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愛する妻と離れたくない妖王、地獄の選択を迫られる



レイラは、歪みを修復できるようになっていた。

気づけば、あれほど悩まされていた身体の震えは、いつの間にか消えている。


それなのに――

胸の奥に、拭えない違和感が残っていた。


シャガルは、何かを隠している時、決まって口数が減る。


(どうして……?)

(歪みを治せたのに……なぜ、あんな顔を……)


脳裏に浮かぶのは、馬天の姿。


(馬天は……何を伝えに来た……?)


嫌な予感が、ゆっくりと形を持つ。


――まさか。


レイラは、その答えを確かめるため、

シャガルの部屋へと歩みを進めた。


⸻


シャガルは、一人、馬天の言葉を反芻していた。


『妖王が、長く姿を見せておりません』

『王の不在を狙い、好き勝手に動く者が出始めています』

『人間界への歪みを、広げようとする動きも……』

『どうか……早く、お戻りください』


そして、その直後。


境界の歪みが、勝手に修復された。

さらに――妖界に、一瞬だけ“霊力の気配”が流れ込んだ。


歪みを作ろうとしていた連中が、

それを見逃すはずがない。


……巫女の存在は、確実に噂になり始めている。


馬天の声が、胸を抉る。


『酒呑様……そろそろ戻っていただかないと……』

『“向こう”が、動きます……』


シャガルは、舌打ちした。


(……さすがに、長居しすぎたか……)


だが。


(……レイラから、離れるなど……)


思考が、そこで止まる。


(王位を、棄てる……?)


――無意味だ。


棄てたところで、妖界は崩れ、

その歪みは、必ず人間界へと及ぶ。


逃げても、何も変わらない。


それを、誰よりも分かっているのは――

他ならぬ、シャガル自身だった。


どちらにせよ。

一度は、帰らねばならない。


足が、重い。

一歩が、どうしようもなく遠い。


一度妖界へ入れば、

しばらく――レイラには会えない。


そう考えた、その時。


「シャガル」


扉の向こうから、レイラの声がした。


⸻


戸を開けると、

そこに立っていたレイラの表情は、不安で満ちていた。


「シャガル……」

「馬天のことを、思い出した」


その一言で、胸が、ぎゅっと痛む。


「……ああ」


レイラは俯きながらも、必死に強くあろうとしていた。


「……わざわざ、何を伝えに来た……」


沈黙。


シャガルは、反射的に言ってしまう。


「……お前には、関係ない――」


「関係ないわけ、ないだろう!」


鋭い声に、シャガルはわずかに身を強張らせる。


レイラは、続けた。


「妖界へ……戻るのか……?」


シャガルは、うんとも、いいえとも言わない。


ただ、長い沈黙。


だが、それは――

レイラにとって、十分すぎる答えだった。


「……あんな、恐ろしい所に……戻ってほしくない……」


声が、震える。


「無事に戻れるって……保証が、ない……」

「シャガルと……離れたくない……」


その震えを感じた瞬間、

シャガルは静かに、彼女を引き寄せた。


抱きしめたまま、胸の奥が激しく揺れる。


(人間界に居を移すことも……考えた)

(だが、余が消えれば、妖界は確実に崩れる)


(歪みは破壊され……)

(人間界に、害が及ぶかもしれぬ)


逃げても、無駄だ。

それでは、レイラを守れない。


シャガルの腕に力がこもり、

さらに強く、彼女を抱き寄せる。


「レイラ……」


「……っん……」


泣きながら、それでも精一杯、応える声。


「余も……本当は、帰りたくはない」

「一度戻れば……しばらく……」


言葉が、詰まる。


「……こちらへは、戻れぬだろう」


レイラは、シャガルの胸元を、ぎゅっと掴んだ。


「嫌だ……」

「離れるなんて……嫌だ……」


胸が、痛む。


だが、震えるレイラを受け止めながら、

シャガルは低く、言葉を落とした。


「……今、妖界に戻らねば」

「もっと、大きな危険が迫る」


「お前にも……双国にも……」

「いや……人間界に、だ」


「余の不在が続けば、王位を狙う者が動き出す」

「そして、“あの力”を感じた妖どもは」

「必ず……お前を狙う」


「だからこそ」

「余が戻って、抑えねばならない」


レイラの目から、涙が止まらない。


「……じゃあ……どうすれば……」

「どうしたら……シャガルを、守れるの……?」


シャガルは、今できる限りの笑顔――

苦笑を浮かべた。


「大丈夫だ」

「余は、王だ」

「己の身くらい……守れる」


「……お前が、近くにいない方が……いい」

「男に成り下がり……弱くなる」


そして、続ける。


「レイラ……」

「離れたくなど……これっぽっちも、思っておらぬ」


「妖界の、あの淀んだ空気も」

「愚かな妖どもも……思い出すだけで、吐き気がする」


声が、低く震える。


「だが……余が戻らねば」

「必ず、動乱が起こる」

「その渦は……必ず、お前を巻き込む」


「……それだけは、絶対に、避けねばならぬ」


レイラは堪えきれず、シャガルの胸に飛び込む。

シャガルも、逃がさぬように、強く抱きしめた。


「……シャガル……」

「帰って……くるよな……?」


「帰る」

「必ず、帰る」


「何度、新月を越えようとも」


だが――


「その間に、歪みが開けば……」

「また、お前が狙われる」


喉を震わせながら、続ける。


「──余は……一度、妖界へ戻る」


その言葉に、

レイラの胸が、きゅっと締めつけられた。


分かっていた。

覚悟していた。


それでも、涙が溢れる。


「レイラ……」

「余が妖界へ戻ったら」


「すぐに……歪みを、修復しろ」


「……っ!!」


レイラは目を見開き、

抱きついていた身体を、思わず離す。


「……余が、戻れなくなると……分かっていても、だ」


その言葉は、

まるで自分自身の首を絞めるように、苦しげだった。


「そんな……!」

「そんなこと……できるわけが……!」


「修復したら……」

「新月が来ても……シャガルは、戻れないんだぞ……!?」


「……分かっている」


その表情は――

王としての義務と、

レイラへの愛が、互いに喉元へ刃を向けているようだった。


「レイラを、危険に晒すくらいなら……」

「余は、何年でも……」

「何百年でも……待つ」


涙が、溢れ落ちる。


「……シャガルだけを……」

「閉じ込めるみたいで……」

「……やだよ……」


シャガルは、レイラの額に唇を寄せ、

深く、長い呼吸を落とした。


「閉じ込められても、構わぬ」

「余は……」

「レイラが、息をしている限り……それで、いい」


皮肉にも――

次の日は、新月だった。


シャガルは、静かに言う。


『黙って旅立てるほど、余は……できた男ではない』

『今夜は……会えぬ分まで、お前を、抱いていたい』


二人は、

夜が明けてほしくないと願いながら――

その夜を、共に過ごした。


⸻


闇は深く、時間の感覚は曖昧になっていく。


レイラは、シャガルの胸に額を預けたまま、

小さく、震える声で呟いた。


「……シャガル……」

「……行かないで……」


その言葉に、

シャガルの腕が、わずかに強くなる。


「……レイラ」


低く、掠れた声。


「余は……必ず、帰る」

「だが……今は……」


言葉を探すように、息を整え――

そのまま、彼女の額に唇を落とした。


「……愛している」

「それだけは……何があろうと、変わらぬ」


レイラは、ぎゅっと彼の衣を掴む。


「……私も……」

「…愛してる…………」


それ以上は、言葉にならなかった。


ただ、互いの鼓動を確かめ合うように、

離れぬように、

失わぬように――

何度も、抱きしめ合う。


夜は、静かに更けていく。


新月の闇が、

二人を包み込むように――

何も告げず、

何も奪わず。


ただ、

別れが近づいていることだけを、

静かに、確かに、告げていた。


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