妖王への嫉妬を全部ぶつけたら、「お前だけだ」と言われました。
泣きじゃくるレイラを前に、
シャガルは――しばらく、何も言わなかった。
怒鳴らない。
否定もしない。
ただ、静かに、深く息を吸う。
そして。
レイラの背に、そっと腕を回した。
「……泣くな」
低く、落ち着いた声。
「その不安は……」
「余が、与えたものだ」
額に、自分の顎を預ける。
口付けはしない。
だが、逃げ場のない距離。
「余が王であることも」
「長く生きていることも」
「経験があることも」
「それ自体は、事実だ」
少しだけ、声が低くなる。
「だが――」
腕に、わずかに力がこもる。
「余が、誰を選び」
「誰のそばに立ち」
「誰と生きると決めたか」
「それだけは」
「一度たりとも、揺らいだことはない」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉を切る。
「……お前も、知っているだろう」
「妖には」
「人の言う“愛”という概念は、ない」
「女は子を成し、産めば」
「命を落とすことすらある」
淡々とした事実。
だが、その先は――はっきりと、違った。
「余は」
「子が欲しいと思ったこともない」
「他の者を」
「愛しいと思ったことも、なかった」
視線が、まっすぐにレイラを捉える。
逃がさない。
逸らさせない。
「勘違いするな」
低く、確かな声音。
「余が“欲しい”と思ったのは」
「レイラ、お前だけだ」
その一言で、
レイラの喉が、きゅっと鳴る。
思わず視線を落とし、
指先が、シャガルの衣をぎゅっと掴んだ。
「余が求め」
「余が触れたいと願い」
「口付けをしたいと――そう思ったのも」
「すべて、お前だけだ」
「……っ」
レイラは耐えきれず、
シャガルの胸元に、顔を埋めた。
否定も、言い訳も、
何も挟ませない断言。
シャガルは、少し困ったように息を吐く。
「正直に言えば」
「群がってくる女など」
「煩わしいとしか、思っていなかった」
「余に近づく理由」
「それは、王だから」
「力があるから、という者ばかり」
そして、静かに告げる。
「余が、王である以前に」
「男として、心を動かされたのは」
一拍。
「お前だけだ」
そっと、額が寄せられる。
口付けは、しない。
だが――
その距離は、あまりにも近い。
レイラは、思わずシャガルの衣に腕を回した。
「妻は、お前一人だ」
「それ以上も、それ以下もない」
「余は」
「お前以外を、選ぶ気などない」
低く、柔らかな声。
「……だから」
「そんな不安そうな顔をされる方が」
「余には、よほど堪える」
その言葉に、
胸に埋めていた顔を、ほんの少しだけずらす。
潤んだ瞳が、上を向く。
シャガルの口角が、わずかに緩んだ。
「本当に……」
「どれほど、余を煽れば気が済むのだ」
「……っ」
レイラの肩が、小さく跳ね、
また逃げるように、胸に顔を埋める。
「お前が何人目か、だと?」
鼻で、短く息を鳴らす。
「愚問だ」
「余にとって、お前は」
「“最後”だ」
はっきりと。
逃げも、含みもない。
「過去は、余の背後にあるだけだ」
「振り返るものではない」
「余が前を向く先にいるのは――」
「今も、これからも」
名を、低く呼ぶ。
「……お前だけだ」
沈黙。
レイラの嗚咽が、
少しずつ、静まっていく。
それでも、
離れようとはしない。
シャガルは、ふと困ったように眉を下げた。
「まったく……」
「こんな顔をさせるつもりは、なかった」
小さく、苦笑。
「余はな」
「お前が不安にならぬよう、距離を取ったつもりだった」
背に、ゆっくりと手を回し、
撫でる。
「だが……」
「寂しくさせてしまったのなら」
「それは」
「完全に、余の落ち度だ」
「勝負など」
「最初から、成立しておらぬ」
低く、囁くように。
「余は、すでに――」
「お前に、負けている」
その言葉に、
レイラは、ようやく小さく息を吸った。
涙の名残を抱えたまま、
それでも、確かに――安心した顔で。
その小さな体温を抱えながら――
シャガルの胸中は、静かに、だが確実に揺れていた。
(……この女は)
(余のことを……)
(ここまで考え、不安になっていたのか)
妖界に戻った時間。
触れなかった距離。
抑え続けた理性。
それらすべてを――
レイラは「拒まれた」と感じていた。
(……言えるはずもないが)
その事実が。
(……たまらなく、嬉しい)
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
自分の不在を、
自分の距離を、
ここまで重く受け止めていた。
その事実が、胸の奥に静かに沈む。
それは――
疑いようもなく、愛だった。
(なんて……)
(狂おしいほどに)
(いじらしい、生き物だ)
胸に顔を埋め、不安をさらけ出し、
それでもなお、余だけを見ている。
その事実が、
言葉にはできぬほど――嬉しくて、愛おしくて。
同時に。
胸の奥で、
静かに、確かに、
独占欲が鎌首をもたげる。
シャガルは、ほんのわずかに目を細めた。
「……お前こそ」
声音は静かだが、
そこには、わずかな意地と試す色。
「余が不在の隙に」
「ずっと猿と、仲良くしていたわけではあるまいな?」
冗談めかした言葉の奥に、
“余のものだ”という、はっきりした意識を隠して。
一拍。
「それとも――」
「他に、男でもできたか?」
冗談とも本気とも取れない。
だが、その奥には、確かな探りがあった。
「心にやましいことがあると」
「相手にも、そう思うと聞いたことがあるが?」
く、と喉で小さく笑う。
――挑発。
――そして、独占欲。
だが。
レイラは、怒らなかった。
きょとん、としたあと、
ゆっくりと首を横に振る。
「……そんなこと」
「あるわけ、ないだろう」
声は静かで、
むしろ、少し寂しそうだった。
「私は……」
「ずっと、シャガルを待ってた」
ぽつり、ぽつりと。
思い出すように、言葉を落とす。
「シャガルの部屋に入って」
「寝台の、残っている匂いを、嗅いだり」
「シャガルの、特等席に座ってみたり」
「一緒に行った場所を」
「……一人で、覗いたり」
小さく、息を吐く。
「でも……」
「何も、なかった」
少しだけ、視線を落とす。
「楽しくもなかったし」
「満たされもしなかった」
「ただ……」
「いなかっただけだ」
そこで、ふと何かを思い出したように、
眉を下げる。
「テュエルにも……」
「色々と、無理と我慢をさせてしまった」
「それは……」
「悪かったと、思ってる」
しばらく沈黙。
そして。
レイラは、そっと顔を上げた。
潤んだ瞳で、
上目遣いに、シャガルを見る。
「……シャガル」
一拍、ためらってから。
「私は……」
「重い、か?」
小さな声。
「……気持ちが」
抱きつくでもなく、
離れるでもなく。
ただ、不安をそのまま差し出すように。
――試すようで、
でも、逃げ場を残さない問いだった。
(なんだ、この破壊力は……)
シャガルは、悟る。
この女は。
自分がどれほど無防備な刃を
差し出しているのか、分かっていない。
だからこそ――
なおさら、質が悪い。
理性が、ぎしりと音を立てる。
同時に。
胸の奥で、別の感情が、静かに首をもたげた。
「……重い、だと?」
声音は、低く、静か。
そこに苛立ちはない。
むしろ――
どこか、愉しむような響きさえあった。
視線が、まっすぐにレイラを捉える。
「それが、重いというなら」
一歩も退かず、
逃げ場を与えぬ距離で。
「もっとだ」
低く、噛み締めるように。
「もっと、重くなれ」
腕に、わずかに力がこもる。
「余は」
「その重さごと」
「抱くと、決めている」
はっきりと。
「軽い女など」
「最初から、求めておらぬ」
レイラの瞳が、揺れた。
「……余が欲しいのは」
声が、さらに落ちる。
「余を縛り」
「余を狂わせ」
「余を、戻れなくする女だ」
一拍。
「つまり――」
「お前だ、レイラ」
「……っ」
息を呑む音。
レイラは視線を逸らし、
逃げるように――
シャガルの胸へと、顔を埋めた。
――沈黙。
(……口付けを、してはならぬ)
脳裏をよぎる、医官の言葉。
(……拷問、だな)
本気でそう思った。
こんなにも近くにいて。
腕の中にいて。
不安と好意を、全部向けられて。
(……余は、修行でもしているのか)
自嘲気味に思った、その時。
レイラが、ふいに顔を上げた。
「……でも…シャガル…」
赤くなった目で、恐る恐る。
「私のこと……」
「飽きちゃったのかと……思ったぞ……」
そのまま、再び――
ぎゅっと、強く抱きついてくる。
胸に額を押しつけて。
「触れてくれないし……」
「遠いし……」
「……私だけ」
「置いていかれた気がして……」
「……怖かった」
「………………」
シャガルの思考が、一瞬止まった。
(本当に……………)
(……なんだ、この)
(この生き物は)
(どれだけ――)
(余を、煽る)
喉が、低く鳴った。
「……飽きる、だと?」
一拍。
わざと、逃げ場を与えぬ間を置いて。
「余が――」
「お前以外に、欲情する女がいると思うのか」
はっきりと。
迷いも、冗談もない声音。
「飽きるわけがない」
視線を逸らさず、告げる。
「余は――」
「お前以外に」
「身体も、心も、動かぬ」
「……っ」
レイラは、言葉を失い、
反射的に視線を落とした。
熱が、一気に頬へと集まる。
理性が、ぎり、と音を立てる。
(抱きしめるだけだ)
(口付けは、なし)
(……だが)
(それだけで、済むと)
(本気で、思っているのか……?)
視界の端で、
自分の手が、わずかに震えているのが分かる。
レイラは気づいていない。
ただ、安心を求めて縋っているだけ。
だが。
シャガルの目は――
確実に、熱を帯び始めていた。
(……危険だ)
(この勝負)
(余の方が)
(先に、理性が死ぬかもしれぬ)
それでも。
腕を、ほどくことはできなかった。
胸元に埋められた温もり。
細い指が、服越しに背へと回る感触。
小さく震える呼吸。
(……覚えていろ)
(今は、耐えてやっているだけだ)
シャガルは、レイラの髪に顔を埋める。
口付けは、しない。
だが――深く息を吸い、匂いを逃がさない。
「……いいか、レイラ」
低く、掠れた声。
抑えている分だけ、危うさを孕んでいる。
「今は」
「医官の言葉もあろう」
その瞬間、
レイラの肩が、ほんのわずかに――ぴくりと揺れた。
(……)
シャガルは気づかない。
だが、抱き寄せた腕の中の微細な反応は、確かに伝わっていた。
「だから、余は」
「触れる手も、力も」
「すべて、抑えている」
言葉とは裏腹に、
ほんの一瞬だけ、腕に力がこもる。
抱きしめるだけ。
それ以上は、しない。
――しない、が。
「だが……」
囁くように、耳元で。
「これが、解かれたら」
「覚悟しておけ」
熱を帯びた吐息が、首筋を掠める。
「余は」
「お前を、しばらく」
「寝かせるつもりなど――ない」
「……ッ!」
びくり、と。
レイラの身体が震え、
一気に顔へと熱が集まる。
冗談めかした言い回し。
だが、その声は――
まったく、笑っていない。
「逃がすと思うな」
「今まで我慢した分」
「きっちり、取り立てる」
額を、そっと重ねる。
口付けの距離。
触れれば、終わる距離。
だが――触れない。
「……本当に」
小さく、苦笑して。
「どれほど」
「余を、試せば気が済むのだ」
「そ、そんな……」
「その……つもりじゃ……」
しどろもどろな声。
その瞬間、
レイラの身体が、また小さく跳ねたのを感じて、
シャガルは内心で歯噛みする。
(……この生き物は)
(無自覚に)
(妖王を煽る天才か)
それでも、腕は緩めない。
この勝負。
もはや、勝ち負けなどどうでもいい。
(負けたとしても)
(最後に)
(すべてを奪うのは――)
(余だ)
そう誓うように、
シャガルは、もう一度だけ――
レイラを深く抱きしめた。
強くはない。
けれど、確かに離れ難い腕。
それ以上、何もせず。
ただ、互いの鼓動が落ち着くのを待つ。
⸻
しばらく、静かな時間が流れる。
抱きしめ合ったまま、
どちらも言葉を探さず、
ただ、互いの体温を確かめていた。
熱は、まだ残っている。
だが、それを無理に押し込めることも、
今はもう、しなかった。
やがて――
レイラが、くすりと小さく笑う。
「……えへへ」
胸元に顔を埋めたまま、
少し照れたように、声を落とす。
「……たまにはさ」
指先が、シャガルの衣をぎゅっと掴む。
「シャガルに……」
「勝ちたかったんだ」
一瞬。
シャガルの動きが、止まる。
だがそれは、驚きではない。
むしろ――覚悟を決めたような、静止だった。
「……ほう」
低く、含みのある声。
レイラは、恐る恐る顔を上げて、
上目遣いに続ける。
「いつも、余裕そうで」
「全部、見透かされてるみたいで……」
「だから……」
「たまには、私が……って」
言い終わる頃には、
頬はすっかり赤くなっていた。
シャガルは、しばらく黙ったまま、
その顔を見つめていたが――
やがて、ゆっくりと息を吐く。
熱を、名残惜しそうに押し戻すように。
「……本当に」
「可愛いことを、言う」
そう呟いて、
再び、そっと抱き寄せる。
強くはない。
けれど、逃がさない腕。
「余に勝ちたい、などと」
「そんなことを考えるのは――」
額を寄せて、低く。
「お前くらいなものだ」
そして、一拍。
はっきりと。
逃げも、誤魔化しもなく。
「今回は」
「確かに、余の敗北だ」
レイラの目が、見開かれる。
「お前は、余を揺らし」
「余は、お前を手放せなくなった」
「立派な勝利だ、レイラ」
その瞬間。
レイラの表情が、ぱっと緩んだ。
安堵と、嬉しさと、
抑えていた想いが、一気に溢れる。
「……ふふ」
そう呟いてから、
胸元に顔を埋め――
少しだけ、間を置いて。
震える声で。
「……シャガル」
指先に、ぎゅっと力が入る。
「…大好き……」
一瞬、呼吸が止まる。
「……愛してる」
その言葉に、
シャガルの瞳が、僅かに揺れた。
だが、すぐに。
額を寄せたまま、低く。
確かな声音で。
「……ああ」
「余もだ」
「余も、レイラ――」
「お前を…愛している」
短い言葉。
だが、王が口にするには、
それ以上の誓いはなかった。
レイラの身体から、
ふっと力が抜ける。
「……へへ」
「勝てた……」
満足そうに、そう呟いて、
再び、シャガルの胸に顔を埋める。
シャガルは、その頭を撫でながら、
内心で静かに苦笑した。
(……ああ)
(完全に、負けたな)
こうして――
ハグ合戦は、穏やかに幕を閉じた。
勝者は、レイラ。
敗者は、シャガル。
ただし。
――この敗北が、
後日、どれほど苛烈な“回収”を生むのかを、
この時のレイラは、まだ知らない。




