ようやく希望が見えた頃、妖界では破滅が動き始めていました
洞窟の奥で。
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ――
その、次の瞬間だった。
霊力が、溢れた。
爆ぜたわけではない。
解き放ったつもりもない。
ただ、揃ってしまっただけ。
重なった感覚が、境界に触れ、
その“理”が、淡く、柔らかな光となって滲み出る。
「……っ!?」
レイラは、思わず目を見開いた。
自分の周囲から、
岩肌に、氷柱に、水の膜に――
淡い光が、波紋のように広がっていく。
「な……に……?」
驚きで、力が抜ける。
足元がもつれ、
レイラはその場に、尻もちをついた。
光は、すぐに静まった。
まるで、何事もなかったかのように。
ただ、空気だけが――
確かに、変わっていた。
⸻
「レイラ!!」
滝の向こうから、切迫した声が響く。
次の瞬間、
水を裂く音とともに、二つの影が駆け込んできた。
「レイラ!大丈夫か!」
「レイラ様!どうされたのですか!?」
シャガルとテュエルは、
洞窟の奥、尻もちをついたままのレイラを見つけ、
同時に息を呑んだ。
「……怪我は……」
「どこか、痛むところは――」
慌てて駆け寄る二人を前に、
レイラは、しばらく呆然としていた。
それから――
ぽつり、と呟く。
「……わかったかもしれない……」
「……?」
二人は、揃って首を傾げた。
一拍。
レイラの顔に、
ゆっくりと、驚きと喜びが滲む。
「……掴めた……かもしれない」
次の瞬間。
「掴めたかもしれない!!」
声が、弾んだ。
自分でも信じられない、
けれど確かな実感。
シャガルは一瞬目を見開き、
すぐに、低く笑った。
「……やはりな」
テュエルも、思わず息を吐く。
「さすが……」
「レイラ様なら、必ず辿り着くと……思っていました」
レイラは、少し照れたように、
それでも嬉しそうに笑う。
「まだ……全部じゃない」
「でも……見えた気がするんだ」
「結界が……」
「どう在るものなのか……」
シャガルは、ゆっくりと頷いた。
「それでよい」
「最初から、すべて分かる必要などない」
テュエルも、静かに続ける。
「一歩です」
「ですが……確かな一歩ですよ」
洞窟の中に、
さっきまでの重苦しさはなかった。
代わりに残ったのは――
微かな手応えと、確かな前進。
そして、
ここから先へ進めるという、確信。
――
洞窟を出たあとも、
シャガルの胸の奥には、あの光の残像が焼き付いていた。
(……やはり……)
レイラの力ではない。
レイラという存在そのものが、境界に応えたのだ。
理解でも、知識でもない。
感じ取り、重ね、揃えた――ただそれだけ。
(……さすがだな、レイラ)
誇らしさが、確かに胸を満たす。
――だが。
同時に、
胸の奥で、静かに何かが沈んだ。
(……もう……)
(……そう長くは……)
言葉にはならない思いが、喉の奥で留まる。
この瞬間を、
この成長を、
最後まで見届けられぬかもしれない――
そんな予感だけが、胸に残った。
シャガルは、その感情を表には出さなかった。
ただ、いつもより少しだけ、
視線を落とし、目を伏せただけだった。
⸻
それから。
レイラは、時間を見つけては静かに座り、
あの感覚を反芻するようになった。
霊力を“使う”のではない。
押さえつけるのでも、引き出すのでもない。
ただ、
揃える。
自分の内と、外に在る理を。
焦らず、怯えず、
心を澄ませるように。
半月ほどが過ぎた頃――
レイラは、ふと気づいた。
(……違う……)
(歪みは……視るものじゃない……)
レイラは、目を閉じたまま立っていた。
瞼の裏。
闇の中に、微かな違和感が浮かぶ。
新月でもないのに――
揺らいでいる箇所が、確かに“ある”。
さらに、
かすかな音のようなものまで、聞こえた。
(……ここ……)
レイラは、そっとそこへ手を伸ばす。
天墓使の結界に触れた、あの時のように。
意識を、集中させる。
(……こう……だろうか……)
霊力で“撫でる”。
すると――
揺らぎは、
嘘のように整い、静かに消え失せた。
「…………」
レイラは、思わず目を開く。
「……できた……のか……?」
だが、すぐに目を閉じ直す。
(……いや……)
(安心するのは……まだ早い……)
再び、意識を沈めた、その時だった。
――呼ばれた。
声ではない。
気配に近いもの。
こっちだと、示される感覚。
「……?」
レイラは、導かれるまま、そちらへ向かう。
そして――
目を見開いた。
「……!!」
先ほどとは比べものにならないほど、
荒れた揺らぎ。
(……こんなに……)
(これを……放置していたら……)
妖が、なだれ込む光景が脳裏をよぎる。
冷や汗が、背を伝う。
(……でも……)
(止めてみせる……)
レイラは、一歩踏み出し、
同じように手を当てがう。
揺らぎを、霊力で、丁寧に撫でる。
すると――
歪みは、静かに整い、
跡形もなく消えた。
「……やった…………………」
小さく、震える声。
⸻
少し離れた場所で、
シャガルとテュエルは、黙って見守っていた。
集中を乱さぬため、
声をかけなかった。
だが――
わずかな異変に、二人は気づく。
近づきながら、シャガルが声をかけた。
「レイラ、どうした?」
テュエルも続く。
「なにか……ありましたか?」
レイラは、ゆっくりと振り返る。
「うん……」
一拍。
そして――
柔らかく、確かな声で言った。
「私にも……できたよ」
その瞬間。
久しく見ていなかった、
心からの笑顔が、そこにあった。
シャガルは、思わず破顔する。
「やったな!」
「さすがだ、余の妻だ!」
「最初から、できると思っていたぞ!」
一方――
テュエルは。
「……っ……」
言葉にならず、
その場で泣き崩れた。
「……もう……」
「一時は……どうなることかと……」
「レイラ様を……」
「危険な道へ進ませてしまう未来ばかり……」
「毎日……生きた心地がしませんでした……」
涙を拭いながら、震える声で続ける。
「それなのに……」
「本当に……」
「やってのけるなんて……」
「……すごい方です……」
二人の称賛を受け、
レイラの胸は、温かさで満たされた。
だが――
張り詰めていたものが解けた、その瞬間。
ひとつの疑問が、浮かぶ。
(…………馬天は……)
(何をしに……人間界へ来た……?)
(わざわざ……)
(何もせずに帰るわけ……)
レイラは、
ちらりとシャガルを見る。
誇らしそうに、笑っている。
……けれど。
どこか――
ほんのわずか、寂しげだった。
レイラは、その表情から目を離せずにいた。
言葉にするには、あまりにも小さな違和感。
だが、確かに胸に引っかかるものがあった。
それから、時は静かに流れ――
気づけば、次の新月が近づいていた。
空は、少しずつ光を失い、
夜の輪郭が、日に日に濃くなっていく。
シャガルの様子は、変わらない。
いつもと同じ声音、同じ立ち居振る舞い。
――それなのに。
レイラには、はっきりと分かっていた。
(……なにか、隠している)
胸の奥で、嫌な予感が、ゆっくりと形を持ち始める。
そして、ある夜。
ついにレイラは、
シャガルを逃がさなかった。
――――――――――――
――――――――――――
――同じ夜。
だが、空気はまるで違っていた。
場面は切り替わり、妖界。
瘴気が濃く垂れ込める岩殿の奥。
腐臭と妖気が絡み合い、淀んだ空間を満たしている。
その中心で、二つの影が向かい合っていた。
一柱は――
現段階で妖界第二位の実力を誇る存在。
王位を狙う大妖、八岐大蛇。
そしてもう一人。
なぜかその隣に、気安げに腰を下ろしている武の達人――
山本朱蓮丸。
本来、交わるはずのない二者。
だが今、二人は同じ“獲物”を見据えていた。
⸻
「――酒呑は、人間界に長居しすぎた」
八岐大蛇が、ゆったりと首をもたげる。
低く、湿り気を帯びた声が、岩肌に這う。
「女だろうな」
「あやつが、何も得ずに長居するとは思えぬ」
嘲るように、口角が歪む。
「冥炎の酒呑相手では、正攻法は通じぬ」
「それくらいは……この私でも分かる」
朱蓮丸は肩をすくめ、くつくつと笑った。
「気分悪ぃがな」
「酒呑は強すぎる。正面からは、流石に無理だ」
八岐大蛇は、その反応すら意に介さず、淡々と続ける。
「だから――歪みを広げる」
「少しずつ、確実に」
「新月の日に」
「一気に妖を雪崩れ込ませる」
「混乱の中で殺す」
「運が良ければ……女も、人質に取れる」
一拍。
「そして恐らく、その女は巫女だ」
「利用しがいがあるというものだろう」
その言葉に、朱蓮丸の目が僅かに光る。
口元を歪め、にやついた。
「へっへっ……見てみてぇな」
「どんな声で、泣くんだろうなぁ」
⸻
八岐大蛇は、確信を孕んだ声音で告げる。
「王は、必ず戻る」
ゆっくりと、不気味な笑みを浮かべ。
「その時が――」
「……あいつの、最後だ」
朱蓮丸は、面白そうに顎を鳴らした。
「へぇ……王位がひっくり返る瞬間、か」
「そりゃ……見てみてぇもんだな」
朱蓮丸は元は人間。
父・山本五郎左衛門の心臓を喰らい、
潜在能力を覚醒させた異端。
王位そのものよりも――
王が大切にしたものに、異様な興味を示していた。
「なぁ、八岐の旦那」
「妖王に寵愛されてる女って……どんなヤツだ?」
舌なめずりするような、歪んだ笑み。
「そいつを抱いて、俺のものにしたら……」
「酒呑は、どんな顔をするんだろうなぁ?」
八岐大蛇は、その歪みを咎めない。
むしろ――利用する。
「酒呑が戻れば……“絆”も、“歪み”も、必ず綻ぶ」
「その隙を突け」
「巫女は必ず歪みをまた”生み出す”」
――
「歪みから人間界へ行け」
「巫女を狙え」
「私はその間、醉鬼殿へ赴く」
「“人間界生まれの巫女”」
「“神聖な気配を纏う女”」
「そう囁けば……愚かな鬼どもは騒ぐ」
「酒呑の足止めくらいには、十分だ」
そして――
「折を見て」
「歪みを、お前の力で広げろ」
人間界へ。
女を奪い、王位を奪う。
資源として。
楔として。
⸻
「ヤツが帰ってくるなら――」
「女は、置いてくるということだ」
八岐大蛇は、細く目を細めた。
「構わない手は……なかろう?」
朱蓮丸は、即答だった。
「俺の狙いは――女だ」
にたりと笑い、刀の柄に指をかける。
「殺さないでくれよ?」
「八岐の旦那」
瘴気が、ゆっくりと渦を巻く。
妖界では、
確実に“破滅”が、動き出していた。




