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双国ノ巫女 〜愛されることを諦めた姫が愛を知る物語〜  作者: Su
奪われかけた巫女と、帰還する王
162/226

強くなれ――次に間に合うために。


どれほどの時が流れただろうか。


外では昼と夜が、

何度か入れ替わったはずだった。


医務室には、

一定の呼吸音と、薬の匂いだけが満ちている。


静かで、

あまりにも静かな時間。


⸻


最初に、変化が訪れたのは――

テュエルだった。


「……」


微かに、指が動く。


次いで、

胸の上下が、わずかに深くなる。


――苦しそうな、息。


喉が鳴り、

掠れた呼吸音が、はっきりと空気を震わせた。


「……っ」


ゆっくりと、

まぶたが持ち上がる。


焦点の合わない瞳。

天井の輪郭を、ぼんやりと捉えながら――

しばらく、何も言わない。


意識は、まだ深い霧の中だ。


(……ここは……)


思考が繋がるまで、

時間がかかる。


全身が、重い。

骨の奥まで、軋むように痛む。


呼吸をするだけで、

胸の内側が、ずきりと悲鳴を上げた。


(……ああ……)


(生きてる、か……)


無意識に、

視線が横へと動く。


そして――

そこに、彼女がいた。


隣の寝台。

眠ったままの、レイラ。


血の気を失った頬。

閉じた瞼。

微かに揺れる、胸元。


生きている。

それは、わかる。


それでも――

あまりにも、静かだった。


(……レイ……ラ……様……)


声は、ほとんど音にならない。


喉が焼けつくように痛み、

息と一緒に、名前が零れ落ちる。


(……俺が……)


胸の奥に、

重く、冷たいものが沈む。


(俺が、もっと……強ければ……)


(あなたを……こんな姿には……)


視線が、

彼女の指先へ向かう。


触れたい。

確かめたい。


温もりを。

鼓動を。

生きているという事実を――

この手で。


だが。


腕は、持ち上がらない。


指先が、

わずかに震えるだけで、力が抜ける。


「……っ……」


歯を食いしばる。


身体が、言うことをきかない。


(……くそ……)


(名を……)


(呼びたいのに……)


喉が、引き攣る。


もう一度、

名を呼ぼうとして――

息だけが、漏れた。


(……悔しい……)


自分よりも、

彼女の方が、ずっと深い場所にいる。


それが、

嫌というほど、わかってしまう。


テュエルは、

震える腕で、わずかに身じろぎする。


だが、

すぐに――力が抜けた。


身体は、

まだ、動くことを許されていない。


「……守れなかった……」


掠れた呟き。


誰に聞かせるでもない、

自責の言葉。


それでも。


意識は――

完全には、落ちなかった。


まるで、

隣に眠る彼女を見張るように。


強靭な肉体と、折れぬ精神を持つ男は、

痛みと悔恨に沈みながらも――

眠りへ逃げることを、選ばなかった。


――


また、日が昇った。


医務室の窓から差し込む光は、

昨日と同じ角度で、同じ床を照らしている。


それが――

何より、残酷だった。


変わらないという事実が、

希望ではなく、不安を連れてくる。


⸻


テュエルは、ゆっくりと上体を起こしていた。


肋の奥が、ぎしりと軋む。

呼吸のたびに、鈍い痛みが走る。


だが――

もう、起き上がれる。


それだけの回復力は、

確かに、身体に戻ってきていた。


(……それなのに)


視線は、自然と隣へ向く。


眠ったままの、レイラ。


顔色は、まだ白い。

胸の上下はあるが、

あまりにも、弱々しい。


(……俺は)


喉の奥が、ひりついた。


(俺は、もう起きているのに)


拳を握ろうとして、

力が入らず、指先が震える。


(俺が、もっと……)


(もっと、強ければ)


レイラ様が、

こんなふうに横たわることはなかった。


八岐に触れさせなかった。

雷撃を、もっと前で受けられた。

――守れたはずだった。


何を一人で、

悠長に気絶していた……。


「っ……!!」


苛立ちに任せて拳を握る。

同時に、鋭い痛みが走った。


全部、“できたはず”のことだ。


「……っ」


歯を噛みしめる。


声を出したい。

名を呼びたい。

指先で、確かめたい。


生きていると。

ここにいると。


だが――

今は、それすら許されていない。


動かせない身体よりも、

触れられない距離の方が、

よほど、きつかった。


⸻


そのとき。


気配が、一つ増えた。


振り向かずとも、

誰かわかる。


シャガルだった。


いつの間にか、

医務室の入り口に立っている。


相変わらず、

足音ひとつ、立てずに。


「……起きていたか」


低い声。


テュエルは、

ゆっくりと息を整えてから、答えた。


「……はい」


それ以上、

言葉はすぐに続かなかった。


沈黙が落ちる。


だが、

気まずさはない。


二人の視線は、

同じ場所にあった。


眠る、レイラ。


しばらくして、

テュエルが、ぽつりと零す。


「……俺が」


声が、わずかに震えた。


「俺が、もっと強ければ……」


そこで、

言葉が詰まる。


続きを言えば、

取り返しがつかなくなる気がした。


だが――

シャガルは、止めなかった。


「……そうだな」


短く、否定のない声。


テュエルは、

はっとして、顔を上げる。


「…………」


シャガルは、

ゆっくりと首を振る。


「強さが、足りなかった」


「それは、事実だ」


胸に、

重いものが落ちる。


「……それでもだ」

「人の身で、あの場を生きて戻った」


「それだけで――異常だ」


だが、すぐに続く。


「だがな」


シャガルの視線は、

なおも、レイラに向いたまま。


「今ここで悔やみ続けても」


「この女は、目を覚まさん」


逃げ場のない言葉だった。


慰めでも、

叱責でもない。


ただ、

現実だけを置いていく声。


「……」


テュエルは、

唇を噛みしめる。


「……はい」


絞り出すように、答えた。


シャガルは、

ほんのわずか、目を細める。


「次だ」


それだけ言った。


「次に、間に合うために」


「強くなれ」


命令ではない。

だが、選択肢でもない。


テュエルの胸の奥で、

何かが、静かに燃え始めた。


「……必ず」


掠れた声でも、

言い切る。


「必ず、間に合わせます」


シャガルは、

それ以上、何も言わない。


ただ一度、

小さく、頷いた。


⸻


シャガルは、

一瞬だけテュエルを見た。


(……だが)


胸の奥で、

別の思考が、静かに浮かぶ。


(あの力は……)


朱蓮丸の爆炎が、

“拒まれた”瞬間。


白群色の、あの残光。


(こやつは……)

(アインの心臓を、喰ったと言っていたな)


思考が、

わずかに、深く沈む。


(…………)


記憶の奥にある、

もう二度と触れぬはずの名。


(……まさか、な)


それ以上は、

考えなかった。


否定も、肯定もせず。


今はまだ――

確かめるには、早すぎる。


シャガルは、

その思考ごと切り捨て、

再び、眠るレイラへと視線を戻す。


そして――

静かに、医務室を出ていった。


⸻


残された静寂の中。


テュエルは、

もう一度、レイラを見た。


「……レイラ様」


今度は、

はっきりと名を呼ぶ。


返事は、ない。


それでも。


「……待っていてください」


痛む身体を、

無理やり支えながら。


「次は……」

「俺が、守りますから」


その言葉だけは、

どれほど時間が過ぎても――

胸の奥で、消えなかった。


――

数日が過ぎていた。


テュエルは、まだ完全には歩けない。

それでも、立ち上がることはできた。


肋の奥に走る鈍い痛みを押し込め、呼吸を整え、

かろうじて身体を支える。


「……まだ、寝ていて下さい。」


医官の声は厳しい。

それでも、テュエルは言葉を無視する。

自分の意思よりも、胸の奥の衝動に従った。


静かに、ゆっくりと、レイラの寝台の横へ。

まだ顔色は悪く、呼吸も弱い彼女のそばに


ただ、立つ。


まるで、自分を罰するかのように――。


その姿を、シャガルは黙って見ていた。

動かず、表情も変えず、ただ視線だけがレイラに注がれる。


「……まだ重症ではありますが」


医官の声が割り込む。

「意識を取り戻すのを待つだけですので、もう触れても大丈夫です」


その言葉が、静寂の空間に落ちた。


触れることが許された。

なのに、二人は動かない。


あれほど触れたくて、確かめたくて、

手を伸ばそうとしていたのに――。


動かない。触れられない。

互いの思いは、言葉よりもずっと深く、胸に沈む。


しばらくして、テュエルが席を外す。

その瞬間、空間に残った気配は、声にならない声を呼ぶ。


「レイラ……」


そしてシャガルが扉の向こうへと歩き去る時、

残されたテュエルの口元からも、同じ名が零れた。


「レイラ様……」


返事はまだ、ない。


互いに、触れられずとも、

その名だけで、想いを届ける。


静かな時間は、まだ続く。


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