強くなれ――次に間に合うために。
どれほどの時が流れただろうか。
外では昼と夜が、
何度か入れ替わったはずだった。
医務室には、
一定の呼吸音と、薬の匂いだけが満ちている。
静かで、
あまりにも静かな時間。
⸻
最初に、変化が訪れたのは――
テュエルだった。
「……」
微かに、指が動く。
次いで、
胸の上下が、わずかに深くなる。
――苦しそうな、息。
喉が鳴り、
掠れた呼吸音が、はっきりと空気を震わせた。
「……っ」
ゆっくりと、
まぶたが持ち上がる。
焦点の合わない瞳。
天井の輪郭を、ぼんやりと捉えながら――
しばらく、何も言わない。
意識は、まだ深い霧の中だ。
(……ここは……)
思考が繋がるまで、
時間がかかる。
全身が、重い。
骨の奥まで、軋むように痛む。
呼吸をするだけで、
胸の内側が、ずきりと悲鳴を上げた。
(……ああ……)
(生きてる、か……)
無意識に、
視線が横へと動く。
そして――
そこに、彼女がいた。
隣の寝台。
眠ったままの、レイラ。
血の気を失った頬。
閉じた瞼。
微かに揺れる、胸元。
生きている。
それは、わかる。
それでも――
あまりにも、静かだった。
(……レイ……ラ……様……)
声は、ほとんど音にならない。
喉が焼けつくように痛み、
息と一緒に、名前が零れ落ちる。
(……俺が……)
胸の奥に、
重く、冷たいものが沈む。
(俺が、もっと……強ければ……)
(あなたを……こんな姿には……)
視線が、
彼女の指先へ向かう。
触れたい。
確かめたい。
温もりを。
鼓動を。
生きているという事実を――
この手で。
だが。
腕は、持ち上がらない。
指先が、
わずかに震えるだけで、力が抜ける。
「……っ……」
歯を食いしばる。
身体が、言うことをきかない。
(……くそ……)
(名を……)
(呼びたいのに……)
喉が、引き攣る。
もう一度、
名を呼ぼうとして――
息だけが、漏れた。
(……悔しい……)
自分よりも、
彼女の方が、ずっと深い場所にいる。
それが、
嫌というほど、わかってしまう。
テュエルは、
震える腕で、わずかに身じろぎする。
だが、
すぐに――力が抜けた。
身体は、
まだ、動くことを許されていない。
「……守れなかった……」
掠れた呟き。
誰に聞かせるでもない、
自責の言葉。
それでも。
意識は――
完全には、落ちなかった。
まるで、
隣に眠る彼女を見張るように。
強靭な肉体と、折れぬ精神を持つ男は、
痛みと悔恨に沈みながらも――
眠りへ逃げることを、選ばなかった。
――
また、日が昇った。
医務室の窓から差し込む光は、
昨日と同じ角度で、同じ床を照らしている。
それが――
何より、残酷だった。
変わらないという事実が、
希望ではなく、不安を連れてくる。
⸻
テュエルは、ゆっくりと上体を起こしていた。
肋の奥が、ぎしりと軋む。
呼吸のたびに、鈍い痛みが走る。
だが――
もう、起き上がれる。
それだけの回復力は、
確かに、身体に戻ってきていた。
(……それなのに)
視線は、自然と隣へ向く。
眠ったままの、レイラ。
顔色は、まだ白い。
胸の上下はあるが、
あまりにも、弱々しい。
(……俺は)
喉の奥が、ひりついた。
(俺は、もう起きているのに)
拳を握ろうとして、
力が入らず、指先が震える。
(俺が、もっと……)
(もっと、強ければ)
レイラ様が、
こんなふうに横たわることはなかった。
八岐に触れさせなかった。
雷撃を、もっと前で受けられた。
――守れたはずだった。
何を一人で、
悠長に気絶していた……。
「っ……!!」
苛立ちに任せて拳を握る。
同時に、鋭い痛みが走った。
全部、“できたはず”のことだ。
「……っ」
歯を噛みしめる。
声を出したい。
名を呼びたい。
指先で、確かめたい。
生きていると。
ここにいると。
だが――
今は、それすら許されていない。
動かせない身体よりも、
触れられない距離の方が、
よほど、きつかった。
⸻
そのとき。
気配が、一つ増えた。
振り向かずとも、
誰かわかる。
シャガルだった。
いつの間にか、
医務室の入り口に立っている。
相変わらず、
足音ひとつ、立てずに。
「……起きていたか」
低い声。
テュエルは、
ゆっくりと息を整えてから、答えた。
「……はい」
それ以上、
言葉はすぐに続かなかった。
沈黙が落ちる。
だが、
気まずさはない。
二人の視線は、
同じ場所にあった。
眠る、レイラ。
しばらくして、
テュエルが、ぽつりと零す。
「……俺が」
声が、わずかに震えた。
「俺が、もっと強ければ……」
そこで、
言葉が詰まる。
続きを言えば、
取り返しがつかなくなる気がした。
だが――
シャガルは、止めなかった。
「……そうだな」
短く、否定のない声。
テュエルは、
はっとして、顔を上げる。
「…………」
シャガルは、
ゆっくりと首を振る。
「強さが、足りなかった」
「それは、事実だ」
胸に、
重いものが落ちる。
「……それでもだ」
「人の身で、あの場を生きて戻った」
「それだけで――異常だ」
だが、すぐに続く。
「だがな」
シャガルの視線は、
なおも、レイラに向いたまま。
「今ここで悔やみ続けても」
「この女は、目を覚まさん」
逃げ場のない言葉だった。
慰めでも、
叱責でもない。
ただ、
現実だけを置いていく声。
「……」
テュエルは、
唇を噛みしめる。
「……はい」
絞り出すように、答えた。
シャガルは、
ほんのわずか、目を細める。
「次だ」
それだけ言った。
「次に、間に合うために」
「強くなれ」
命令ではない。
だが、選択肢でもない。
テュエルの胸の奥で、
何かが、静かに燃え始めた。
「……必ず」
掠れた声でも、
言い切る。
「必ず、間に合わせます」
シャガルは、
それ以上、何も言わない。
ただ一度、
小さく、頷いた。
⸻
シャガルは、
一瞬だけテュエルを見た。
(……だが)
胸の奥で、
別の思考が、静かに浮かぶ。
(あの力は……)
朱蓮丸の爆炎が、
“拒まれた”瞬間。
白群色の、あの残光。
(こやつは……)
(アインの心臓を、喰ったと言っていたな)
思考が、
わずかに、深く沈む。
(…………)
記憶の奥にある、
もう二度と触れぬはずの名。
(……まさか、な)
それ以上は、
考えなかった。
否定も、肯定もせず。
今はまだ――
確かめるには、早すぎる。
シャガルは、
その思考ごと切り捨て、
再び、眠るレイラへと視線を戻す。
そして――
静かに、医務室を出ていった。
⸻
残された静寂の中。
テュエルは、
もう一度、レイラを見た。
「……レイラ様」
今度は、
はっきりと名を呼ぶ。
返事は、ない。
それでも。
「……待っていてください」
痛む身体を、
無理やり支えながら。
「次は……」
「俺が、守りますから」
その言葉だけは、
どれほど時間が過ぎても――
胸の奥で、消えなかった。
――
数日が過ぎていた。
テュエルは、まだ完全には歩けない。
それでも、立ち上がることはできた。
肋の奥に走る鈍い痛みを押し込め、呼吸を整え、
かろうじて身体を支える。
「……まだ、寝ていて下さい。」
医官の声は厳しい。
それでも、テュエルは言葉を無視する。
自分の意思よりも、胸の奥の衝動に従った。
静かに、ゆっくりと、レイラの寝台の横へ。
まだ顔色は悪く、呼吸も弱い彼女のそばに
ただ、立つ。
まるで、自分を罰するかのように――。
その姿を、シャガルは黙って見ていた。
動かず、表情も変えず、ただ視線だけがレイラに注がれる。
「……まだ重症ではありますが」
医官の声が割り込む。
「意識を取り戻すのを待つだけですので、もう触れても大丈夫です」
その言葉が、静寂の空間に落ちた。
触れることが許された。
なのに、二人は動かない。
あれほど触れたくて、確かめたくて、
手を伸ばそうとしていたのに――。
動かない。触れられない。
互いの思いは、言葉よりもずっと深く、胸に沈む。
しばらくして、テュエルが席を外す。
その瞬間、空間に残った気配は、声にならない声を呼ぶ。
「レイラ……」
そしてシャガルが扉の向こうへと歩き去る時、
残されたテュエルの口元からも、同じ名が零れた。
「レイラ様……」
返事はまだ、ない。
互いに、触れられずとも、
その名だけで、想いを届ける。
静かな時間は、まだ続く。




