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双国ノ巫女 〜愛されることを諦めた姫が愛を知る物語〜  作者: Su
奪われかけた巫女と、帰還する王
161/226

ようやく、同じ部屋へ。



――――


夜は、なお深かった。


医務室に並ぶ寝台は、二つ。


一つには、瘴気の名残を残したまま眠るヤヒロ。

そしてもう一つ――

包帯に覆われ、呼吸のたびに胸をわずかに上下させるテュエル。


ここに、レイラはいない。


彼女は今も、別室で。

複数の医官に囲まれ、

一瞬も目を離せぬ状態のまま――

命を、繋ぎ止められている。


シャガルは、

医務室の奥、壁際に立ったまま、動かなかった。


扉の向こう。

さらにその先。


――まだ、会えない場所にいる彼女。


その事実だけが、

胸の奥に、静かに重く沈んでいる。


⸻


かすかな音が、空気を揺らした。


「……っ……」


寝台の一つ。

テュエルの喉から、微かな息が漏れる。


シャガルの視線が、ゆっくりとそちらへ向いた。


閉じていた瞼が、

ほんのわずかに、持ち上がる。


だが、焦点は合っていない。

瞳に宿る光は、まだ戻らない。


呼吸は浅く、

胸の奥で、何かが軋むような気配。


(……?)


思考が、繋がらない。


息を吸うだけで、

肋骨の奥が、鈍く悲鳴を上げる。


身体が重い。

感覚が、遅れて届く。


(……生き……てる……?)


自分が発したはずの問いは、

音にすらならなかった。


揺れる視界の中で――

一瞬。


白群色の、淡い残光が、脳裏をかすめる。


(……あれは……)


爆炎が、

“拒まれた”感触。


熱が、触れる前に消えた、あの瞬間。


(……なん、だった……)


答えは、出ない。


ただ、胸の奥に、

ぽっかりとした空白だけが残る。


視線が、ゆっくりと横へ逸れる。


そこに――

“いる”ことが、分かった。


気配だけで。


(……シャ……)


名前を呼ぼうとして、

喉が、わずかに動く。


だが、音は出ない。


代わりに、

指先が、ほんの少し、震えた。


シャガルは、それを見逃さなかった。


一歩、近づく。


その距離で、ようやく。

テュエルの視線が、彼を捉える。


焦点の合わない瞳。

それでも、確かに――

彼を、認識していた。


シャガルは、低く言った。


「……無理をするな」


そして、

ほんの一拍置いて。


「よく、耐えた」


それだけだった。


称賛でも、慰めでもない。

事実を、事実として告げる声。


テュエルの瞳が、

ほんのわずか、緩む。


唇が、かすかに動いた。


「……レ……イ……」


掠れた息。

音にならない問い。


シャガルは、答えない。


代わりに、

その視線を、扉の向こうへ向けた。


――まだ、ここにはいない。


テュエルは、

それを、なんとなく察したのか。


小さく、息を吐き。


(……守……れ……)


そのまま、

意識が、深い闇へと沈んでいった。


瞼が閉じ、

呼吸が、再び眠りのリズムへ戻る。


役目を終えたような、静けさ。


シャガルは、その寝台の傍を離れなかった。


ただ、立ったまま。


視線だけを、医務室のさらに奥――

薄く閉ざされた、もう一つの部屋へと向ける。


そこに、レイラがいる。


扉一枚。

されど、決して踏み越えられぬ境界。


医官の影が、行き交う。

低く抑えた声。

器具の擦れる音。


すべてが、

「まだ会えない」ことを、無言で告げていた。


シャガルは、動かない。


待つことしかできぬと知って、

それでも、その場を選んだ。


戦場では、決して立ち尽くさぬ王が。

今は――

扉の向こうの命に、全てを預けて。


テュエルの寝息と、

その先で続く、懸命な治療の気配。


その二つを、同じ空気の中に感じながら。


――


時間は、静かに流れていた。


医務室の奥。

厚く閉ざされた治療室の前で、

シャガルと爺は、言葉もなく立っていた。


どれほどの刻が過ぎたのか。

灯りが取り替えられ、医官が何度も出入りし――


やがて。


一人の医官が、扉から姿を現した。


その表情は、険しい。

だが、先ほどまでの張り詰めきった空気とは、わずかに違う。


爺が、息を詰めたまま問う。


「……姫さまは」


医官は、慎重に言葉を選びながら、頭を下げた。


「……峠は、越えました」


その一言に、

空気が、かすかに揺れる。


シャガルの視線が、鋭く向けられる。


「……ですが」


医官は、続けた。


「依然として、極めて危険な状態です」

「強い瘴気の残留、雷撃と火傷、全身の内出血……」

「今は、意識を戻さぬよう、深い眠りを保たせています」


希望と絶望の、狭間。


「命は、繋いでいます」

「……ですが、予断は許されません」


その言葉を残し、

医官は再び、治療室へと戻っていった。


扉が閉まる。


爺は、胸の前で手を組み、

小さく、祈るように目を伏せた。


シャガルは、何も言わない。


だが――

その背に、張り詰めていたものが、ほんのわずかに緩んだ。



――――


どれほどの時間が経ったのか、

ヤヒロにはわからなかった。


ただ――

重く、鈍い痛みだけが、身体の奥に残っている。


「……っ」


喉から、掠れた音が漏れる。


ゆっくりと、瞼を持ち上げると、

視界いっぱいに広がったのは、見慣れぬ天井だった。


「……ここは……?」


声は、思った以上に弱かった。


その問いに、

すぐ近くで、穏やかな声が応える。


「ここは、リュウコです」


顔を向けると、

爺が、静かに頭を下げていた。


「危険を冒してまで、

姫さまのために知らせに行ってくれたそうで………」

「心から、感謝します」


その言葉を聞いた瞬間、

ヤヒロの意識が、一気に現実へ引き戻される。


「爺殿、……っ!」


身体を起こそうとして、

鋭い痛みに顔を歪める。


「そ、そうだ……!!」

「レイラ様は……!?」

「ご無事なんですか!?」


空気が、止まった。


爺は、答えない。


ただ、

一瞬だけ視線を伏せ――


「…………」


その沈黙が、

何よりも雄弁だった。


ヤヒロの顔から、血の気が引く。


「……あ……」


「……そんな……」


そこへ、

低く、落ち着いた声が割り込んだ。


「……重症だ」


振り向くと、

少し離れた場所に、シャガルが立っていた。


ヤヒロの胸が、強く締めつけられる。


「……じゃあ……」

「間に合わなかった……んですね……?」


震える声。


「……俺が……」

「俺が、もっと早く……!」


拳を握り締める。


「……俺のせいで……」


その言葉を、

シャガルは、はっきりと否定した。


「違う」


短く、しかし揺るぎない声。


「お前が、身を賭してくれたからだ」


シャガルは、真っ直ぐにヤヒロを見る。


「お前が来なければ……」

「余は、まだ妖界にいた」


「……命は、繋がっている」


一拍、置いて。


「かなり危険な状態ではあるがな」


その言葉に、

ヤヒロは唇を噛みしめた。


「……生きて……いる……」


絞り出すように、呟く。


「……俺……」

「……間に合って……」


安堵と恐怖が、同時に押し寄せ、

ヤヒロは俯いた。


その直後、医官が近づいてくる。


「目が覚めましたか」

「あなたは、瘴気の影響が抜ければ問題ありません」

「しばらくは安静ですが、もう治療は不要です」


爺が、柔らかく言う。


「しばらくは、休みなさい」

「姫さまのために……本当によくやってくれました」


ヤヒロは、照れたように、しかし真剣に頷いた。


「……俺じゃないです。」

「馬天様のお陰です…。」

「それに…」

「……俺は、兵ですから」

「当たり前のことをしただけです」


そう言って、

まだ少しふらつきながらも、医務室を後にする。



シャガルは、何も言わない。


ただ、

その小さな背を、静かに見ていた。


命は、まだ、そこにある。


だが――

それを繋ぎ止めている糸は、

あまりにも細く、脆い。


部屋の外では、

今もなお、医務室の扉が閉ざされたままだった。


レイラが目を覚ますかどうか。


答えを知っている者は、

まだ、誰もいない。


――


再び、静寂。


シャガルは、同じ場所に立ったまま、

再び――奥の治療室へと視線を向ける。


そして。


どれほど待っただろうか。


ついに、扉が開いた。


複数の医官に囲まれ、

眠ったままのレイラが、静かに運び出される。


医務室の中。

すでに置かれていた、二つの寝台。


そのうちの一つ――

血の気を失い、微かに胸を上下させるテュエルの横へと、

慎重に、慎重に、レイラは寝かされる。


顔色は悪く、

その呼吸は、かすかだ。


それでも――

確かに、そこにいる。


二つの寝台に並ぶ、

意識を失ったままの二人。


その光景に、

医官たちの手が、一瞬だけ止まった。


シャガルは、

初めて一歩だけ、前へ出る。


触れることは許されない。

声をかけることも、できない。


ただ、

同じ空間に戻ってきたことを、

この目で確かめるように――

静かに、その姿を見つめていた。


それだけで、

胸の奥に、ようやく――痛みと共に、確かな現実が落ちてきた。


レイラは、生きている。


まだ、戻ってはいない。

だが――


戻る可能性のある場所に、

確かに、帰ってきたのだ。


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