犬には二度とならぬ。
シャガルが部屋に入り、扉が閉まったあとも――
室内の空気は、どこか落ち着かないままだった。
寝台へ戻されたレイラは、天井を見上げたまま、小さく息を吐く。
(……やっぱり……まだ、か……)
動ける、と思った。
だが――思っていたほど、身体は言うことを聞かない。
その横で、テュエルは腕を組み、
自分自身に言い聞かせるように、深く呼吸を整えていた。
(……危ないところだった……)
(さすがに、今はダメだ……)
(理性を、保たねば……)
そんな二人を、少し離れた位置から、
シャガルは黙って眺めていた。
腕を組み、壁にもたれ、
まるで戦場を見渡すかのような眼差しで。
「……面倒なものだな」
ぽつり、と落ちた声。
テュエルが振り返る。
「……何が、ですか?」
「回復だ」
即答だった。
「斬られ、砕かれ、焼かれた傷より」
「こうして、元に戻る過程の方が」
「よほど、厄介だ」
レイラは、わずかに苦笑する。
「……否定できないな……」
シャガルは一歩、テュエルの前へ出た。
視線は低く、だが逃がさない。
「お前もだ」
「……っ」
「腹を庇う癖が、抜けていない」
「無理をすれば、また倒れるぞ」
一瞬、テュエルは言葉を失った。
「……しかし……」
「倒れれば」
「レイラは、二度傷つく」
それだけで、十分だった。
テュエルは、静かに目を伏せる。
「……承知しました」
その様子を見ていたレイラが、むっと眉を寄せる。
「……なぁ……」
二人の視線が向く。
「……ずっと寝ているのは……」
「正直、退屈だ……」
「ダメです」
テュエルの即答。
「外に出るなど、論外です」
「……まだ何も言っていない……」
「顔に書いてあります」
ぴし、と遮られる。
レイラは不満げに頬を膨らませた。
「……風に、当たりたいだけだ……」
「歩かない……」
沈黙。
その間に――
シャガルが、ふっと息を吐いた。
「……短時間だぞ」
「シャガル!」
テュエルが即座に反応する。
だがシャガルは視線を動かさず、淡々と言った。
「歩かせぬ」
「余が、運ぶ」
レイラが、ぱっと顔を上げる。
「……本当か?!」
「あぁ」
「本当に、少しだけだ」
レイラの瞳が、嬉しそうに輝く。
「ダメです」
「まだ、安静にしなければ……」
テュエルの声には、
自分がそうできないことへの――
ほんのわずかな嫉妬が滲んでいた。
「余が離さぬ」
「十分、安静だと思うが」
テュエルは反論しかけ――言葉を飲み込む。
「……っ」
その隙に、
シャガルは迷いなくレイラを抱き上げた。
「すぐ戻る」
そう言い残し、部屋を後にする。
――――
外は、穏やかな昼の風に包まれていた。
シャガルはレイラを抱いたまま、
城の外縁へと、静かに浮かび上がる。
高すぎない。
だが、確かに地面からは離れている。
風が、頬を撫でた。
「…………」
レイラは、思わず目を細めた。
冷たくも、痛くもない。
ただ――そこに、世界があった。
「……無理はないか?」
シャガルが、低く問う。
「……うん……」
「気持ちいい……」
「そうか」
それだけで、十分だった。
下では、テュエルが腕を組み、
心配と嫉妬と安堵が入り混じった表情で、空を見上げている。
(……はぁ……)
(ずるいな……)
だが――
今は、それでよかった。
レイラ
「ねぇ……シャガル……」
シャガル
「なんだ」
レイラ
「なんで、シャガルって飛べるの?」
シャガル
「……どうした、いきなり」
レイラ
「……他に、飛んでる人……見たことないから」
シャガルは、心底不思議そうに首を傾げた。
シャガル
「アインだって、飛ぶだろう?」
レイラ
「……え……」
(…………知らなかった…………)
シャガル
「全く……あいつは……」
「相変わらず、口が足りぬ男よ」
「いや……行動も、足らぬな」
レイラ
「……ふっ……」
レイラは、少し昔を思い出し、
胸の奥が、温かくなるのを感じた。
「……そろそろ、戻るぞ」
戻る、その時。
レイラは、小さく呟いた。
「……シャガル……ありがとう……」
シャガルは、答えなかった。
ただ――
抱く腕に、わずかに力を込める。
完全に戻るには、まだ時間がいる。
だが。
焦る必要はない。
この場所には――
もう、独りではないのだから。
――――
シャガルと共に戻ってきた後、
レイラは再び寝台に横になっていた。
外の風に当たったせいか、身体は少し重い。
けれど――心は、驚くほど軽かった。
「…………」
天井を見上げたまま、内心で小さく息を吐く。
(しかし……)
(退屈だ……)
ぽつりと、声を投げた。
「……まだ、起きていてもいいか?」
即座に、テュエルが反応する。
「ご無理なさらず、ちゃんと休んでください」
一方で、シャガルは腕を組んだまま、わずかに考える素振りを見せた。
「……動かぬのならな」
その言葉に、レイラの目がぱっと輝く。
レイラ
「シャガル……!!」
テュエル
「ほんと、あなたは……!」
テュエルは、呆れたように額を押さえた。
テュエルは、絶対安静派。
シャガルは、無理さえしなければ少しくらい許す派。
――今のレイラにとって、
シャガルはとても話のわかる男だった。
レイラ
「テュエル、大丈夫だ」
「動かない」
「絶対に……!」
即答だった。
シャガルは小さく鼻を鳴らし、
わずかに口角を上げる。
「……で、何をするつもりだ?」
レイラは少し考えてから、部屋の隅を指した。
「……あれなんて、どうだ?」
そこには、盤台が置かれている。
「将棋……? 碁ですか?」
テュエルは一瞬考え、
「盤遊びなら……」と、少しだけ安堵した表情を見せた。
レイラ
「そうだ」
「体を動かさなくても」
「退屈凌ぎになるだろう?」
レイラは、どこか楽しそうだ。
「ふん。余に勝つつもりか?」
シャガルの声音にも、わずかに楽しげな響きが混じる。
レイラ
「やり方、知っているのか?」
シャガル
「それくらいはな」
テュエルは二人を見比べ、肩をすくめる。
「では、ボクが審判ですね」
「まずは碁から」
レイラ
「よし、やるか」
シャガル
「ふ……負けるものか」
⸻
結果から言うと。
シャガルは、負けた。
しかも――はっきりと、完敗だった。
シャガル
「……理解不能だ」
盤面を睨みながら、低く呟く。
シャガル
「将棋だ……!」
「将棋なら負けぬ……!!」
「いいぞ」
レイラはあっさりと頷く。
「では、次は将棋ですね」
「次こそは負けぬ」
⸻
結果から言うと。
シャガルは、また負けた。
今度は、大敗だった。
盤を睨みつけ、低く唸る。
テュエル
「さすがレイラ様ですね^^」
「駒の切り方に知性を感じます」
シャガル
「ぐぬぬ……!!」
「余に知性がないと言いたげだな?!」
明らかに、悔しそうだ。
シャガル
「なぜだ……! なぜ勝てぬ……!!」
「なぜそこで、その駒を切る!!」
レイラは寝台にもたれ、肩をすくめる。
「……なんとなく、だ」
シャガル
「なんとなくで勝てるわけがなかろう」
レイラ
「先を読もうとしたら……」
「なんとなく勝った」
「……」
沈黙。
シャガルはしばらく盤面を睨んでいたが、
やがて、ふいっと視線を逸らした。
シャガル
「……つまらん」
「二度とやらぬ」
レイラ
「負けたからだろ?」
シャガル
「違う」
「余は、こんな盤台の戦遊びではなく」
「本物の戦が得意なだけだ」
テュエル
「考えてなさそうだもんな」
シャガル
「なんだと、脳筋猿!!」
「ふん……とにかく、もうやらぬ」
完全に拗ねていた。
その様子に、レイラは小さく笑う。
レイラ
「……でも、楽しかった」
「ありがとう、シャガル……」
シャガルは何も返さなかった。
だが、視線だけは――ほんの一瞬、柔らいだ。
⸻
夜。
部屋の灯りが落とされ、
静けさが満ちていく。
テュエルはすでに医務室を離れ、
自室で休めるまでに回復していた。
本当は一緒にいたかったが、
医官に「今度はあなたが休みなさい」と追い出された形だ。
シャガルも、寝所へ戻るところだった。
「レイラ、ゆっくり休め」
布団の中で、レイラは身じろぎする。
「……シャガル」
「なんだ」
「……犬に、なってくれないか」
一瞬。
空気が、止まった。
「……は?」
「前に、よくそうしてただろう」
「……眠れそうで……」
シャガルは、明らかに言葉を失う。
(――いや……まずい)
だが、拒む理由も見つからなかった。
「……添い寝だけだ」
低く、念を押す。
「わかってる」
次の瞬間、
ふっと影が揺れ、寝台の横に――白い柴犬が現れた。
少しふてぶてしい顔。
レイラは懐かしそうに微笑み、
自然とその首元に手を伸ばす。
「……はぁ……あったかいな……」
「……もふもふだ……♡」
無意識に、頬を寄せる。
撫でる。
抱き寄せる。
頬擦りする。
犬の姿のまま、シャガルは固まっていた。
(以前は……)
(幸せで、たまらなかった)
(だが……)
(これは……)
(……ただの拷問ではないか……?!)
心臓が、煩い。
だが、動かない。
動けない。
やがて、レイラの呼吸は穏やかになり――
眠りに落ちた。
シャガルは天井を見つめたまま、
一晩中、身じろぎ一つしなかった。
⸻
翌朝。
レイラが目を覚ました時、
隣に犬シャガルはいなかった。
目を擦る。
(あれ……?)
(もう……起きたのか……?)
代わりに、扉の外から低い声が聞こえる。
「……二度と、犬にはならぬ」
断言。
「なんでだ……!」
「もふもふ……したいのに……!」
少し潤んだ目で抗議するレイラに、
シャガルの意思が揺らぐ。
「…………気が向いたらな……」
二度と言ったくせに、少しだけ甘い。
理由は、語られなかった。
その光景を目撃してしまったテュエルは、
胸の奥に、ちくりとした違和感を覚える。
(……シャガルは、いいのか……)
レイラの横顔を一目見て、
そっと視線を逸らした。
(……俺は……)
その答えを、
まだ言葉にできないまま。
静かな朝が、始まった。




