「他の女のところへ行ったの?」と聞いたら、妖王を本気で怒らせました。
ガラッ、と音を立てて扉が開かれる。
ノックなど、する男ではない。
その乱暴とも言える気配に、レイラはすぐ察した。
「シャガル……来たか」
医務室の扉が開いた瞬間、
その姿を視界に捉えただけで――
胸の奥が、ほっと緩むのを感じた。
(……来てくれた)
それだけで、
ずっと張り詰めていた何かが、少しほどける。
「レイラ……」
「もう……大丈夫なのか?」
心配を隠しきれない声音。
レイラは、反射的に口を開きかけて――
そして、はっと息を呑んだ。
「あぁ……だい――」
(……違う)
大丈夫、とは言ってはいけない。
今は。
このあとに――
勝負が待っているのだから。
「……まだ、完全じゃない」
そう言ってから、
わざと、ほんの少しだけ間を置く。
「医官から……」
一拍。
【負担をかけてはいけない】
【無理は禁物】
【口付けなど、なさらないでください】
「……そう、言われてしまった」
そう言い直して、視線を落とす。
肩をすぼめ、しゅん、と力を抜いた。
――弱っているように。
――心細そうに。
――完璧なタイミング。
――完璧な声音。
(ここまでは……確かに、計算通りだった)
けれど。
「……すまないな、シャガル」
ぽつりと、零れ落ちたその言葉は、
演技ではなかった。
「お前の言うことを、ちゃんと聞いていれば……」
「倒れたりは、しなかった」
指先を、ぎゅっと握りしめる。
爪が食い込むほど、無意識に。
「寂しくて……」
「わがままを、言ってしまった」
声が、ほんのわずかに揺れた。
それは、誤魔化しきれない――本音の震え。
計算していたはずなのに。
勝負のための“弱さ”のはずだったのに。
その言葉だけは、
レイラ自身も、止められなかった。
シャガルは、しばらく黙っていたが――
やがて、低く息を吐く。
「……余も、だ」
「お前を安心させることより」
「自分の理性を、優先してしまった」
真っ直ぐに、レイラを見る。
「お前の気持ちを」
「もっと、尊重するべきだった」
そして、少しだけ声を落とす。
「だが……」
「まだ、無理はするな」
「また倒れられたら」
「……余の心が、持たぬ」
本音だった。
レイラの胸が、きゅっと締めつけられる。
「……うん」
「ごめん……」
小さく、素直に謝る。
しばし、静かな沈黙。
医務室には、
互いの呼吸音だけが残る。
(……よし)
(始めるか)
胸の奥で、にやりと笑う自分がいた。
「シャガル……」
「なんだ」
「私と……勝負しないか?」
「……レイラ、お前」
「反省しておらぬのか」
眉を寄せる。
「無理はするなと――」
言い終わる前に、
レイラが、きっぱりと遮った。
「無理なことじゃない」
「至って、安全で」
「安静な闘いだ」
「……もう」
「碁も将棋も、せぬぞ」
「そんな闘いじゃない」
少しだけ、間を置いて。
「……どっちが」
「我慢できなくなるか、でどうだ?」
「……?」
シャガルは、完全に首を傾げた。
レイラは、少しだけ目を伏せる。
「……私」
「寂しいんだ……」
正直な言葉。
「最近、シャガルが」
「触れてくれなくて……」
「距離を、取られている気がして」
「……怖かった」
視線を上げる。
「だから……」
「いっぱい、抱きしめ合いたい」
――一拍。
シャガルは、すぐには返さなかった。
眉を寄せ、レイラをじっと見つめる。
その目に、苛立ちも呆れもない。
あるのは――深い、後悔。
「……そうか」
低く、静かな声。
「余が……」
「お前を、寂しくさせたか」
ゆっくりと、一歩近づく。
「余の理性が抑えられず」
「またお前が倒れたり……」
「消えてしまうかもしれぬと考えたら」
わずかに、言葉が詰まる。
「……触れるのが、怖くなった」
「壊してしまうのではないかと」
「……失うのが、怖かった」
ふ、と小さく息を吐き、
ほんのわずかに口角が緩む。
「だが……」
一瞬、言葉を選ぶように間が落ちる。
「今の、その顔をされる方が……」
言い切らず、視線を逸らす。
「ふ……」
「情けないが」
再び、レイラを見る。
逃がさぬ距離で。
「そんな顔で、縋られるとは思わなかった」
低く、柔らかな声で。
「……まったく」
「かわいいな、お前は」
レイラ
「………………っ」
(やっぱ……ずるい……)
――そして、ほんの少し間を置いて。
「……だが」
声が、わずかに戻る。
「一体、それの」
「どこが、闘いなのだ?」
「闘いだよ、シャガル」
レイラは、にやり、と笑った。
「どっちが」
「我慢できなくなるか」
「……」
沈黙。
だが、ようやく状況を理解したらしい。
「つまり……」
「口付けは、一切なし」
「ただ、抱きしめ合う」
「そして、理性を飛ばした方が負け」
「……そういうことか?」
「あぁ」
「そういうことだ」
(……正直)
(恐ろしく危険だが)
シャガルは、内心でそう思いながらも、
ゆっくりと笑った。
「ふ……」
「いいだろう」
「その勝負、受けて立とう」
「ただし」
「本当に、無理はするな」
夫として。
王として。
そして――
レイラを想う者として。
受けるしか選択肢がなかった。
「……わかった」
レイラは、素直に頷いた。
その瞳の奥で、
小さな悪戯が、きらりと光っていた。
レイラは、ふっと表情を緩めると、
そのままシャガルを寝台へと誘った。
ぽん、ぽん、と。
小さく、寝台を叩いて。
「シャガル……ここ♡」
甘える気、満々。
まだ勝負は始まってすらいないというのに、
その声音には、期待が滲んでいた。
「…………」
(寝台……だと)
思わず、息を詰める。
――早速、理性が揺らされる。
だが、引き受けた手前、逃げるわけにもいかない。
シャガルは覚悟を決めるように、寝台へと腰を下ろし、
あぐらをかいた。
(……計算通り♡)
レイラは、内心でそう思う。
ここまで来れば、もう半分は勝ったも同然だった。
そもそも、この勝負は名目に過ぎない。
勝ち負けなど、どうでもよかった。
ただ――
妖界へ戻ってしまった夫が、
死の淵にあった自分を助けに来てくれたこと。
そして、またこうして、そばに戻ってきてくれたこと。
その後、
ゆっくりと愛を確かめ合う時間は、ほとんどなかった。
今、久々に訪れた、この機会。
それが、たまらなく嬉しかった。
レイラは、そのまま――
シャガルのあぐらの中へと、体を捩じ込み、潜り込む。
「?!」
(な……!!)
(こ、これは……!!)
(……近い……)
思わず、シャガルは息を整えるために、ふう、と息を吐く。
(これは……)
(だいぶ、厳しい戦いになりそうだ……)
そんな予感が、早くも胸をよぎった。
「シャガル……」
「な、なんだ……」
「やっと……」
「ゆっくり……」
「二人きりで、話せるな……」
「…………そうだな」
そう答えた直後。
レイラは、少し体を捻り――そのまま、ぎゅっと抱きついた。
「……っ」
(く……)
(手は……出せぬ……)
(……触れたい……)
思わず、手がひくり、と動きかける。
だが、堪える。
「シャガル……」
「助けてくれて……ありがとう」
「…………!」
胸の奥が、強く締め付けられる。
もっと早く駆けつけたかった。
自分が気づいていれば。
そもそも、妖界に戻らなければ。
傷ついてほしくなかった。
他の男に、触れさせたくなかった。
言いたいことは、いくらでもあった。
だが、それはどれも言い訳にしか聞こえぬ気がして――
シャガルは、声を失う。
それでも。
どうしても、伝えたいことが一つだけあった。
「レイラ……」
「?」
レイラは、顔を上げ、見上げる。
「余は、以前……」
「お前の、雪女としての治癒力を」
「余には必要ない、と……言い切った」
「だが……」
「余は、その治癒力に、救われた」
一度、言葉を切る。
「お前を、利用したいわけではない」
「そう伝えたつもりだったが……」
「結果的に、その恩恵を受けてしまった」
「……すまなかった」
「いや……ありがとう」
低く、静かな声。
「お前のおかげで、余は生きて戻れた」
「そして……」
「また、お前に会えた」
「……こうして、触れることができた」
「シャガル……」
ぽろり、と。
レイラの目から、涙が溢れる。
この勝負を仕掛けたことを、
レイラは、この時点で後悔していた。
本当は――
口付けを、したかった。
愛を、確かめたかった。
レイラは、もう、負けていた。
だが。
シャガル自身も、限界に近かった。
普段なら、この距離、この空気。
レイラの顎を取り、逃がさず、口付けていたはずだ。
(……くそ)
(なんて、忌々しい闘いだ……)
(医官め……)
(まだ、余を縛るつもりか……)
――本当は、もう平気だというのに。
そんな中。
レイラは、胸に溜まったもやもやを、
少しでも晴らそうとして――
遠回しに、探る為に、切り込んだ。
「……ねぇ、シャガル」
「……妖界では……」
「楽しんだのか?」
鎌をかけるには、控えめな言葉。
「なにが言いたい」
「楽しむために戻ったとでも、言いたいのか」
声が、わずかに不機嫌になる。
それに気づいたのか、
レイラの腕の力が、少しだけ緩む。
「……」
「私と会えない間……」
「他の人と……」
「楽しんだか……?」
レイラなりに、精一杯だった。
しょんぼりと、俯く。
シャガルは、少しの間、黙り込む。
思考し――そして、辿り着く。
(……まさか)
「レイラ……」
「お前、余が」
「ここを離れ……」
「他の女のもとへ行ったとでも、思っているのではあるまいな?」
「……」
レイラは、答えない。
ただ、視線を逸らす。
それが、答えだった。
「……ふざけるな」
「お前は、そんなにも」
「余のことを……」
「余の気持ちを、信じていなかったのか」
「余が、そんなにも不誠実だと?」
「……舐められたものだ」
低く、鋭い声。
「――『妖界の女とでも、仲良くしてろ』」
「……そう言っていたな」
その言葉が出た瞬間。
レイラの身体が、
ほんのわずかに――ぴくりと跳ねた。
指先が、シャガルの衣を掴む力を失い、
するりと落ちる。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「あの発言」
「余は、許すつもりはない」
「撤回しろ」
――完全に、怒らせてしまった。
もう少し、うまく伝えたかった。
いや……伝えるべきではなかったのかもしれない。
そう思った瞬間。
ぽろぽろと、涙が溢れ出す。
「……っ」
ぐすぐすと、
子供のように、泣いてしまう。
シャガルは、わずかに怯む。
「だって……」
「だって……シャガル……が……!!」
嗚咽を噛み殺しながら、必死に言葉を絞り出す。
「いつも……」
「いつも、余裕そうで……!」
「私が知らない間に……」
「私以外にも、絶対に……」
「何人も……経験していて……」
「私が……」
「何人目なのか、とか……」
「もしかしたら……」
「妻は、他にもいるのか、とか……」
「だから帰って来ないんじゃないか…とか」
「考えたら……」
「……不安で……」
「……好きなのは……」
「私だけ、なのか……って……」
えぇぇぇん、と。
堪えていたものが、ついに決壊する。
子供のように。
嗚咽を隠すこともできず、
レイラは、そのまま泣き崩れた。
必死に抑え込んでいた不安も、
寂しさも、
置き去りにされる恐怖も――
全部、溢れ出ていた。
室内に響くのは、
ただ、レイラの泣き声だけ。
シャガルは、
すぐには、何も言わなかった。
抱き寄せることも、
慰めの言葉を落とすこともせず、
ただ――
その泣き声を、真正面から受け止めていた。
(……ここまで)
(一人で)
(抱えていたのか)
その事実が、
胸の奥に、静かに沈む。
そして――
シャガルは、ゆっくりと息を吸った。
この言葉を、
軽くしてはいけないと、
本能で分かっていたからだ。
だが――
その言葉は、
まだ、形にならなかった。
泣き崩れるレイラの声だけが、
その場に、残されていた。




