テュエル敗北――レイラ覚醒。
まだ――
自分が“雪女”であることは、悟られていない。
だが、
隠し通せる相手ではないことも、
レイラ自身が、誰より理解していた。
この男――八岐大蛇は、
一段、いや数段上の存在だ。
雪女だと知れれば、
向けられる視線は変わる。
敵意だけではない。
欲望と、支配の色が混じる。
それでも。
レイラは、刀を抜いた。
自分が蒔いた種を、刈るために。
そして――
シャガルと再び巡り会う、その瞬間まで。
生き延びるために。
空気が、変わった。
戦闘が始まる直前。
張り詰め、凍りつくような沈黙。
レイラは冷静に、
巫女としての眼で、八岐大蛇を見据える。
(……毒)
(瘴気のオーラ……か?)
巨体にまとわりつく、
肌を刺すような不快な気配。
だが、それだけではない。
――“まだ何かある”。
体内に渦巻く瘴気が濃すぎて、
その正体を正確に掴めない。
(……注意しなければ)
戦う前から、分かっている。
八岐大蛇には――
敵わない。
九尾として研ぎ澄まされた五感が、
心の奥で、警鐘を鳴らし続けている。
――危険だ。
――近づくな。
――逃げろ。
それでも。
なりふり構っている余裕はない。
最初から、全力。
それしか、選択肢はなかった。
八岐大蛇の八つの蛇頭が、
一斉に、レイラを迎え撃つ。
だが、レイラは一瞬も怯まない。
九尾の疾風オーラを解放し、
五感を、限界以上に引き上げる。
身体能力が、異常なまでに研ぎ澄まされる。
刃に、風が宿った。
八岐大蛇が、愉快そうに目を細める。
「ほぉ……疾風、とな」
「貴様、九尾か……」
舌が、ねっとりと動く。
「亜韻に、娘がおったとはな」
「だが、不憫よ」
「狐火は遺伝しなかったか」
「ならば……脅威にもならぬ」
レイラは、短く息を吐いた。
「――お前を斬ることくらい、できる」
言い切り、踏み込む。
風を纏った刃が閃き、
最初の蛇頭を、叩き斬った。
「ぐっ!」
一本。
また一本。
あまりにも、あっさりと。
気づけば、残りは四つ。
だが、本体――
人の形をした八岐の胴体は、
残る蛇頭に守られ、微動だにしない。
レイラは速い。
誰も追いつけぬほどに。
――だからこそ。
この“軽さ”に、苛立ちが湧いた。
「……ふざけるな」
「小芝居は、よせ」
刃を構え、睨みつける。
「……何か、隠しているな」
八岐大蛇が、ふっと笑った。
次の瞬間。
ドゥル……ッ
不気味な音を立てて、
斬り落としたはずの蛇頭が、再生する。
「……な……」
喉が、ひくりと鳴る。
(再生……する……?)
八岐大蛇は、愉悦を滲ませて告げた。
「ふふ……斬っても無駄だ」
「……次は、私の番だ」
八つの口が、同時に開く。
ぺっ――
瘴気混じりの唾が、
一斉に、レイラへと吐き出された。
レイラは避ける。
だが、着弾した瘴気が、
周囲に蔓延する。
「……っ!」
鼻と口を押さえ、咳き込む。
視界が歪む。
嗅覚が狂う。
平衡感覚が、揺らぐ。
――五感が、侵されている。
八岐大蛇との相性。
それは――
最悪、だった。
斬っても届かず、
避けても削られ、
呼吸をするたび、瘴気が肺を焼く。
闘いは、まだ始まったばかりだというのに。
朱蓮丸と八岐大蛇に対し、
レイラとテュエルの姿は――
まるで、すでに後半戦へ突入したかのようだった。
二人とも、肩で息をする。
「はぁ……はぁ……」
「……はっ、はっ……」
火花が散り、
爆発と炎が、何度も衝突する。
「ほら、もっと遊ぶぞ、テュエル!!」
朱蓮丸の声が、楽しげに弾む。
「……っ!」
テュエルは歯を食いしばり、
「名を呼ぶな……!!」
再び、爆ぜる衝撃。
炎と爆風が、戦場を蹂躙する。
その合間――
八岐大蛇の巨大な蛇頭が、
容赦なくレイラへと牙を剥く。
噛み砕く。
薙ぎ払う。
瘴気を吐く。
レイラは、それらを紙一重でかわし続けながら、
歯を噛み締めた。
(……遊ばれている)
(完全に……)
視界の端。
爆煙の向こうで戦うテュエルが映る。
(テュエル……)
(あいつも……もう、限界だ……)
胸が、冷たくなる。
(まさか……)
(テュエルが……歯が立たないなんて……)
一瞬、呼吸が詰まる。
(……シャガルが)
(居てくれたら……)
喉の奥で、言葉が震える。
(シャガル……)
(助けて……)
その、微かな焦燥。
八岐大蛇は、逃さなかった。
蛇の瞳が、細く歪む。
「……ふっ」
低く、嗤う。
「王は――来ないぞ」
レイラは、はっと顔を上げる。
「……っ!」
八岐大蛇は、ゆったりと蛇身をうねらせながら続ける。
「来ない」
「私が――」
「そう“仕込んでおいた”からな」
レイラは、刀を握り締めたまま、睨み返す。
「シャガ……」
「……酒呑に、何をした」
八岐大蛇は、肩をすくめるように首を揺らす。
「貴様が知る必要はない」
その時――
「ははっ」
朱蓮丸が、愉快そうに割って入った。
「冷たいなぁ、八岐の旦那」
視線を、レイラへ向ける。
「レイラ、妖王は今さ」
「足止めされてんだよ」
けたけたと、下卑た笑い。
「こっちに来れねぇようにな」
「こっちに、意識を向けねぇように」
「じわじわ、じわじわ……」
「時間をかけて、な」
――その余裕。
その言葉。
レイラの中で、何かが引っかかった。
視線が、反射的に動く。
――テュエル。
「……っ!!」
土と木に埋もれるように、
彼は倒れていた。
動かない。
意識が――ない。
命は、辛うじて繋がっている。
だが、それだけだ。
喉が、鳴る。
「……テュ……エル……」
震える声。
――――――
――テュエルの視界。
(来る……)
朱蓮丸のオーラが、膨れ上がる。
爆ぜる――そう、判断した。
(爆発……)
瞬間、足場を蹴り、
回避と防御を選択する。
――だが。
(……っ!?)
地面が、歪んだ。
爆ぜる前。
爆ぜるより、先に。
土が、うねり。
木が、絡みつき。
逃げ場そのものが、奪われる。
(爆破じゃ……ない……!?)
次の瞬間。
至近距離で――
爆ぜた。
「――っ!!」
肺の奥が、押し潰される。
音もなく、身体の芯が砕けた。
意識が、白く弾ける。
(…そうか……土…!!)
(……読めなかった……)
それが、最後の思考だった。
――――
(私が……)
(あの場に、立ち会わせてしまった……)
(私のせいだ……)
(私が、招いた種で……)
(テュエルを……!!)
(こんな目に……遭わせてしまった……!!)
「あーあ」
朱蓮丸が、つまらなそうに肩をすくめる。
「テュエルな、気絶しちまったよ」
「つまんねぇ」
――その瞬間。
レイラの中で、
一つの答えが、静かに形を持った。
(……土……)
喉の奥が、ひくりと鳴る。
(あいつ……)
(今まで、使っていなかった……)
その事実だけで、
すべてが、繋がってしまった。
――絶望。
……いや。
違う。
それは――
怒りだ。
その瞬間。
レイラの内側で、
何かが――弾けた。
妖力が、爆ぜる。
オーラだけじゃない。
九本の、光を帯びた尾が顕現し、
唸りを上げて宙を裂く。
瞳は、獣のような縦の紋へと変わり、
青白い光が、全身から噴き上がった。
――レイラの姿が、
九尾の異形へと、変貌する。
それは――
かつて、双国で。
投石から身を守った、あの時と同じ。
二重覚醒。
いわゆる――
暴走。




