戦いの果て、待っていたのは祈るしかない時間だった。
唇が、触れた。
確かに――
確かに、触れたはずだった。
だが。
その温度を、確かめきる前に。
レイラの身体から、力が抜け落ちる。
「……レイラ?」
呼びかけても、返事はない。
まぶたは閉じられ、指先は、微かに震えただけで――それきりだった。
口付けは、終わっていない。
だが、続くこともなかった。
意識は、再び、深い闇へと沈んでいく。
シャガルは、歯を食いしばる。
雷撃による大火傷、二重覚醒、そして力の過剰行使。
生きていること自体が奇跡に近い。
それでも――
抱き上げた身体は、まだ、仄かに温かかった。
「……戻るぞ」
誰に向けた言葉でもない。
命令でも、祈りでもなく。
ただの、決意だった。
⸻
その背後。
地に伏したテュエルは、もはや剣を握る力すら残っていない。
血を失い、肋骨は折れ、
呼吸は限界まで削られていた。
瞳は濁り、光を失いかけている。
もう、まともに世界を見てはいない。
それでも、
意地だけで視線を留め、
レイラからだけは、目を離さなかった。
さらにその奥。
瘴気に呑まれ、意識を失ったヤヒロの身体が横たわっている。
三つの命。
重なり合うように、瀬戸際にある命。
シャガルは、そのすべてを引き受けるように、静かに身を屈めた。
片腕には、意識を失ったレイラを抱き。
もう一方で、限界まで消耗したテュエルの身体を支える。
背後では、力を失ったヤヒロの襟を掴み、引きずるようにして従えた。
無様に見えようと、構わない。
今はただ――
全員を、生きて連れ帰ることだけが、王の仕事だった。
踵を返す。
向かう先は、龍狐。
生きて、帰るための場所だった。
――――――
龍狐城内
――――――
空気が、裂けた。
重い風圧とともに、
影が一つ――
龍狐宮内の広場へと、降り立つ。
「……っ!?」
最初に気づいた門兵が、凍りつく。
「シャ、シャガル様……!?」
次の瞬間、
その腕の中を見て――
言葉を失った。
「……姫…様……?」
意識のない主君。
白い肌に残る焦げ跡と血。
だらりと垂れた指先。
「テュエル様が……!!」
「血だ……!」
肩に預けられた護衛の身体は、
もはや自立すらしていない。
さらにもう一人。
引きずるように連れられた若い兵――ヤヒロ。
一瞬の静寂。
そして――
「医官を呼べ!!」
「最奥だ!!」
「姫様を最優先に!!」
叫びが連なり、
宮内は一瞬で非常事態へと変わる。
シャガルは何も言わない。
腕の中のレイラを抱いたまま、
最短の動線で医務区画へ向かう。
誰にも渡さない。
ただ――運ぶ。
医官たちが駆け寄り、
深く頭を下げた。
「シャガル様、こちらへ!」
レイラが、最初に奥へ運ばれる。
次に、テュエル。
医官の手が触れた瞬間、
緊張が走る。
「出血が多い……」
「呼吸が浅い」
最後に、ヤヒロ。
装備を外され、
医官が即座に指示を飛ばす。
三人は、それぞれ分けられ、
医務室の奥へと消えていった。
扉が、閉じられる。
――その向こうで、
必死の処置が始まっていることを、
誰もが理解していた。
⸻
どれほどの時間が経ったのか、
誰にも分からなかった。
宮内の廊下。
張り詰めた空気の中で――
シャガルは、
壁に背を預けたまま動かない。
その傍らには、
爺が控えていた。
言葉はない。
ただ、待つ。
やがて――
医務室の扉が、静かに開いた。
血の匂いを纏った医官が一人、
外へと出てくる。
深く、深く頭を下げた。
「……ご報告いたします」
シャガルと、爺の視線が向く。
「まず――ヤヒロ殿」
医官の声は、落ち着いていた。
「瘴気による中毒です」
「若く、体力もあります」
「毒気が抜け次第、目を覚ますでしょう」
爺が、ほっと息を吐く。
だが、医官の表情は緩まない。
「次に……テュエル様」
声が、わずかに重くなる。
「大量出血」
「肋骨の骨折」
「重度の肉体疲労」
一拍、置いてから続ける。
「恐らく爆風による全身打撲と内出血」
「斬撃による裂傷も複数確認されています」
「……一歩、間違えば肺まで損傷していたでしょう」
「…ここまで動けていたこと自体が、異常です」
一拍置いて、はっきりと告げる。
「……正直に申し上げます」
「この状態で生きて運び込まれたこと自体が、奇跡です」
沈黙。
「ですが、応急処置は間に合いました」
「峠は越えています」
「今は眠らせていますが……命の心配はありません」
わずかな安堵が、
空気に混じる。
――だが。
医官の視線が、
最後の名へ向かう。
「……姫様は」
空気が、張り詰めた。
「強力な雷撃による損傷」
「それに伴う、広範囲の重度火傷」
「さらに、全身に及ぶ内出血」
淡々と、しかし逃げ場なく告げられる。
「力を酷使されたことで」
「身体そのものが、限界を超えています」
一拍、置いて。
「……体内に、強い瘴気反応も残留しています」
声が、わずかに低くなる。
「呼吸と脈は……非常に弱い」
爺が、思わず口を押さえた。
「現在は、深い眠りにあります」
「刺激は一切、禁忌です」
そして、最後に。
「……予断は、許されません」
その言葉だけが、
廊下に落ちた。
シャガルは、
しばらく黙したまま。
やがて、低く言った。
「……生きてはいるな」
医官は、まっすぐに答える。
「はい」
「確かに……生きておられます」
それだけで、
十分だった。
シャガルは視線を落とし、
ゆっくりと息を吐く。
――生きている。
それだけが、
今、唯一の救いだった。
爺は、しばらく言葉を失っていた。
口を押さえたまま、
何度か息を吸おうとして――
うまくいかない。
「……姫、さま……」
声が、掠れる。
あれほど強く、
あれほど気丈で、
誰よりも前に立っていた姫が。
今は、
生きているかどうかすら、
天に委ねるしかない。
医官は、深く頭を下げた。
「……我々にできる処置は、すべて施しました」
「これ以上は……」
「お身体が、持つかどうかです」
それは、
医官としての誠実な言葉であり、
同時に――残酷な宣告だった。
「刺激は、厳禁」
「声をかけることも、触れることも」
「今は……ただ、眠らせてあげるしかありません」
そう言って、
医官たちは静かに下がっていく。
足音が、
一つ、また一つ、
廊下の奥へ消えていく。
残されたのは――
沈黙だけだった。
爺は、壁に手をつき、
そのまま、ゆっくりと膝を折る。
「……あの子が……」
「姫さまが……」
それ以上、言葉にならなかった。
泣き声すら、
喉で潰れていく。
――待つしかない。
何もできない。
何も、許されない。
ただ、
生きて目を覚ましてくれることを、
祈り続けるしかない。
その地獄。
シャガルは、
少し離れた場所に立ったまま、
一言も発していなかった。
腕を組むこともなく、
拳を握ることもない。
ただ――
微動だにせず、そこに立っている。
その瞳は、
閉ざされた医務室の扉だけを、
静かに見つめていた。
(……また、か)
胸の奥で、
低い声が響く。
(余は……)
(また、守れなかったのか)
戦には勝った。
敵は、すべて滅ぼした。
それでも――
最も守るべき存在を、
死の淵へ追いやったという事実だけが残る。
胸に沈むのは、
後悔ではない。
判断ミスでもない。
もっと、根の深い――不覚。
(……見抜けなかった)
妖界の城、醉鬼殿。
張り巡らされていたのは、
王を縛るためだけの、周到な策。
(八岐……)
歯を噛みしめる。
力が足りなかったわけではない。
遅れたわけでもない。
――嵌められた。
そして、その事実に。
(……気づいたのは)
(ヤヒロが、命を捨てる覚悟で来たからだ)
あの若い兵が、
瘴気に焼かれながらも駆け抜け、
それでも言葉を絞り出さなければ。
余は――
まだ、あの城にいた。
(……愚かだ)
王である以前に、
守ると誓った者の異変に、
自ら気づけなかった。
それが、何よりも許せない。
(余が、もっと早く……)
(罠だと、見抜いていれば)
(レイラを――)
胸の奥で、
その名を呼ぶことすら、痛かった。
助けには行った。
最短で。
全力で。
それでも。
(……それでも、間に合わなかった)
扉の向こうにいるのは、
自分が守ると決めた存在。
その命が、
今も、危うい場所にあるという現実。
シャガルは、
静かに、拳を握り締めた。
「……二度と」
声は低く、掠れていた。
「……余の不覚で」
「余の世界から……奪わせはせぬ」
それは誓いでも、宣言でもない。
王としてではなく、
罠に嵌った男としての、怒りと戒め。
シャガルは、
扉から目を逸らさなかった。
待つことしかできない時間を、
自らに課された罰として、
ただ、受け入れていた。
――
思考が、
ゆっくりと冷えていく。
あの時。
レイラの血が、
確かに、唇に触れた。
その温もりが、
今も、残っている。
(……あれが)
(別れになるなど……)
その先へ進む思考を、
本能が拒んだ。
シャガルは、
ゆっくりと目を閉じる。
そして――
誰にも聞こえぬほど低く、
言葉を落とした。
「……余は」
「……お前を…………」
それ以上は、
声にならなかった。
王でもなく。
護衛でもなく。
ただ一人の男として。
――愛する者の生死を、
扉一枚の向こうに預けられたまま。
時間だけが、
無慈悲に、流れていく。
夜が更けても。
朝が来ても。
扉は、開かない。
誰も、
答えを持ってこない。
それでも。
シャガルは、
その場を動かなかった。
崩れ落ちることも、
怒りを露わにすることもなく。
ただ――
彼女が戻る、その瞬間まで。
王は、
祈ることしかできない場所に、
立ち尽くしていた。




