八岐大蛇の罠は、すでに完成していた。
八岐大蛇の“仕込み”は、すでに完成していた。
妖界、醉鬼殿。
城内は、異様な熱を帯びている。
瘴気と悪意が渦巻く中、
シャガルは、ただ沈黙していた。
玉座の前。
そこはもはや、王の居場所ではない。
八岐大蛇が張り巡らせた“仕込み”の中で、
シャガルは、罵声を一身に浴びていた。
そして今。
シャガルは、城内で
その“仕込み”の真っ只中に立たされていた。
「巫女の使いめ!」
「人間に尻尾を振る王など要らぬ!」
「裏切り者の王め!」
罵声が、四方八方から叩きつけられる。
まるで、逃げ場のない檻の中だ。
シャガルは、一言も返さない。
だが、握りしめた拳は、確かに震えていた。
怒りだけではない。
焦りと、苛立ちと、
そして――
(レイラ……)
名を呼ぶことすら、胸を裂く。
(会いたい……)
目を伏せれば、
今にも涙が零れ落ちそうだった。
だが、王は泣けない。
泣くことすら、許されない。
(……嫌な予感が、消えぬ)
シャガルは無意識に胸元を押さえた。
傷もない。
痛みもない。
それなのに、
胸の奥だけが落ち着かない。
まるで――
遠く離れた誰かが、
泣いているような。
(……何だ……この感覚は)
理屈では説明できない。
だが。
(レイラ……)
胸騒ぎだけが、
消えなかった。
そして。
何も知らぬまま、
胸の奥で警鐘だけが鳴り続ける。
(何も……起きておらぬとよいが……)
馬天は、黙ってその光景を見ていた。
(……おかしいぞ)
罵声の内容ではない。
量でもない。
“間が、一定すぎる”。
毎日。
ほぼ同じ時刻。
ほぼ同じ顔ぶれ。
(自然発生の怒りなら、もっと乱れる)
(感情には、波があるはずだ)
だが――これは違う。
(まるで……)
(決められた役目を果たしに来ているようだ)
視線を、王へ向ける。
玉座の前に立つシャガルは、
もう反応すらしない。
怒らず、叱らず、
ただ――耐えている。
(……まずいぞ)
(これは、心を削るやり方だ)
(しかも……王自身は、気づけぬ)
連日、連日、連日。
麻痺している。
(このままでは……)
(酒呑様は――)
“壊れる”。
(誰かが……意図的に煽っている…?)
(酒呑様を、ここに縫い止めるために……)
(……偶然ではない)
(完全に……足止めだ…!)
嫌な予感が、
冷たい蛇のように、背筋を這い上がった。
だが、王は動けない。
ここを離れれば、
混乱は――決定的になる。
その背を、馬天は一度だけ見た。
(……この場を離れられぬのは、王だけだ)
馬天は、音を立てぬよう一歩、退いた。
視線を伏せ、礼を保ったまま――
静かに、席を外したーー
(……外が、騒がしい)
(嫌な流れだな……)
その胸騒ぎが、
人間界へと繋がっていることを、
まだ誰も知らなかった。
――双国、人間界。
夜警を任されていたヤヒロは、
宮内の一角で、足を止めた。
爺が、落ち着きなく廊下を行き来している。
いつもなら、夜更けには居室で休んでいるはずの時間だ。
「……爺殿?」
声をかけると、
爺ははっとしたように顔を上げた。
「おぉ……ヤヒロか……」
その声には、どこか疲労と不安が滲んでいる。
「いやな……」
「どうにも、体がヒリついてな……」
「嫌な予感が、どうしても取れんのですよ……」
爺は、胸元を押さえながら続けた。
「姫さまも……出かけたきり、戻って来られん」
「理由も分からんままでな……」
ヤヒロは、眉をひそめた。
(レイラ様が……?)
一瞬、考える間もなかった。
「……俺、見てくるよ!」
爺が慌てて手を伸ばす。
「待て、ヤヒロ!」
「危険かもしれん――」
だが、その声が届く前に、
ヤヒロはすでに駆け出していた。
床を蹴り、
闇の中へと身を投じるように。
胸の奥で、同じ警鐘が鳴っていた。
(……何かが起きてる)
(嫌な予感がする……)
その足は、
知らず知らずのうちに――
悪雲の立ち込める方角へと向かっていた。
その時。
誰にも気づかれぬ場所で、
誰にも止められぬ戦いが――
すでに、始まっていた。
テュエルが剣を振り上げた瞬間――
朱蓮丸の視界が、白く弾けた。
「――!!」
ドッッッッ!!!!
神気が爆ぜたかのような衝撃が走り、朱蓮丸の身体が数メートル吹き飛ばされる。
地を転がり、砂煙の中で膝をついた朱蓮丸は――それでも、笑っていた。
「は……っ、はは……ハハ……!」
喉を鳴らし、愉快そうに。
「面白ェ……!」
「面白ェな、人間……!」
「妖王が気に入るわけだ……!!」
だが、その笑みの奥で、朱蓮丸は理解していた。
――こいつは、普通じゃない。
八岐大蛇から渡された情報に、この男はいない。
想定外。
誤算。
(……なんだ、こいつ)
テュエルは、レイラを背に庇ったまま、一歩も引かない。
剥き出しの殺気を、隠す気すらなかった。
――もう、二度と。
奪わせるものか。
背後で、レイラの肩が小さく震えている。
だが、それを包むテュエルの腕は、揺るがない。
温かく、確かで、決して離さない。
朱蓮丸は唇を吊り上げた。
「……レイラ」
「震えてんじゃねぇか。かわいいなァ……?」
くつくつと、嗤う。
「俺が慰めてやるよ」
その瞬間――
レイラの表情が強張るより早く、テュエルの声が落ちた。
「その汚ねぇ口で――」
「レイラ様の名を呼ぶな」
低く、氷のように冷たい声音。
「……勘違いすんな」
一拍。
「レイラ様が震えてるのは――」
「怖いからでも、弱いからでもねぇ」
視線が、朱蓮丸を刺し抜く。
「てめぇが」
「気持ち悪りぃからだ」
断定だった。
言い逃げの余地すら与えない。
そこにあったのは罵倒ではない。
事実を告げただけの声だった。
次の瞬間、踏み込む。
一切の遊びも、試しもない。
“殺す”ためだけの斬撃。
(いたぶる価値もない)
(口を開かせるのも不快だ)
(存在そのものが――不快)
(久しぶりだ)
(ここまで――
殺したいと思えた相手は)
(ソンゴル以来、か)
(……いや)
(あいつ以上かもしれない)
――即刻、処刑。
剣閃が、空気を切り裂いた。
レイラは息を呑み、テュエルの背中を見つめる。
広く、揺るがない背。
(……私は、いつから)
(守られる側に、なった……?)
天墓使と闘った記憶が、脳裏をよぎる。
(テュエルが闘っているのに)
(私は……何を、背に隠れている……!)
(全員を……守りたい)
(そう、思っていたじゃないか……!!)
――その時。
【闘え――】
胸の奥で、声が響いた。
レイラの目つきが、変わる。
それはもう、守られているだけの者の顔ではなかった。
(……うん)
(闘える)
(絶対に……奪われるものか)
(死ぬものか)
(シャガルのために…)
「……テュエル」
呼びかける声は、震えていない。
「私も」
「――闘える」
愛刀【愛娘】へと、静かに手を添える。
朱蓮丸が、目を見開き――
そして、楽しそうに笑った。
「おぉ?」
「二人相手かぁ?」
「いいなァ……」
「楽しそうだ」
テュエルは一瞬だけ振り返り、静かに言う。
「……レイラ様」
「無理は、なさらないでください」
レイラは、はっきりと首を振った。
「もう……大丈夫だ」
巫女の目で、朱蓮丸を改めて“視る”。
「テュエル……気をつけろ」
「?」
「恐らく――爆発」
「それと……土……」
テュエルは即座に理解する。
「……オーラですね?」
朱蓮丸は、心底感心したように目を細めた。
「へぇ……すげぇな、レイラ」
「そんなとこまで視えんのか……!」
純粋な賞賛すら滲む声。
「そうだ」
「俺は“爆発”」
「それと――親父の心臓を食って、
土の王羅を手に入れた」
腕を広げ、嗤う。
「遊んでやるよ」
「二人まとめてなァッ!!」
瘴気が、再び膨れ上がった。
――戦いは、完全に始まった。




