
最初の二日間は、まるで薬が切れた患者のようだった。
唸り、呼吸が荒れ、集中力を欠き、
明らかに「レイラ不足」による禁断症状。
だが三日目には、どうにか理性を取り戻したようだった。
そして――
外出が許された日の朝。
護衛としての定位置。
扉を開けてすぐ横に、テュエルが立っていた。
「レイラ様……! おはようございます^^」
「お久しぶりです……!」
「いかがお過ごしでしたか?」
「退屈でしたでしょう?」
いつもと変わらぬ、爽やかな挨拶。
「テュエル、おはよう……」
「久々だな」
「すごく退屈だったが……テュエル、お前はもう大丈夫なのか?」
「私の、この制御できない力のせいだな……」
「辛くなかったか……?」
そう言って、純粋な心配から、レイラは彼の頬に手を添える。
「レイラ様……」
「……大丈夫です^^」
「レイラ様と会えない寂しさで、少し辛かったですが…」
「ふふ……」
「今日から、また一緒だな」
そう言って、レイラはテュエルの袖を掴み、食堂の方へ歩き出す。
だが、食堂へ向かう前に――
レイラは必ず厠に立ち寄る。
「少し待っていてくれ」
「はい、レイラ様^^」
待ち時間は、せいぜい五分ほど。
ほんの、わずかな空白。
⸻
シャガルは、その朝、少し早く目覚めていた。
数日ぶりにレイラに会える。
それを分かっていたからだ。
あくびを噛み殺しながら廊下を歩き、
レイラの自室へ向かう。
――そこで、異変に気づく。
(…………?)
(……戸が、開いている)
音を立てず、シャガルは中を覗き込む。
侵入。
数十秒後。
シャガルが目にした光景は――
荒らされていない。
物色もされていない。
盗みの形跡も、何一つない。
ただ。
寝台に膝をつき、
布団に顔を埋め、
枕を引き寄せ――
深く、息を吸うテュエル。
一度ではない。
二度。
三度。
まるで、
必要最低限の“補給”。
そして、小さく息を吐く。
満足したように。
「……よし」
そう言いそうな表情。
(……………………)
⸻
シャガルの脳内は、真っ白だった。
(……何だ、今のは)
(いや……)
(余は、何を見てしまった……?)
そして、気づいてしまう。
(……あれは)
(摂取だ)
ここで、シャガルは完全に理解する。
・性欲ではない
・欲情でもない
・暴走ですらない
生活の一部。
呼吸。
水分補給。
食事。
そのレベルで、
「レイラ」を取り込んでいる男。
その瞬間。
テュエルが気配に気づき、
ゆっくりと振り返る。
――目が合う。
一拍。
二拍。
「……」
「……」
空気が凍りつく。
テュエルは一瞬だけ目を伏せるが、
何も言わない。
言い訳もしない。
恥じる様子もない。
ただ、
(見られたか)
という顔。
そして、それだけ。
⸻
シャガルは、低く、ぽつりと告げる。
「……お前」
「本当に、手遅れだな」
テュエルは、
ほんの一瞬だけ微笑んだ。
「はい^^」
否定はしない。
それ以上、何も言わず。
まるで――
最初から隠す気などなかったかのように。
⸻
その後、何事もなかったかのように三人は食堂へ向かい、朝餉を取った。
炊き立ての白米。
湯気と一緒に立ち上る、ほのかな米の甘い香り。
椀には、出汁の効いた温かい汁。
海苔が添えられ、静かに香りを主張している。
主菜は、程よく焼かれた魚。
派手さはない。
だが、毎朝変わらず用意される、双国らしい献立。
いつもと何一つ変わらぬ朝――
レイラは機嫌よく箸を進め、
その隣には、自然な距離でテュエルが腰掛けている。
護衛であり、夫であり、王でもあるこの男は、
必要以上に近づくことも、離れることもなく、
当たり前のように同じ卓を囲み、同じ朝餉を取っていた。
そしてただ一人、
その光景を前にして、シャガルの内心だけが、
まったく落ち着いていなかった。
(……この状況で、普通に朝餉を食えるのか、あいつは)
横目で見れば、テュエルは涼しい顔だ。
いつも通り、完璧な護衛。
先ほどの出来事など、存在しなかったかのように。
――
朝餉を終えると、テュエルは一歩下がり、恭しく頭を下げた。
「本日はこの後、稽古場にて指南を頼まれております」
「昼前には戻ります^^」
「そうか、よろしく頼む」
レイラも頷く。
「気をつけてな」
「はい^^」
そう言って、テュエルは何事もなかったかのように踵を返し、
稽古場へと向かっていった。
⸻
その後、レイラとシャガルは、城の外廊下に設えられた庭先で、
ゆっくりと茶を飲むことにした。
柔らかな陽光。
風に揺れる木々。
湯気の立つ茶の香り。
穏やかで、平和で――
あまりにも、日常的な光景。
レイラは湯呑を両手で包みながら、ほっと息をつく。
「やっぱり…外で飲む茶は落ち着くな」
「あぁ……そうだな」
そう返しながらも、シャガルは落ち着いていなかった。
レイラの隣に座ると、
ふと、指先がレイラの髪の先へ伸びる。
癖を整えるように、ほんの少し撫でる。
何気ない仕草のはずなのに――
その柔らかさに、彼の胸が静かに熱を持った。
(……柔らかいな…)
自分でも意識していなかった指の動きに、
シャガルは一度だけ小さく咳払いして誤魔化したが、
レイラは特に気づく様子もなく湯呑へ視線を戻した。
しばし、沈黙。
鳥の鳴き声だけが、二人の間を満たす。
そして――
シャガルは、ついに口を開いた。
「レイラ……」
「今更だが、なんで……」
一拍、間を置いて。
「あんな猿を、護衛に置いているのだ?」
純粋な興味からの問いだった。
「…………?」
なぜそんなことを聞くのだろう。
レイラは一瞬考え、記憶を手繰り寄せる。
「……最初は、潜在能力の高さに目を引かれた」
「私が六つの頃だ」
ぽつり、ぽつりと語り始める。
「それから、手合わせをして……」
「匂いが、変わったんだ。敬愛のような匂いだ」
「それが……私にはとても珍しくて、印象に残った」
シャガルは黙って聞いていた。
「城が全焼する前だ。資料室の窓から、兵士たちの稽古がよく見えた」
「その中で、一番目につく場所に……必ずテュエルがいた」
「もともと、あいつは西の部族出身だ」
「本来なら、稽古場に顔を出すのは月に一度程度のはずだが……」
「なぜか、毎日いた」
「私が廊下を歩くときや」
「父上と外出する時など……」
「外部の者と接触する機会があると、ほぼ必ず、見えやすい位置に姿を現した」
「声をかけてくることは、ない」
「ただ……見る」
「そんな感じだった」
シャガルは黙って聞き続けていたが、次第に表情が歪んでいく。
(あ、あいつ……)
(レイラが、そんな幼い頃から……)
「それで、私が十歳になる年に、護衛をつけるための試験が実施された」
「だが、その試験に……あいつはいなかった」
なぜだ?と、シャガルは首を傾げる。
「父上が、護衛試験に年齢制限を設けていてな」
「ひとつだけ、テュエルには足りなかったらしい」
「その年の通過者を見ても、誰一人として目を引く者はいなかった」
「だから……合格者は出なかった」
「それでも、あいつは相変わらず定位置にいて」
「(見てくれ、見ていますか)と、匂いで訴えてくるようだった」
「私が、そこまで認知していることは……さすがに知らなかっただろうがな」
そう言って、レイラはくすりと笑う。
シャガルは真顔だった。
(……笑うところではないぞ、レイラ)
(どう考えても……)
(これは忠誠ではない)
(崇拝ですらない)
(……執着だ)
レイラは話を続ける。
「それから一年後、また護衛試験があった」
「その時、あいつは……二位だった」
(二位? あいつが?)
シャガルは内心で首を傾げる。
「意外だろう? 私もそう思った」
「ずっと見ていたわけではないが、努力は目に見えていたからな」
「……不正者がいただけだった」
「だから、少し……珍しく腹が立ったのを覚えている」
「それで、わざわざ二位のテュエルを選んだ」
「父上は……とても嫌そうな顔をしていたが」
そう言って、レイラは苦笑する。
シャガルは深く頷いた
――あぁ、あいつなら、そういう顔をする。
(……護衛に、あの猿を置くなど)
(嫌がらぬはずがないな)
「テュエルは本当に、女官や宦官の誰よりも仕事が早く」
「着付け、裁縫、化粧、手当て、看病……」
「ありとあらゆることが、ずば抜けて完璧だった」
「すべて、テュエル一人で完結してしまうほどに」
その言葉に、シャガルの背筋が、ひやりと冷えた。
(まさか……)
護衛だ。
本来なら、剣を振るい、身を挺して守ればそれでいい。
着付けも、裁縫も、化粧も、看病も――
それらは女官や宦官の役目だ。
(いや……)
偶然、覚えたにしては出来すぎている。
最初から、過不足がない。
(……そうか)
(誰も、近づけたくなかったのだ)
女官も、宦官も、従者も。
レイラの身の回りに、余計な手を差し込ませないために。
(守るため、ではない)
(独りで、完結させるためだ)
――確信。
シャガルは、無意識に息を詰めた。
(あの猿……)
(護衛という立場を使って)
(最初から…………)
――そこから先を、考えようとして。
胃の奥が、ひくりと捻じれる。
(……駄目だ)
(これ以上は)
(考えたら、吐く)
「別に……そこまで求めてはいなかったのにな?」
「ただ、護衛として、外に出してくれればいいだけだった」
懐かしそうに微笑むレイラ。
その瞬間。
シャガルの脳内では、警鐘が鳴り響いていた。
(違う……)
(違う違う違う)
(それは“護衛”ではない……)
(レイラ……)
(騙されているという自覚すら、ないのが一番まずい……!)
シャガルは心の中で叫ぶ。
(レイラ、騙されるな……!)
(違う、あいつの目的は……)
(最初から、お前だけだ……!)
それでも、レイラは嬉しそうにテュエルとの思い出を語り続ける。
「あの頃から、毎日必ず同じ場所に立っていて――」
「同じように挨拶してくれてな、不思議と安心したんだ」
(安心……)
シャガルのこめかみが、ひくりと引きつる。
(それは……)
(狙い通りだ……!!)
聞けば聞くほど、
話が積み重なるほど、
“偶然”という言葉が、この世から消えていく。
シャガルの顔色は、みるみるうちに青ざめていった。
胃の奥が、じわじわと軋むように重くなる。
理解してしまったのだ。
レイラは――
完全に、完璧に、逃げ道のない形で、テュエルの術中に嵌っている。
しかも本人は、
それを「優しい思い出」として抱きしめている。
(……悪夢だ)
――
(……吐く)
(このまま聞いていたら、確実に吐く)
そして——
理性が警鐘を鳴らすより早く、
言うつもりなど微塵もなかった言葉が、口から零れ落ちた。
「レイラ……お前……」
一拍。
そして、低く、重く。
「あの猿が――
お前の乳歯を持っていることを、知っているのか?」
しまった、と思った。
(言ってしまった……)
(もし、これでレイラが引いて……)
(護衛を解雇する、などと言い出したら……)
(あの猿が、どんな奇行に出るかわからぬ)
(レイラの身も、余の首も、危うい……)
シャガルは恐る恐る、レイラの顔を見る。
「……?」
「乳歯……?」
(まずい……)
だが、ここまで来て嘘はつけない。
「……お前が十二の時だ」
「歯がすべて生え変わったと、あの猿がこの間、平然と話してきた」
「抜けた歯は、お前が捨てたらしいな」
「――あいつは、それを拾って」
「小物入れに、大事そうに仕舞っていた」
すべてを伝えた。
「…………」
「え……」
明らかに困惑するレイラ。
しかし——
「……」
くすり。
「?!」
(は……?)
(笑った……?!)
一拍
「……テュエルらしいな」
シャガルは言葉を失う。
「そんな汚いもの、取っておいてどうするのだろうな」
「私は、いつでもあいつの手の届く、近くにいるのに」
少し嬉しそうに、くすくすと笑うレイラ。
シャガルは沈黙した。
……駄目だ。
もう、手遅れだ。
シャガルには分かる。
あいつは、レイラと出会った瞬間から——
すべての“種”を撒いていた。
間違いない。
そして、シャガルは改めて思う。
なぜ、これほど美しく、愛らしい女が、
ここまで自己肯定感だけが低いのか。
だが、先ほどの思い出話で、容易に答えは出た。
この女は、アインからまともに育てられていない。
口下手で、言葉が足りず、何を考えているのかわからない男。
それでは、不安にもなる。
女官や宦官にも恵まれず、
閉ざされた城で、つまらない日々を過ごしていたなら——。
そんな生活の中に、あの男が現れた。
……それは。
共依存にも似た関係になるのも、無理はない。
――その瞬間。
廊下の奥から、足音が近づいてきた。
規則正しく、迷いがなく、
それでいて急ぎすぎることもない歩調。
それを耳にした途端、
シャガルの背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。
(……来た)
あまりにも、出来すぎたタイミングだった。
まるで――
この会話の終わりを、待っていたかのような。
噂をすれば、とは言うが。
これは、そういう偶然で片付けていい類いのものではない。
(……本当に、偶然……なのか?)
そんな馬鹿な考えが、
一瞬――いや、はっきりと本気で、頭をよぎる。
だが次の瞬間、
その「偶然」という言葉自体が、
ひどく頼りないものに思えてきた。
どこまでが偶然で、
どこからが必然なのか。
――いや。
そもそも、最初から線など引けたのだろうか。
重なりすぎている。
出来すぎている。
積み重なりすぎて、もう“たまたま”では説明がつかない。
シャガルは、無意識に喉を鳴らす。
(……分からぬ)
(分からなくなっているのが、一番……気味が悪い)
レイラが、ふと顔を上げた。
「……あ」
次の瞬間、表情がやわらぐ。
「テュエル」
稽古場から戻ってきたのだろう。
だが、汗の匂いは一切しない。
代わりに、ふわりと届くのは――
洗い立ての布と、石鹸の清潔な香り。
運動の後だというのに、
不快さを一切感じさせない。
むしろ、安心感すら覚えるほどの匂いだ。
「お待たせしました^^」
「少し、遅くなりました」
いつも通りの、軽い敬語。
丁寧だが、堅苦しさはない。
柔らかく、角の取れた声。
――嫌われる要因は、最初から排除している。
シャガルは、内心で歯噛みする。
(……抜かりがなさすぎる)
「お疲れ様」
レイラは自然にそう声をかけ、
「どうだった?」と続ける。
そして――
無意識のまま、一歩近づく。
気づけば、テュエルの袖を指先でつまんでいた。
ほんの、わずかな仕草。
だが、それだけで十分だった。
テュエルは一瞬だけ目を細め、
穏やかに微笑む。
「問題ありませんでした」
「皆、よく動いていましたよ」
その距離。
その位置。
その表情。
シャガルの喉が、ひくりと鳴る。
(……あれは)
(絶対に、無自覚なのだろうな)
レイラの方は。
だが――
(あの男は……)
(その立ち位置も……)
(その声の角度も……)
(その表情の作り方も……)
どこまでが、
どこからが、
――計算のうちなのだ。
胃の奥が、ぐっと持ち上がる。
(……駄目だ)
(また、吐き気がする)
視線を逸らしても、逃げられない。
二人は、何もなかったかのように並び、
当たり前の距離で歩き出す。
(……生活だ)
(あれは、もはや“関係”ですらない)
(習慣だ)
シャガルは、こめかみを押さえた。
これ以上考えると、
本当に、吐く。




