ようやく、同じ部屋へ。
――――
夜は、なお深かった。
医務室に並ぶ寝台は、二つ。
一つには、瘴気の名残を残したまま眠るヤヒロ。
そしてもう一つ――
包帯に覆われ、呼吸のたびに胸をわずかに上下させるテュエル。
ここに、レイラはいない。
彼女は今も、別室で。
複数の医官に囲まれ、
一瞬も目を離せぬ状態のまま――
命を、繋ぎ止められている。
シャガルは、
医務室の奥、壁際に立ったまま、動かなかった。
扉の向こう。
さらにその先。
――まだ、会えない場所にいる彼女。
その事実だけが、
胸の奥に、静かに重く沈んでいる。
⸻
かすかな音が、空気を揺らした。
「……っ……」
寝台の一つ。
テュエルの喉から、微かな息が漏れる。
シャガルの視線が、ゆっくりとそちらへ向いた。
閉じていた瞼が、
ほんのわずかに、持ち上がる。
だが、焦点は合っていない。
瞳に宿る光は、まだ戻らない。
呼吸は浅く、
胸の奥で、何かが軋むような気配。
(……?)
思考が、繋がらない。
息を吸うだけで、
肋骨の奥が、鈍く悲鳴を上げる。
身体が重い。
感覚が、遅れて届く。
(……生き……てる……?)
自分が発したはずの問いは、
音にすらならなかった。
揺れる視界の中で――
一瞬。
白群色の、淡い残光が、脳裏をかすめる。
(……あれは……)
爆炎が、
“拒まれた”感触。
熱が、触れる前に消えた、あの瞬間。
(……なん、だった……)
答えは、出ない。
ただ、胸の奥に、
ぽっかりとした空白だけが残る。
視線が、ゆっくりと横へ逸れる。
そこに――
“いる”ことが、分かった。
気配だけで。
(……シャ……)
名前を呼ぼうとして、
喉が、わずかに動く。
だが、音は出ない。
代わりに、
指先が、ほんの少し、震えた。
シャガルは、それを見逃さなかった。
一歩、近づく。
その距離で、ようやく。
テュエルの視線が、彼を捉える。
焦点の合わない瞳。
それでも、確かに――
彼を、認識していた。
シャガルは、低く言った。
「……無理をするな」
そして、
ほんの一拍置いて。
「よく、耐えた」
それだけだった。
称賛でも、慰めでもない。
事実を、事実として告げる声。
テュエルの瞳が、
ほんのわずか、緩む。
唇が、かすかに動いた。
「……レ……イ……」
掠れた息。
音にならない問い。
シャガルは、答えない。
代わりに、
その視線を、扉の向こうへ向けた。
――まだ、ここにはいない。
テュエルは、
それを、なんとなく察したのか。
小さく、息を吐き。
(……守……れ……)
そのまま、
意識が、深い闇へと沈んでいった。
瞼が閉じ、
呼吸が、再び眠りのリズムへ戻る。
役目を終えたような、静けさ。
シャガルは、その寝台の傍を離れなかった。
ただ、立ったまま。
視線だけを、医務室のさらに奥――
薄く閉ざされた、もう一つの部屋へと向ける。
そこに、レイラがいる。
扉一枚。
されど、決して踏み越えられぬ境界。
医官の影が、行き交う。
低く抑えた声。
器具の擦れる音。
すべてが、
「まだ会えない」ことを、無言で告げていた。
シャガルは、動かない。
待つことしかできぬと知って、
それでも、その場を選んだ。
戦場では、決して立ち尽くさぬ王が。
今は――
扉の向こうの命に、全てを預けて。
テュエルの寝息と、
その先で続く、懸命な治療の気配。
その二つを、同じ空気の中に感じながら。
――
時間は、静かに流れていた。
医務室の奥。
厚く閉ざされた治療室の前で、
シャガルと爺は、言葉もなく立っていた。
どれほどの刻が過ぎたのか。
灯りが取り替えられ、医官が何度も出入りし――
やがて。
一人の医官が、扉から姿を現した。
その表情は、険しい。
だが、先ほどまでの張り詰めきった空気とは、わずかに違う。
爺が、息を詰めたまま問う。
「……姫さまは」
医官は、慎重に言葉を選びながら、頭を下げた。
「……峠は、越えました」
その一言に、
空気が、かすかに揺れる。
シャガルの視線が、鋭く向けられる。
「……ですが」
医官は、続けた。
「依然として、極めて危険な状態です」
「強い瘴気の残留、雷撃と火傷、全身の内出血……」
「今は、意識を戻さぬよう、深い眠りを保たせています」
希望と絶望の、狭間。
「命は、繋いでいます」
「……ですが、予断は許されません」
その言葉を残し、
医官は再び、治療室へと戻っていった。
扉が閉まる。
爺は、胸の前で手を組み、
小さく、祈るように目を伏せた。
シャガルは、何も言わない。
だが――
その背に、張り詰めていたものが、ほんのわずかに緩んだ。
――――
どれほどの時間が経ったのか、
ヤヒロにはわからなかった。
ただ――
重く、鈍い痛みだけが、身体の奥に残っている。
「……っ」
喉から、掠れた音が漏れる。
ゆっくりと、瞼を持ち上げると、
視界いっぱいに広がったのは、見慣れぬ天井だった。
「……ここは……?」
声は、思った以上に弱かった。
その問いに、
すぐ近くで、穏やかな声が応える。
「ここは、リュウコです」
顔を向けると、
爺が、静かに頭を下げていた。
「危険を冒してまで、
姫さまのために知らせに行ってくれたそうで………」
「心から、感謝します」
その言葉を聞いた瞬間、
ヤヒロの意識が、一気に現実へ引き戻される。
「爺殿、……っ!」
身体を起こそうとして、
鋭い痛みに顔を歪める。
「そ、そうだ……!!」
「レイラ様は……!?」
「ご無事なんですか!?」
空気が、止まった。
爺は、答えない。
ただ、
一瞬だけ視線を伏せ――
「…………」
その沈黙が、
何よりも雄弁だった。
ヤヒロの顔から、血の気が引く。
「……あ……」
「……そんな……」
そこへ、
低く、落ち着いた声が割り込んだ。
「……重症だ」
振り向くと、
少し離れた場所に、シャガルが立っていた。
ヤヒロの胸が、強く締めつけられる。
「……じゃあ……」
「間に合わなかった……んですね……?」
震える声。
「……俺が……」
「俺が、もっと早く……!」
拳を握り締める。
「……俺のせいで……」
その言葉を、
シャガルは、はっきりと否定した。
「違う」
短く、しかし揺るぎない声。
「お前が、身を賭してくれたからだ」
シャガルは、真っ直ぐにヤヒロを見る。
「お前が来なければ……」
「余は、まだ妖界にいた」
「……命は、繋がっている」
一拍、置いて。
「かなり危険な状態ではあるがな」
その言葉に、
ヤヒロは唇を噛みしめた。
「……生きて……いる……」
絞り出すように、呟く。
「……俺……」
「……間に合って……」
安堵と恐怖が、同時に押し寄せ、
ヤヒロは俯いた。
その直後、医官が近づいてくる。
「目が覚めましたか」
「あなたは、瘴気の影響が抜ければ問題ありません」
「しばらくは安静ですが、もう治療は不要です」
爺が、柔らかく言う。
「しばらくは、休みなさい」
「姫さまのために……本当によくやってくれました」
ヤヒロは、照れたように、しかし真剣に頷いた。
「……俺じゃないです。」
「馬天様のお陰です…。」
「それに…」
「……俺は、兵ですから」
「当たり前のことをしただけです」
そう言って、
まだ少しふらつきながらも、医務室を後にする。
シャガルは、何も言わない。
ただ、
その小さな背を、静かに見ていた。
命は、まだ、そこにある。
だが――
それを繋ぎ止めている糸は、
あまりにも細く、脆い。
部屋の外では、
今もなお、医務室の扉が閉ざされたままだった。
レイラが目を覚ますかどうか。
答えを知っている者は、
まだ、誰もいない。
――
再び、静寂。
シャガルは、同じ場所に立ったまま、
再び――奥の治療室へと視線を向ける。
そして。
どれほど待っただろうか。
ついに、扉が開いた。
複数の医官に囲まれ、
眠ったままのレイラが、静かに運び出される。
医務室の中。
すでに置かれていた、二つの寝台。
そのうちの一つ――
血の気を失い、微かに胸を上下させるテュエルの横へと、
慎重に、慎重に、レイラは寝かされる。
顔色は悪く、
その呼吸は、かすかだ。
それでも――
確かに、そこにいる。
二つの寝台に並ぶ、
意識を失ったままの二人。
その光景に、
医官たちの手が、一瞬だけ止まった。
シャガルは、
初めて一歩だけ、前へ出る。
触れることは許されない。
声をかけることも、できない。
ただ、
同じ空間に戻ってきたことを、
この目で確かめるように――
静かに、その姿を見つめていた。
それだけで、
胸の奥に、ようやく――痛みと共に、確かな現実が落ちてきた。
レイラは、生きている。
まだ、戻ってはいない。
だが――
戻る可能性のある場所に、
確かに、帰ってきたのだ。




