夫に「満足するまで口付けしろ」と命じたら、理性が限界みたいです。
⸻
廊下。
締め出されたままの男二人は、
それぞれ壁にもたれ、腕を組んでいた。
「……そもそもだ」
先に口を開いたのは、シャガルだった。
「“安静”とは、何だ」
「……」
テュエルは、わずかに視線を向ける。
「動かないこと、ではありません」
「身体と精神に、負荷をかけぬことです」
「ならば」
「抱きしめるのは、安静ではないのか」
「それは……」
テュエルは、言葉に詰まる。
「抱きしめれば」
「欲が動きます」
「欲が動けば」
「理性が削られる」
「結果として……」
「安静では、なくなる」
「……ふん」
シャガルは、鼻を鳴らした。
「だが、安心は」
「心の安定に直結する」
「不安を抱かせる方が」
「よほど害ではないか?」
「……」
テュエルは、額に手を当てる。
「だからといって……」
「触れれば、止まれなくなる」
「それは、余も同じだ」
「……」
二人は、同時に黙り込んだ。
結論は、出ない。
分かっているのは――
どちらも正しく、
どちらも間違っているということだけ。
⸻
そこへ。
「おやおや」
軽い、笑い声。
二人が振り向くと、
廊下の奥から、最高権力者――爺が、
愉快そうに歩いてきた。
「これはこれは」
「珍しい光景ですな」
目を細め、楽しげに言う。
「まさか、夫二人が揃って」
「締め出されておるとはなぁ」
「……」
「……」
シャガルとテュエルは、無言。
「いやはや」
「仲睦まじいことですな^^」
そう言いながら、
爺は何の躊躇もなく、
レイラの自室の扉へと向かう。
「姫さま、入りますぞ」
「お、おい――」
「爺殿、今は……!」
制止する間もなく。
扉は、静かに開かれた。
⸻
数秒後。
――空気が、変わった。
「……」
爺の表情が、凍る。
寝台の脇。
床に手をついたまま――
レイラは、上体を起こすこともできず、
苦しそうに、浅い呼吸を繰り返していた。
「……ひ、姫さま!!」
即座に声を張り上げる。
「テュエル殿!」
「シャガル殿!!」
⸻
次の瞬間。
扉が開き、
二人が同時に駆け込んでくる。
「レイラ様――!」
「レイラ!どうした!?」
一目で状況を把握する。
顔色は悪く、
呼吸は浅く、乱れている。
シャガル
「……くっ」
テュエル
「……運びます!」
テュエルは迷いなくレイラを抱き上げ、
医務室へと走り出す。
シャガル
「レイラ!しっかりしろ!」
シャガルも、すぐ後を追った。
⸻
医務室。
医官に引き渡され、
処置が始まる。
少し離れた場所で、
テュエルとシャガルは並んで立っていた。
「……」
「……」
先に口を開いたのは、テュエル。
「不安が……」
「ああさせてしまったのでしょうか」
「……レイラ様の言う通りだ」
「抱きしめるべきだった」
シャガルも、低く息を吐く。
「ああ……」
「口付けも、いくらでもしてやればよかった」
「余らが、臆しただけだ」
「……はい」
「ですが……無理をさせられないのも事実です」
「……ああ」
二人の答えは、
同じ場所に行き着いていた。
後悔と、納得。
その両方が、胸に残る。
⸻
再び。
医務室の寝台。
横たわるレイラは、
医官から「無理はしないでください」と
きっちり叱られた後だった。
「……はぁ……」
天井を見つめ、
小さく息を吐く。
(……また)
(ここに、戻ってきてしまった)
「……はは……」
かすれた笑い。
「二人に……あれだけ怒っておいて……」
「このザマか……」
「情けないな……」
やがて呼吸が落ち着き、
心が――静かに、自分を責め始める。
本当は、焦っていた。
テュエルも、シャガルも、
自分に触れなくなった理由は、
頭では理解しているのに――
(傷跡は、もう消えたはずだ)
(気持ち悪くなんて……ないはずなのに)
それでも。
(……朱蓮丸に)
(触れられて……舐められて……)
そんな考えが、よぎる。
(汚いから……)
(だから、触れたくないんじゃ……)
否定したいのに、消えない。
それに――
自分自身も、
あの感覚が消えず、
早く二人の温もりを欲していた。
(……でも)
言うことを聞かなかった。
怒鳴って、追い出して、
感情をぶつけて――
その結果が、これだ。
(……安静、なのに)
胸元を押さえ、
自嘲する。
(……本当に、情けない)
静かな医務室に、
レイラの小さな呼吸音だけが残っていた。
⸻
面会許可が下りて、ほどなく。
医務室の扉を叩く音が、少しだけ早かった。
入ってきたのは、テュエルだった。
佇まいはいつも通り冷静で、所作も丁寧。
だが――切羽詰まっているのは、誰の目にも明らかだった。
よほど、あの一件が堪えているのだろう。
「レイラ様……」
「お体は……大丈夫ですか……」
「テュエル……」
「ああ。もう大丈夫だ」
「……そうですか……」
わずかに、安堵が滲む。
そして、間を置かず――深く、頭を下げた。
「レイラ様……」
「この間のことですが……」
レイラは何も言わず、静かに聞いている。
「また……勝手に嫉妬し」
「自分の気持ちを抑え」
「レイラ様のお気持ちを無視しました」
「欲を抑えられないからと……」
「触れず」
「望まれたことも……叶えませんでした」
「本当に……申し訳ございませんでした」
深々とした謝罪。
しばしの沈黙。
やがて、レイラが小さく息を吐いた。
「……頭を上げろ」
⸻
「私もな、テュエル」
静かな声。
「お前の言うことを聞かなかった」
「怒って、追い出して、無理をして……」
「その結果、またここに戻ってきた」
「……自分が、情けない」
「……惨めで、仕方ない」
「そんなこと――」
言いかけたテュエルを、レイラが遮る。
「テュエル」
名を呼ばれ、口を閉じる。
「……実は」
「言いづらくて、言えなかったことがある」
テュエルは何も言わない。
ただ、自然と身構えた。
「あの時……私がお前を遠ざけた」
「あれは、私のせいだ」
「頭では、わかっている」
「でも……」
「どうしても、拭えない感情があった」
少し、声が揺れる。
「……助けてほしかった」
テュエルは、はっと息を呑んだ。
――“あの時”。
何のことか、すぐに分かった。
レイラは、思い出すように言葉を続ける。
「……本当に、気持ち悪かった」
「いつも、お前に触れられる場所なのに」
「全然、違った」
「こんなにも違うものなのかと……」
「自分でも、驚いた」
「……あの感覚が」
「あの舌が這う感覚が……」
「まだ、消えないんだ」
【……っ】
【聞きたくなかった】
【いや、聞くべきだった】
想像が、勝手に脳裏をよぎる。
守るはずだった人に、
触れさせてしまった“それ”。
【俺は、護衛だ】
【夫だ】
【なのに、あの時……間に合わなかった】
歯を食いしばる。
「だから……」
「お前に、触れたかった」
「触れて、ほしかった」
「上書きしてほしかった」
「忘れさせてほしかった」
【……ああ】
【それは、そうだ】
【そうに決まっている】
【俺が、上書きすべきだった】
「……汚いと思われたら、どうしよう、とか」
「色々考えた」
【汚いなんて】
【思うわけがない】
「でも、言ったら……」
「お前は、また自分を責めると思って」
言葉が途切れる。
頬を、一筋の涙が伝った。
「レイラ様……」
胸が、締めつけられる。
ここまで追い詰められていたこと。
ここまで救いを求めていたこと。
「すぐに助けられず……」
「本当に、申し訳ございませんでした」
テュエルは、そっと手を伸ばし、しっかりと握る。
「……レイラ様」
「……ん……」
「レイラ様が、叶えてほしいこと」
「必ず、叶えます」
「罰でも……何でも」
「レイラ様が無理をなさらないことであれば」
「遠慮なく、仰ってください」
「……ボクに、できることなら――」
「……」
レイラが、ぽつりと言った。
「……“ボク”じゃなくて」
「“俺”にしてほしいことなら、ある」
「……え?」
テュエルは目を瞬かせる。
「どういうことでしょう……?」
自分の一人称が変わっていることに、まるで気づいていない。
「……なんでもない」
レイラは、視線を逸らしながら続けた。
「お前に」
「護衛としてじゃなく……」
「夫として、してほしいことがある」
「……なんでしょうか」
「罰も受けると言っていたな?」
「はい。もちろんです」
「解雇以外であれば……何でも」
レイラは、はっきりと言った。
「……口付けだ」
「…………」
【……罰?】
【いや】
【どう考えても】
【……ご褒美では?】
「勘違いするな」
「ただの口付けじゃない」
「“私”が」
「“満足するまで”だ」
「罰だからな」
少しだけ、意地の悪い笑み。
テュエルは、黙り込んだ。
(……罰じゃなくないか?)
(いや、幸せすぎないか?)
(もう治療目的でもないし……)
(本気で……殺しにきてる?)
数拍、遅れて。
(……いや……地獄だ)
(理性が、絶対にもたない)
(拷問だ)
(でも……拒んだのは、俺だ)
結論。
(……逃げ場が、ない)
「……どうだ」
「この罰も、受けられないか?」
レイラは、ほんの少し目を伏せた。
(……やっぱり……私は汚いのか……)
【嬉しい】
【死ぬほど】
【嬉しい】
【でも】
【これは】
【拒めない】
【拒む資格がない】
「……受けます」
「……ん?」
「受けます」
レイラの目が、ぱっと見開かれる。
【これは、俺への罰だ】
【そして】
【救いだ】
「……じゃあ」
「私が満足するまで、だからな?」
「……わ、わかりました……///」
――
それは、静かな勝負だった。
満足するまで耐えきれたら、俺の勝ち。
耐えきれなければ――幸せな負け。
理性を守れれば、夫としての勝利。
崩れれば、その瞬間が敗北。
ただしその敗北は、
甘くて、逃げ場がなくて、
どう考えても“ご褒美”だった。
これは罰ではない。
テュエルに課された、我慢大会。
勝っても地獄。
負けても天国。
そんな勝負が、今、始まる。
⸻
「……じゃあ」
レイラは、ゆっくりと視線を上げた。
唇に、ほんのり笑み。
「罰、始めるぞ」
艶やかな声だった。
――その一言だけで。
(やばい)
(まだ何もしてない)
(してないのにもう限界なんだが!?///)
テュエルの内側が、悲鳴を上げる。
呼吸は平静。
姿勢も完璧。
表情も、いつも通り。
――中身以外は。
(落ち着け)
(これは罰だ)
(我慢大会だ)
(軽く、ほんの、軽く……)
レイラは、何も言わず――
ただ、少し顎を上げて待っていた。
完全に、キス待ちの顔。
(無理無理無理無理無理)
だが、逃げ場はない。
テュエルは覚悟を決め、
そっと身を屈め――
触れるだけ。
羽が触れたような、ほんの一瞬の口付け。
すぐ、離れる。
「……」
沈黙。
レイラは、じっと彼を見つめ――
次の瞬間、頬をぷくっと膨らませた。
「……なんだ、それは」
「……っ」
(詰められた!!)
「罰、だと言っただろう」
「手加減するな」
(手加減しない=死)
テュエルの理性が、悲鳴を上げる。
(一回でこれだぞ!?)
(二回目なんて耐えられるわけが――)
その時。
レイラが、ふっと距離を詰めた。
「……なら」
自分から。
迷いなく、
今度は――はっきりと、深く。
「……っ!!」
テュエルの視界が、一瞬、真っ白になる。
(あぁ……)
(殺す気か…………)
(レイラ様自ら……)
(……幸せすぎる)
(……これは罰じゃない)
(……拷問でしかない!!!)
離れた後、
テュエルはその場で固まっていた。
目はうつろ。
魂が半分、どこかへ行っている。
「……」
レイラは、そんな彼を見上げて、
少しだけ満足そうに言った。
「……今のは、悪くない」
(終わった……)
テュエルは悟った。
これは勝負じゃない。
耐久戦ですらない。
これは――
いつ崩れるかを試される地獄。
そして罰は、
まだ、始まったばかりだった。




