世界を救ったのは、英雄ではなかった。
そして、ふと思い出したように、レイラはシャガルへと視線を向けた。
「シャガル……今、妖界を空けていて大丈夫なのか……?」
「いきなり出てきてしまったのだろう?」
その問いに、シャガルは一瞬だけ目を伏せ、すぐに静かに答える。
「あぁ……とりあえずは、問題なかろう」
「馬天に任せてある」
「……馬天に?」
レイラが首を傾げると、シャガルは少しだけ口角を上げた。
「あぁ。あやつの王羅は“変化”だ」
「化けた主の王羅そのものは使えぬが……」
「限りなく完璧に近い変身ができる」
淡々と語りながらも、その目はどこか楽しそうだ。
「今頃は、余の身代わりとして」
「妖界で足止めを喰らわされておるだろう」
そう言って、意地の悪い笑みを浮かべるシャガル。
レイラは一瞬だけ沈黙し――
(……馬天……お気の毒に……)
と、心の中で静かに手を合わせた。
―――――
一方、その頃の妖界。
――シャガルに変身中の馬天。
(ひぃぃぃーーー!!)
(勘弁してくれよぉぉぉ!!)
心の中で悲鳴を上げながら、四方八方から浴びせられる罵声と詰問を、必死に真顔で受け止めていた。
(なんで拙者が……!)
(なんで拙者が妖王役なんだよぉぉ……!!)
――哀れ、馬天。
―――――
場面は戻り、医務室。
シャガルは、表情を引き締め、静かに言葉を続けた。
「……今回の事件」
「本来であれば――」
そして、視線をテュエルへ向ける。
「テュエル」
名を呼ばれ、テュエルの肩がぴくりと跳ねる。
「お前は、朱蓮丸に殺されていた」
その言葉を、テュエルは否定しなかった。
事実だと、理解していたからだ。
拳を、強く握りしめる。
「……っ」
シャガルは、今度はレイラを見る。
「そして、レイラ」
「お前は人質として囚われ――」
淡々と、しかし冷酷な現実を突きつける。
「あやつらの玩具とされ」
「治癒力も、巫女の力も利用され」
「死んだほうが楽だと思える苦しみを」
「……永遠に、与えられ続けていただろう」
室内の空気が、重く沈む。
「そして、人質とされた以上」
「余も、抵抗することはできず」
「……死んでおった」
静かに言い切るシャガル。
「今回の事件はな」
「あの若き兵士――そして、馬天」
「あの二人がいなければ……」
「すべて、終わっていた」
レイラは、思わず息を呑む。
「……どういう、ことだ?」
その問いに応えるように――
シャガルは、記憶を辿るように語り始めた。
⸻
――ヤヒロの回想――
双国の外れ。
夜空の一角だけが、
不自然なほど黒く、重く歪んでいた。
レイラを探しに来ていたヤヒロだった――
ヤヒロは、足を止める。
(……嫌な気配だ)
胸の奥がざわつく。
地の底から、何かが軋むような――
微かな地響き。
気づけば、身体はその方向へと走り出していた。
やがて、声が聞こえてくる。
人のものではない。
だが、その中に――
聞き覚えのある声が混じっていた。
ヤヒロは身を低くし、
茂みの影から、そっと覗き込む。
――見えた。
レイラ。
そして、その前に立つテュエル。
さらに、その奥。
闇と瘴気を纏った、
明らかに“この世のものではない”異形。
(……っ)
喉が鳴る。
(あれは……妖……?)
そして、確信する。
(レイラ様と……)
(シャガル様と……)
(――同じ、気配……?)
だが、その思考は、すぐに遮られた。
視界の端。
空間そのものが、
不自然に“捻じれて”いる。
(……なんだ、あれ)
(時空が……歪んでいる……?)
冷たい汗が、背中を伝う。
(まさか……)
(妖の世界と……繋がっているのか……?)
シャガルの名が、脳裏をよぎる。
(シャガル様は……)
(この事態を……ご存知なのか……?)
ごくり、と唾を飲み込む。
この先に何があるのか。
生きて戻れる保証など、どこにもない。
――それでも。
足は、止まらなかった。
ヤヒロは息を殺し、
気配を消す。
(……気づかれていない)
歪みの縁へ、そっと近づく。
(この先に……)
(シャガル様が……いるのなら……)
次の瞬間。
ヤヒロは、躊躇なく――
闇の裂け目へと、身を投じていた。
――
そして――
ヤヒロは、妖界へと辿り着いた。
次の瞬間。
「……っ!!」
息を吸った途端、喉が焼ける。
(なんだ……これ……)
瘴気が、肌にまとわりつく。
空気そのものが、異物だった。
「……苦し……っ」
胸の奥が、じりじりと焼かれるように痛む。
息をするたび、肺が拒絶しているのがわかる。
(……まずい……)
それでも、歯を食いしばる。
(シャガル様に……)
(会わないと……!)
(伝えなきゃ……!!)
あてもなく、ただ必死に走る。
だが、妖界の瘴気は容赦なかった。
人間の身体を、確実に、確実に――蝕んでいく。
視界が揺れる。
足がもつれ、ついに――
「……っ……!」
膝をつき、地面に倒れ込んだ。
ぜぇ……ぜぇ……。
肩で荒く息をしながら、なんとか顔を上げる。
その時だった。
周囲の気配が、ざわりと変わる。
「なんだぁ?」
「人間じゃねぇか!」
耳障りな声。
「餌だぞ!!」
「へへへ……」
「わざわざ餌になりに、人間界から来たのか?」
視界の端に、いくつもの影。
「若い肉だ!」
「うまそうだなぁ!!」
小妖怪たちが、にやにやと笑いながら集まってくる。
(くそ……伝えられず……)
(……終わるのか……)
ヤヒロの脳裏に、静かにその言葉が浮かんだ。
――その時。
「うわぁぁぁ!!」
「酒呑様!!!?」
悲鳴が上がる。
「ひっ……妖王!!」
「お助けをぉぉ!!」
さっきまで騒いでいた妖怪たちが、一斉に散り散りに逃げ出した。
(……?)
何が起きたのか、わからない。
霞む視界の向こう。
人影が、ゆっくりと近づいてくる。
ヤヒロは必死に目を凝らした。
そして――
「……シャ……」
「シャガル……様……?」
思わず、声が漏れる。
目の前に立っていたのは、間違いなくシャガルの姿だった。
だが。
「ん?」
「なんだ、お前」
冷たい声。
「酒呑様の知り合いか?」
(……え?)
混乱するヤヒロ。
目の前にいるのは、レイラの夫であり、シャガル――
の、はずだった。
「……え……??」
すると、その“シャガル”は、少し気まずそうに頭を掻いた。
「あぁ……悪い」
そう言って、姿が揺らぐ。
次の瞬間。
そこに立っていたのは――
ヤヒロよりも小柄な、小鬼の姿だった。
「すまなかった!」
「拙者は馬天!!」
「酒呑様の従者だ!!」
従者――
ヤヒロの意識が、はっきりと繋がる。
「……っ!!」
「馬天様!!!」
必死に、声を張り上げる。
「お願いです!!」
「俺を……!!」
「シャガル様の元へ!!!」
息が切れる。
だが、止まらない。
「レイラ様が!!!」
「レイラ様が……危ないんです!!!」
その言葉だけで、馬天はすべてを察した。
「……やはり……!!」
低く唸る。
(罠だったか……)
(酒呑様……!!)
次の瞬間。
馬天の身体が、大きくうねり――
龍の姿へと変化する。
「しっかり掴まれ!!」
巨大な足で、ヤヒロの身体を掴み上げる。
視界が、一気に流れた。
二人は、一直線に――
シャガルのいる、醉鬼殿へと向かう。
こうして。
ヤヒロと馬天は、命を賭して――
真実を、妖王の元へと届けたのだった。
――――――――
シャガルは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そう……あの若き新兵、ヤヒロ」
「そして、馬天」
一度、視線を伏せる。
「あの二人という“偶然”が重ならなければ……」
「もう、余らは……」
「……終わっていた」
その言葉の重さに、医務室の空気が沈む。
テュエルも、レイラも、思わず息を呑んだ。
「そんな……ことが……」
テュエルの声は、かすかに震える。
「ヤヒロ……」
レイラは胸元に手を当てた。
「ヤヒロは……無事なのか……?」
シャガルは、静かに頷く。
「あぁ……」
「治療はすでに終え、帰宅している」
「まだ安静は必要だがな」
その言葉に、レイラは小さく息を吐いた。
「……そう、か」
「……礼を……言わねばな……」
ヤヒロ――
双国東部族の新兵、十五歳。
英雄でもなければ、選ばれし血も持たない。
それでも――ただ一人、退かなかった人間。
だが、今回の事件において、
彼は確かに“影の実力者”であり――
救世主だった。
何の力も持たない一人の人間の行動が、
テュエルの命を繋ぎ、
レイラの未来を守り、
そして――妖王シャガルの運命すら、変えたのだ。
そうして、静かに。
名もなき新兵が繋いだ選択は、
三人の命を越え、
人間界そのものを、
確かに――救っていた。




