十年来の護衛は、最初から私を籠の中で愛していたようです。
考える暇など、最初から与えられなかった。
唇が触れた、と思った瞬間には、もう次が来ている。
間も、呼吸も、整う前に――熱だけが重なっていく。
確かな体温。
抑えきれずに滲む息。
近すぎる距離から、否応なく伝わってくる存在の重さ。
(……近い)
そう思った時には、もう遅い。
視界が逃げ場を失い、視線だけが絡め取られる。
逸らしたいのに、逸らせない。
言葉はないのに、全部、分かってしまう。
支えにしていた感触が、不意に変わる。
足元が、曖昧になる。
(……え)
体が、ふっと浮いた。
床の感覚が消え、代わりに強く抱えられる。
重さが、全身にかかる。
預けきれないはずなのに、離れる選択肢はない。
吐息が、耳元を掠める。
それだけで、思考が弾けた。
「――――っ」
(……まずい)
だめだ。
これは、だめだ。
視界に入っているだけなのに、
胸の奥が、限界を越えかけている。
(……ああ、もう)
好きだ。
好きすぎる。
どうして、そんな顔をする。
どうして、そんな声を出す。
どうして――俺の存在だけで、そんなふうになる。
(……俺の)
思考が、勝手に転ぶ。
俺のせいで。
俺が触れているから。
俺が、ここにいるから。
(……ああ……)
だめだ、だめだ。
今、壊れたら終わる。
でも――
(見たい)
(全部、見たい)
こんな瞬間、
一生に何度も許されるものじゃない。
(……ああ、レイラ様)
可愛すぎる。
綺麗すぎる。
俺の心臓が、もたない。
(俺の、俺の……)
この反応も、この熱も、
全部、俺の中で完結しているという事実が――
(……っ、やばい)
ここで目を逸らしたら、
それこそ、耐えられなくなる。
(……耐えろ)
(壊れるな)
まだだ。
まだ――
(……今、壊れたら)
(“愛してる”って言えなくなる)
――次の瞬間。
音にならなかった声を、逃がす間もなく塞がれる。
どこも、空かない。
どこにも逃げ場がないほど、
温もりだけが伝わってくる。
かすかな、布と布が擦れる音。
息が乱れるたびに、近くで返ってくる低い呼吸。
それが、ひどく恥ずかしくて――
意識した瞬間、視界が揺れた。
いつの間にか、場所が違う。
背中に、柔らかな感触。
寝台だと分かる頃には、もう遅い。
覆いかぶさる重み。
大きな身体が、すっぽりと視界を覆う。
逃げ場を奪う体温。
(……足りない)
ひとつ動かれるだけで、呼吸が崩れる。
息を吸う前に、次の熱が落ちてくる。
(…足りない……)
(まだ、全然足りない……)
(俺の想いは、こんなものじゃない)
(俺の温度も、鼓動も、呼吸も)
(全部、感じてほしい)
(もっと、深く)
(逃げ場がなくなるほど、伝えたい)
(……全部だ)
(俺の時間も、選択も)
(最初から、レイラ様のものだ)
――その想いが、
言葉になる前に、熱だけが届く。
支えきれない。
思考が、追いつかない。
全身で、存在を感じる。
言葉がなくても――
(……好きだ)
(……愛している)
そう囁かれているみたいに、体温が語ってくる。
限界を意識した、その瞬間。
世界が、白く滲んだ。
呼吸が、完全に乱れる。
――そして。
荒い息だけが、静かに重なった。
しばらく、誰も何も言わない。
沈黙の中で、鼓動だけが近い。
テュエル
「……えらいですよ」
「とても、綺麗でした」
テュエルの大きな手が、レイラの頭を何度か優しく撫でた。
その手つきは、愛おしむように穏やかだった。
一拍。
「ちゃんと、俺のところに落ちてきましたね」
テュエル
「……レイラ様」
すぐそばで、気配が動く。
「でも……もう」
「降参、ということは……ありませんよね?」
にやり、とした気配。
レイラ
「……っ」
言葉は、出ない。
体だけが、正直に反応してしまう。
テュエル
「満足度で言うなら」
「俺……まだ、一割にも届いていませんので」
楽しげに。
「これから、一週間」
「よろしくお願いします^^」
(……一週間?)
(……死ぬ)
(……殺される)
思考が、追いつく前に――
テュエル
「あ、あと」
「次は、少しだけ……」
間。
「時間を、かけます」
「……?」
返事は、できない。
「やっと、冷静になってきたので」
「思い出したんですよ」
低く。
「他の男に触れられた感覚が」
「……まだ、残っているんでしょう?」
「……っ!!」
声は、やはり出なかった。
テュエル
「安心してください」
「もう、あいつのことなんて思い出せないくらい」
「俺が全部、塗り替えますから^^」
逃げ場は、もうない。
――第二幕の気配が、
静かに、確かに、迫っていた。
――――
どれくらい経ったのか。
レイラは、静かな寝息を立てていた。
そのすぐ傍で。
テュエルは、微動だにせず、顔を覗き込んでいる。
(……ああ)
(眠ってしまった……)
満足そうに。
それでいて、どこか名残惜しそうに。
(名残しかないんですが……)
(まだ全っ然、足りないんですが……!)
眠る頬に、そっと指を伸ばし――
触れない。
(起こしたら、駄目だ)
(今は、ちゃんと休ませる)
触れないまま、微笑む。
(……かわいい♡)
(無防備すぎる)
(俺の理性、よく……耐えてるな)
ふと、視線が落ちる。
眠る手元。
薬指に嵌められた、細い指輪。
(……ああ)
(婚姻、結べて……)
(本当によかった……)
指輪に触れそうになって、やめる。
代わりに、胸の奥がじんわりと満たされた。
(はぁ……俺)
(世界一、幸せ者だな……♡)
テュエル
「……大丈夫ですよ」
小さく、優しく。
「ちゃんと」
「全部……上書きしましたから^^」
(上書きは、した)
(……けど)
(消したわけじゃない……)
返事は、ない。
それでも、彼は離れない。
その寝顔を、何度も、何度も確かめるように見つめ続けた。
(逃がすつもりは、最初からない)
(でも)
(守るって決めたのも、本当だ)
(……起きたら)
(また、始めよう……♪)
――
朝の台所は、静かだった。
(……はぁ)
(幸福感が、過剰だな……)
調理師が整えた朝餉を、温め直した鍋から
控えめに、湯気が立つ。
(寝顔、ずっと見ていたいが)
(俺だけの体じゃない……)
強すぎないよう、火加減を落とし、
蓋を、ほんの少しずらす。
(衣も、食も、住も)
(全部、俺が管理する)
(それが最善で)
(それが、最高だ)
魚は、焼きすぎない。
(……レイラ様)
身を崩さぬよう、箸を入れ、
頃合いで、静かに皿へ移す。
(かわいい…)
(本当に…)
(ずっと、この生活がいい……)
白米は、すでに炊き上がっている。
湯気を逃がしながら、軽くほぐし、椀によそう。
(レイラ様の“力”のおかげで)
(眠らなくても、へっちゃらだ……)
汁物は、味を確かめてから火を止める。
冷めすぎないよう、布をかけておく。
(疲労すら、残らない)
最後に、お浸し。
水気を丁寧に絞り、量を整える。
(全開の俺を)
(あと六日と半、相手にすることになるが……)
並べる位置に、迷いはない。
手を伸ばした時、負担にならない配置。
(……大丈夫だろうか)
(無理は、させないが)
すべて揃ったのを確認し、
器を盆に載せる。
(愛しい)
(俺の、レイラ様……)
湯気は、まだ穏やかだ。
(早く、起きてくれないかな……)
テュエルは一度だけ全体を見渡し、
音を立てぬよう、ゆっくりと歩き出した。
(……まだ)
(全然、足りないな)
盆を手に取ると、
テュエルは静かに踵を返した。
食堂の扉が、音もなく閉じられる。
廊下を渡る足音は、意図的に消されていた。
寝室へと近づくにつれ、
温い香りだけが、先に運ばれていく。
⸻
気づいた時には、
夜はとっくに明けていた。
障子越しの光が、柔らかく部屋を満たしている。
――それで初めて、
自分がどれほど深く眠っていたのかを知った。
(……朝?)
体を動かそうとして、
わずかに眉を寄せる。
だるい。
重たい。
けれど、不思議と――嫌じゃない。
その時、ふわりと鼻先をくすぐった。
(……いい匂い)
温かくて、やさしい匂い。
どこか懐かしい、落ち着く香り。
ゆっくりと目を開ける。
視界に入ったのは、
寝台のそばに腰掛ける、テュエルの背中だった。
盆の上には、湯気の立つ器。
朝餉だと、すぐに分かる。
テュエル
「……おはようございます、レイラ様^^」
振り返ったその顔は、
昨夜の気配を一切感じさせないほど穏やかだった。
安心するような笑み。
――“いつもの”テュエル。
レイラ
「……おはよう…、朝……?」
テュエル
「ええ。よく眠っておられましたよ」
そう言いながら、
自然な動作で器を手に取る。
テュエル
「無理に動かなくて大丈夫です」
「……はい、レイラ様」
匙が、そっと唇の前に運ばれる。
一瞬、考える。
けれど――
体が、逆らわなかった。
口を開くと、
温度も、味も、ちょうどいい。
胃に落ちていく感覚に、
思わず、息が緩む。
テュエル
「……ゆっくりでいいですよ」
「今日は、急ぐ必要もありませんから」
その言葉通り、
彼は急かさない。
一口ずつ。
確かめるように。
すべて食べ終えた頃には、
胸の奥まで、温かくなっていた。
レイラ
「……平和だ…」
ぽつりと零すと、
テュエルは小さく笑った。
テュエル
「そうですね^^」
一拍。
「……では」
「少し、一緒に読書でもしませんか?」
レイラ
「読書……?」
テュエル
「はい」
「すぐ動くのは、良くありませんから」
有無を言わせぬ、優しい正論。
寝台の上で並び、
彼の肩に、自然と体を預ける。
貢を繰る音。
落ち着いた声。
いつの間にか、
呼吸が揃っていた。
読み終える頃、
テュエルは、すぐ手の届く位置に茶を置く。
テュエル
「今なら、ちょうどいいでしょう」
湯気は控えめ。
猫舌な私への配慮が、行き届きすぎている。
(……よかった)
(テュエルだもんな……)
(一日中、ってことは……)
(ないみたいだ……)
そんな考えが、
頭をよぎった――その直後。
静かに、本を閉じる音。
テュエル
「……今日は」
一拍。
穏やかな声のまま。
「外に出る予定は、ありません」
胸が、わずかに跳ねる。
テュエル
「必要なものは」
「全部、ここにあります」
視線が、逸れない。
テュエル
「……俺が、いますから」
その言葉が、
ひどく優しく落ちて――
なのに。
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
(……これは…)
(言い換えようが、ない)
(――独占、だ)
逃がさない。
逃げる必要も、逃げ道も、最初から想定されていない。
目の前にいるのは、
確かにテュエルのはずなのに。
微笑みを浮かべたその姿が、
一瞬だけ――
“獣”の輪郭を帯びたように見えた。
テュエル
「……さて」
穏やかに、本を脇へ置く。
視線は、変わらない。
テュエル
「では」
「そろそろ……」
柔らかな笑みのまま。
「始めましょうか^^」
レイラ
「……っ」
その瞬間、
理解してしまった。
――一日中、じゃない。
“外に出ない”だけだ。
予感は、もう、確信に変わっていた。
視界が、ゆっくりと近づく。
逃げるほどの距離は、
最初から、与えられていない。
次の瞬間。
ぎしり――と、
寝台が、低く音を立てた。
視界の端で、
影が落ちる。
目を逸らす隙も、
思考を挟む余地もない。
視線を外さないまま、
テュエルは、静かに距離を詰めてくる。
優しい顔のまま。
――逃がす気など、最初からない顔で。




