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双国ノ巫女 〜愛されることを諦めた姫が愛を知る物語〜  作者: Su
奪われかけた巫女と、帰還する王
152/226

帰らない人を待つ夜


――新月の朝。

シャガルが去った、その直後。


歪みへと消えた瞬間――

レイラの両手は、ひどく震えていた。


霊力が、うまくまとまらない。


(閉じたら……もう、会えない)

(でも、閉じなければ……)


妖が流れ込み、

双国が、また危険に晒される。


迷いと恐怖と、

引き裂かれるような痛み。


それでも――

レイラは、歪みに意識を集中させる。


そして。


歪みを修復した瞬間。


世界が――

しん……と、音を失った。


シャガルの気配が、

完全に、消えた。


「シャガル……」

「……シャガル……帰ってきてよ……」


声は、虚空に溶けていく。


その背を、テュエルが強く抱きしめた。


「レイラ様……」

「あなたは、正しかった……」


「あなたが閉じてくれなければ」

「誰かが……きっと、死んでいました」


「シャガルも……必ず、そう思っています……」


レイラは、答えられなかった。


ただ、

テュエルの胸の前で、泣き続けるしかなかった。


⸻


その頃――妖界・醉鬼殿。


黒雲のような妖気が渦巻く中、

シャガルが【一人】で戻ってきた瞬間。


城中の鬼たちが、ざわめく。


「……戻りおったぞ」

「妖王が……!」


「ひとり、だと……?」


そのざわめきの奥で。


八岐大蛇が、

蛇のように、にたりと笑った。


(予想通り……いや、期待通りだ)

(お飾りの王よ……)


「戻ったか……酒呑童子」


湿った声が、殿内に響く。


「随分と……“人間界の匂い”がするな……?」


シャガルは、八岐大蛇を一瞥しただけだった。


――だが。


その瞬間、

空気が震えるほどの殺気が走る。


それすらも、

八岐大蛇は楽しむように受け止め、

わざと、言葉を選んだ。


「巫女は……」

「人間界に、置いてきたか」


「………なんのことだ」


「惜しいのう、妖王」

「お前の女……」

「私も一目、見てみたいものだ」


(……やはり、気づいておるか)

(相変わらず……食えぬ男よ)


シャガルは、拳を握り締めた。


だが、ここで動けば――

レイラの元へ戻る道を、自ら断つことになる。


今まで、あえて背を向けてきたもの。


【統治】


それを、今は引き受けねばならぬ。


(レイラ……)

(余は、必ず戻る)

(どれだけ新月を跨ごうとも……)


(余の妻を――

 誰にも、触れさせはせぬ)


⸻


夜。


レイラは泣き疲れ、眠りに落ちたが――

ふと、胸の奥がちくりと痛み、目を覚ます。


(……シャガル……?)


気のせいかもしれない。


だが、

母ミコトの血が騒いだ。


レイラは、すぐに悟る。


――妖界で、何かが動いている。


それは、不安ではなかった。

“確信”に近い感覚。


すぐに、テュエルが駆け寄る。


「レイラ様……?」

「どうなさいました?」


レイラは、小さく息を吸い。


「……泣いてばかりはいられない」


「シャガルが……帰れる世界を」

「私が、守らなければ……」


「……そうですね」


テュエルは、静かに頷く。


「ボク達にできることを、しましょう」


「……ん……」


泣き腫らした瞳の奥で、

決意だけが、鋭く光っていた。


⸻


その夜から。


レイラは再び、

テュエルと共に夜を歩く。


霊力で世界の“歪み”を探し、

一つひとつ、修復していく。


(シャガル……)


(あなたが、帰ってくる場所は――)


(私が、守る……)


新月が近づくたびに、歪みを探し。

触れ、整え、閉じる。


最初のうちは、

自分に言い聞かせるように、強がっていた。


「大丈夫」

「私は……平気」


そう言えば、

本当にそうなれる気がしていた。


だが――

新月は、必ず巡ってくる。


歪みは、

閉じても、閉じても、また現れる。


そのたびに、

レイラの胸の奥は、

じり……じり……と、擦り減っていった。


歪みに手を当てるたび、

シャガルの気配を、探してしまう。


(……いない)


それを確認する作業を、

何度も、何度も、繰り返す。


⸻


朝が来る。


眠れないまま、窓辺に立ち、

白む空を、ぼんやりと眺める。


ため息が、増えた。


理由は、自分でも分かっているのに、

言葉にする気力が、もう残っていなかった。


笑うことも、減った。


テュエルが何か言えば、

返事はする。


けれど、

そこに以前のような熱はない。


まるで――

感情を使い切らないよう、

無意識に、抑え込んでいるかのようだった。


⸻


半年が、過ぎた。


季節はいつの間にか冷え込み、

レイラの好きな冬が近づいていた。


気づけばレイラは、

シャガルと出会う前の自分に、

少しずつ、戻っていた。


静かで、

感情の起伏が乏しく、

どこか遠くを見ている。


ただ一つ違うのは――


もう、逃げないこと。


新月が来れば、

どれほど心が重くても、夜を歩く。


歪みを見つけ、

淡々と、修復する。


それが、

“シャガルが安心して帰れる世界”を守る行為だと、

思いたかったから。


そして、夜が明けるたび、

また窓の前に立つ。


来るはずのない影を探しながら。


⸻



半年という時間は、

テュエルには、それが

あまりにも長く、

そして残酷な半年に思えた。


目の前にいるレイラは、

確かに生きている。

歩き、話し、役目を果たしている。


けれど――

どこかが、決定的に違っていた。


以前のように、

ふとしたことで笑うことはなくなった。

声を上げて喜ぶことも、

感情をぶつけることもない。


窓の外を見つめる時間が増え、

ため息が、日に日に多くなっていく。


まるで――

少しずつ、色を失っていく絵画を

隣で見せられているようだった。


(……このままでは)


テュエルは、何度もそう思った。

だが、どう声をかければいいのか、

分からなかった。


⸻


レイラ自身も、気づいていた。


シャガルがいない世界は、

まるで色を失ったようだった。


あれほど鮮やかで、

息をするだけで満たされて、

生きていることが嬉しかった日々が――

夢だったかのように、遠のいていく。


皇務の席に座り、

書簡に目を通しても、

文字はただ流れていくだけ。


気を抜けば、

心の奥が、ずるりと沈む。


(歪みは……塞げる)


(開けて……会いにいくことだって……)


馬鹿げた考えが浮かび、

はっとして、すぐに打ち消す。


――だめだ。


そんなことをすれば、

すべてを裏切る。


「レイラ様……今日は、これくらいで……」


テュエルの声に、

レイラは小さく首を横に振る。


表情は乏しく、

まるで生気が抜けたようなのに、

手だけが、かすかに震えていた。


シャガルがくれた強さも。

笑顔も。

あの腕の中の体温さえも――

薄れていく気がして、怖かった。


⸻


右手に嵌められた、婚姻の証。


翡翠のように淡く光る、その結晶。


レイラは毎晩、

それに触れずにはいられなかった。


触れないと、不安で。

触れたまま、眠ってしまう夜もあった。


けれど、ある夜――

ふと、思ってしまった。



「この結晶がなければ…」

「ここまで辛くなかった……のかな」


 「“シャガル”なんて」

「本当に居たのだろうか」


その考えに至った自分に、

胸が、きりりと痛む。


泣けないのに、

心だけが泣いている、あの感覚。


⸻


それでも、レイラには分かった。


テュエルが、

少しずつ、暗くなっていること。


(……私のせいだ)


(このままじゃ……また、無理をさせる)


そう思い、

できる限り、笑顔で過ごそうとした。


自分では、

さりげないつもりだった。


――けれど。


「レイラ様……」


静かな声が、彼女を止める。


「俺のことなんか、気にしないでください」

「貴女が……そんなふうに、無理をしているのを見る方が……」

「ずっと、つらい……」


一拍。


「以前、言ってましたよね」


テュエルは、まっすぐにレイラを見る。


「“お前の前でしか、私は弱くなれない”って」


「だから……」

「俺の前では、強くなくていい」

「弱くていいんです」


その言葉が――

今のレイラには、あまりにも深く刺さった。


張り詰めていたものが、

一気に、崩れる。


声を殺すこともできず、

子供のように、泣きじゃくった。


テュエルは、何も言わず、

ただ、そばにいた。


⸻


シャガルが好きだった場所。

二人だけで行った場所。

思い出の、あの場所。


気づけばレイラは、

無意識のうちに、そこへ足を運んでいた。


(……私は、なにをしているのだろう)


(シャガルは……帰ってこないのに……)


妖界にも、女はいるだろう。


新しい女を見つけたから。

だから、こちらへは戻らないのではないか。


そんな――

心の底では信じてもいないことを、

わざわざ思い浮かべてしまう。


シャガルは、そんなに不誠実な男ではない。

分かっている。


分かっているからこそ、

そう思い込むしかなかった。


それでも。


どうしても、

誰かに否定してほしくて。


「……テュエル……」


かすれた声で呼ぶと、

すぐに返事が返ってくる。


「はい、レイラ様」


レイラは視線を伏せたまま、

小さく、震える声で続けた。


「シャガルはさ……」

「私のこと……」


一度、言葉を噛み殺してから。


「……もう、飽きちゃったのかな」


「……忘れちゃったのかな」


無意識に触れた腕輪が、

じわりと熱を帯びた。


「……?」


まるで、

それを否定するように。


だが――


救いが、欲しかった。


間髪入れず、テュエルが声を荒げる。


「レイラ様!!!」


その声には、

驚きと、怒りと、悲しみが混じっていた。


「そんなこと……あるはずがありません!」


「シャガルが、どんな想いで……!」


言葉は、途中で詰まる。


テュエルは強く、

レイラを抱きしめた。


逃がさないように。

崩れないように。


その腕の中で、

レイラは思う。


(……私は……)


(なんて、愚かで……)

(ずるくて……)

(惨めなんだろう……)


シャガルのいない日々は、

存在を知らなかった、あの頃には戻れず。


知ってしまった温もりだけが、

心を、静かに、確実に蝕んでいった。


⸻


やがて。


空が黒々と沈み、

世界に、強い静寂が落ちる。


――新月。


レイラの呼吸が、

自然と早まった。


歪みを探す。


どこかで。

どこかで。


(……シャガルが……)


(呼んでいるかもしれない……)


そんな、叶わぬ期待を抱いて。


だが、

いくら探しても、

歪みは見つからない。


時間だけが、

無情に過ぎていく。


そして――

レイラは、気づいてしまう。


「……今日も……」


かすれた声。


「帰って……こないんだね……」


その言葉を口にした瞬間、

胸の奥で、張りつめていた糸が――

ぷつん、と音を立てて切れた。


崩れないよう、

必死に呼吸を整える。


けれど、

その瞳は、どこか焦点を失っていた。


少し離れた場所で、

テュエルはただ、見守ることしかできない。


シャガル不在の影のように。

何もできず、

心配そうに、レイラを見つめるだけだった。


⸻


八岐大蛇が予見した通り――


“レイラが、歪みを閉じなくなる理由”は、

あまりにも、単純だった。


「歪みを……修復したら……」

「シャガルが……戻れなくなる……」


もう、今のレイラは、

それを本気で信じ込んでしまっている。


理屈ではない。

正しさでもない。


愛が――

そうさせていた。


修復の手が止まるたび、

結界の緩みは、少しずつ、確実に広がっていく。


それは、

レイラ自身も、薄々分かっている。


それでも――


「シャガルに……もう……」

「二度と……会えなかったら……」


その恐怖が、

すべてを上回った。


怖くて、

霊力を使う気力すら、湧かなかった。


その夜――

レイラは、


揺らぎに気づいていながら、

目の前にあった“揺らぎ”を、

ついに修復しなかった。


――


その夜から、時間は静かに、しかし確実に流れていった。

修復されなかった揺らぎは、何事もなかったかのように世界に溶け込み、

誰にも気づかれないまま、そこに“在り続けて”いた。


やがて、また新月が近づく。

空から月の光が消えていくにつれ、レイラの胸の奥では、

小さな期待と、それ以上の罪悪感が絡まり合っていった。


(……もしかしたら、あの時……)

(塞がなかったから、シャガルが……)


そんなことを考える資格はないと、何度も自分に言い聞かせる。

シャガルも、テュエルもまた、ただレイラの安全を祈っている。

この胸に芽生えた、身勝手な望みなど――

誰にも、口にしてはいけない。


(塞がなくては……)

(今度こそ……)


自分を責めるように、そう決めた。


新月の夜。

レイラはテュエルと共に、再び歪みを探しに出る。

だが、足は無意識のうちに、あの場所へ向かおうとしていた。


「……少し、一人になりたい」


そう告げて、彼から距離を取る。

気づかれたくなかった。

前回、修復を怠ったことを。


その言葉だけで、テュエルはそれ以上踏み込まない。

レイラの沈黙を、尊重する男だった。


だから、引き留めない。

問いたださない。

無理に、隣に立とうともしない。


――それが、彼の優しさだった。


そして辿り着いた先で、レイラは悟る。


揺らぎは、もはや揺らぎではなかった。

濃く、深く――

歪みへと、完全に変質していた。


(……あぁ)


胸の奥が、ひやりと冷える。


テュエルは、少し離れた場所にいる。

彼女の“一人になりたい”という言葉を、守るように。


その選択が、

彼女を守るためのものだと、疑いもしなかった。


――まさかそれが、

彼自身を遠ざけ、

別の“何か”に、無防備な姿を晒す結果になるなど。


この時は、まだ。


誰も、知らなかった。



胸が、ぎゅっと締めつけられる。


(シャガル……)

(もう……私のことは……)

(忘れちゃった……?)



本来、新月まで保つはずの揺らぎは、

異様な速さで崩れていった。


それが、自然の流れではないと――

レイラが気づく余裕は、もう残されていなかった。


小さく、声が漏れた。


「……会いたい……シャガル……」


その想いを振り切るように、レイラは手を伸ばす。


――歪みに。


次回、奴が現れます。


テュエルが最も相容れないタイプを詰め込んだような人物です。

ぜひお楽しみに。

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