そして王は、帰る
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―――妖界、醉鬼殿――――
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黒雲のような妖気が垂れ込める城内に、
異様なざわめきが走った。
「……八岐大蛇様が……?」
「王が不在の折に、なぜ……?」
姿を現した八岐大蛇に、雑鬼や下っ端の鬼たちが色めき立つ。
その反応を見て、八岐大蛇は満足そうに、薄く口角を上げた。
「ふむ……」
舌なめずりするように、空気を嗅ぐ。
「巫女の気配がする」
「神聖で……忌々しい匂いだ」
「歪みを塞ぎ始めた」
わざと、よく響く声で。
「まさか──我らが王」
「人間を、娶ったのではあるまいな?」
――ざわっ……!!
空気が一気に揺れた。
「人間の女を!?」
「巫女だと……?」
「それは……裏切りでは……?」
噂は、火が油を得たように広がっていく。
真偽など、誰も確かめようとしない。
「八岐様の方が王に相応しい……」
「人間に心を奪われた王など……!」
八岐大蛇は否定も肯定もしない。
ただ、黙ってそれを“見ている”。
――それで十分だった。
(さあ……戻ってこい、酒呑童子)
(混乱の渦中へ……な)
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人間界の朝
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――新月の明朝。
白み始めた空の下で、
シャガルは名残惜しそうに、それでも迷いなく身を翻そうとしていた。
「……まだ、朝なのに」
レイラは引き留める。
ほんの少しでも、時間を引き延ばしたくて。
だが、シャガルは首を振った。
「これ以上は……決心が揺らぐ」
そう言って、視線を逸らす。
「歪みを探せ」
「わかっておるな…」
「余が戻ったら……すぐにだ……」
レイラは頷いた。
すぐにでも出られたが――
「身支度をしてくる」と言い、席を立つ。
ほんの、わずかな猶予を求めて。
⸻
レイラの背が消えたあと、
シャガルはそっと息を吐いた。
すでに彼が纏っているのは、
黒を基調とし、
縁や流れる文様が金で縁取られた――
“酒呑童子”としての王衣。
黒は深く、金は淡く光を帯び、
ただ立っているだけで空気が揺らぐほどの威圧がある。
その手には、
人間界でも何度か振るったことのある大鎌。
ひょうたんと並ぶ、酒呑童子としての象徴。
そして背には、
――巨大なひょうたんが重々しく担がれていた。
姿だけ見れば、完全に“妖王”そのもの。
……ただ、一つを除いて。
机の上に残された、
紺色の布。
“レイラ直属”にのみ許される外套。
人間界で得た居場所、
レイラと過ごした日々を象徴する色。
シャガルはそれにそっと触れた。
指先に、微かに温度が残っている気がした。
(……置いていけるはずがなかろう)
外套を手に取った瞬間――
ふと、脳裏にあの日の光景が蘇る。
『はぁぁぁ?! なんだこれは!!
なぜ青い外套など着ねばならぬ!?
余は金、紅、黒が似合うというのに!』
自分で言い放った言葉。
本気で文句を言って、心底嫌がっていた色。
(……ふん)
口の端が、わずかに緩む。
(今では……この色が最もしっくりくるとはな)
外套を丁寧に畳み、
王衣の胸元、心臓の上へ静かに滑り込ませる。
黒と金の装束の内側に、
紺がひっそりと潜む。
今はどれよりも大切な色。
シャガルは迷わず、そこへ仕舞った。
(……余の“帰る場所”は、ひとつだけだ)
胸元の布が、
彼の最後の人間界の温度を抱くように沈んだ。
その瞬間を
邪魔しないように――
気配だけがふっと揺らぎ、
テュエルが静かに姿を現した。
「…………行くのですか」
「あぁ……」
二人の間に、長い沈黙が落ちる。
テュエルは小さく息を吐いた。
「せいせいする……とでも言えれば、よかったのですが」
一拍。
「……戻って来るのですよね?」
「無論だ」
「レイラを忘れることなど……できぬ」
「それこそ当然です」
「レイラ様は、あなたに会えず」
「しばらく……いえ、ずっと、苦しみ続けるでしょう」
「…………」
「……生きてさえ、いてくれればよい」
沈黙。
そして、シャガルは低く告げる。
「余が戻ったら……すぐに歪みを、すべて塞げ」
「……戻らないつもりですか」
「甘い考えは捨てろ」
「レイラの命より大切なものは……」
「余には、ない」
テュエルは目を伏せた。
(あぁ……この方も……)
「テュエル」
(……猿、と呼ばない)
「レイラを……頼んだぞ」
「お前にしか……頼めぬ」
「……言われずとも」
短く答え、深く一礼する。
――それは、命令ではなかった。
――契約でもない。
一人の男が、
自分の命よりも重いものを、
もう一人の男に託した瞬間だった。
守ると誓った女。
帰ると決めた場所。
そのすべてを――
言葉少なに、だが確かに、受け取った。
男同士の、静かで重い誓いだった。
⸻
身支度を終えたレイラが戻る。
「行くぞ」
レイラの足取りは、ひどく重かった。
⸻
歪みは、すぐに見つかった。
レイラは手を当て――
そして、あえて“緩ませる”。
ほんの一瞬。
瘴気が、こちらへ流れ込む。
「……っ」
一歩、退いたその瞬間。
背後から、強く抱きしめられた。
シャガルの額が、レイラの頭に押し当てられる。
低い声が、耳元に落ちる。
『……絶対に』
『妖を、こちらへ入れるな』
体勢を変え、正面から抱き合う。
『……愛している』
『レイラ……余の、妻よ』
そして――
長い、長い口付け。
それは、
まるで――
もう二度と戻らない者が、
すべてを刻みつけるような、口付けだった。
そして――
シャガルは、歪みへと足を踏み入れる。
入っていく。
……入ってしまった。
もう、姿は見えない。
⸻
レイラは、その場に崩れ落ちた。
膝から、力が抜ける。
涙が、滝のように溢れ落ちる。
思い出す、言葉。
『レイラ……』
『余が妖界へ戻ったら』
『すぐに……歪みを、修復しろ』
「……っ!!」
「閉められない……!!」
「……こんなの……」
「閉められないよ……!!」
泣き崩れるレイラを、
テュエルは、しばらくそのままにした。
彼女にも、整理する時間が必要だった。
だが――
歪みは、待ってはくれない。
テュエルは背を向けたまま、拳を握る。
「……シャガルの想いを」
「無駄にしてはいけません……」
一瞬、言葉を切る。
「……俺は」
「レイラ様と、三年……離れていられました」
声は静かだった。
だが、それは誇りではなく――
ただの、事実の報告だった。
「……ですが」
「シャガルは、違います」
わずかに、苦笑が混じる。
「……あの人は、待てない男です」
「恋しがって、堪えきれなくなって……」
そして、はっきりと言う。
「――すぐ、帰ってきますよ」
精一杯の笑顔だった。
レイラは、その言葉を聞いて――
喉が裂けるほど、泣き叫びながら。
それでも。
“シャガルが託した、最後の願い”を――
守ってしまう。
歪みを、修復する。
まるで、鍵をかけるように。
その行為は、
彼女自身の心を、静かに、確実に――
すり潰していくものだった。
五章、ここまでお読みいただきありがとうございました!
六章は、最初からクライマックスです。
引き続き、お付き合いいただけると嬉しいです。
…作者はシャガルロスです。




