夫二人の嫌な予感が的中しました
新月の夜。
レイラは、いつも通り静かに眠りについていた。
それが――
この夜、最大の【隙】になるとも知らずに。
布団のすぐ傍で、
空間が“どろり”と溶けるように歪む。
音は、ない。
匂いも、ない。
ただ、世界の輪郭だけが――崩れた。
レイラは、違和感を覚えた。
夢の底から浮かび上がる直前、
身体が、わずかに強張る。
(……なに……?)
目を開く、その刹那――
バッ!!
歪みの奥から、
長く、黒ずんだ腕が飛び出した。
次の瞬間、
足首に――強烈な力。
「――っ!?」
声を上げる間もない。
引かれる。
抵抗も、判断も許されない。
歪みが、口を開く。
魔鬼
「……くわせろ……」
声なのか、呻きなのかも分からない。
ただ、耳障りな“欲”だけが、直接脳に流れ込む。
「あぁっ――!!」
叫びは、空間の歪みに飲み込まれ、
完全に掻き消えた。
――――――
落ちた先は、
空気すら黒く濁った世界。
瘴気。
妖力。
怨嗟。
肺に吸い込むだけで、
内側から焼かれるように苦しい。
指が、動かない。
脚が、言うことをきかない。
(……う……ごか……な……)
――思い出す。
あの日。
シャガルが、酒呑童子の姿で現れた時。
圧倒的な力の前で、
ただ“無力”だった感覚。
魔鬼が、顔を近づける。
裂けた口が、
耳元まで、不自然に開いた。
魔鬼
「……巫女ノ力……
喰わせろ……
喰わせろォ……!!」
レイラは、目を閉じた。
(……ああ……)
(……ここで……終わるんだ……)
――――――
その瞬間。
ゴオオオオッ!!!!
世界が、緑黒い炎で焼き潰された。
シャガルの冥炎が、
魔鬼を包み込み、
声を上げる暇すら与えず――
跡形もなく、消し飛ばした。
そこに立つ男の顔は、
怒りで歪み、
それ以上に――焦りで震えていた。
「……っ!! レイラ!!」
言葉を交わす余裕は、ない。
シャガルは、
レイラを強く抱き寄せると――
歪みへ、そのまま身を投げ込んだ。
遅れて、
自らも飛び込む。
――――――
人間界。
地面に叩きつけられるように転がり、
シャガルは膝をついた。
「……はぁ……っ……はぁ……っ……!!」
肩で息をし、
冷や汗が、頬を伝う。
「シャガル……!
あの……わ、私……」
身体が震える。
でも、何か言わなければならない気がして。
その瞬間――
バッ!!
強く、肩を掴まれた。
「愚か者!!!!」
怒鳴り声が、夜を裂く。
「何をしておる!!
死ぬつもりか!!!!」
威厳でも、余裕でもない。
それは、
恐怖を隠しきれない声だった。
「余が……気づかなければ……
お前は――殺されていた……!!」
声が、震える。
言葉が、詰まる。
そして、低く――
「もう二度と、妖界へ足を踏み入れるな」
「二度と……だ」
その目にあるのは、怒りではない。
――失うことを、
本気で恐れた男の目だった。
遅れて、
血相を変えたテュエルが駆けつける。
だが、
何があったのかを聞く必要はなかった。
二人の姿が――
すべてを、物語っていた。
レイラが、震える声で口を開く。
「シャガル……助けてくれて――」
言い終わる前だった。
ガシッ――!!
言葉を遮るように、
シャガルが強く、強く、レイラを抱きしめた。
逃がさない。
離さない。
そう言わんばかりの力。
腕は固く、だが震えている。
その身体全体が、目に見えて揺れていた。
「……レイラ……」
「余が……余が、気づかなければ……っ……」
喉が詰まったように、言葉が途切れる。
「レイラが……」
「消えていた……」
怒鳴り声でもない。
威圧するような王の声でもない。
ただ――
必死に、恐怖を堪える声。
その胸元に、ぽつり、と落ちる。
――一筋の涙。
レイラは、はっと目を見開いた。
「……シャガル……?」
信じられないものを見るように、
彼の顔を見上げる。
「ごめん……」
「油断した……甘かった……」
「ほんとに……ごめん……っ……」
レイラ自身も泣いていた。
だが、それでも分かる。
抱きしめてくるシャガルの震えの方が、
ずっと大きい。
シャガルは、レイラの頬を両手で挟み、
震える指で、涙を拭った。
「謝るな……!」
声が、かすれる。
「もう二度と……」
「二度と、余から離れるな……!」
額を、こつりと当てる。
息を整えようとするが、まるで整わない。
「妖界へ足を踏み入れるな」
「余が……お前を守れぬ場所へ行くな……!」
必死で。
あまりにも必死で。
レイラは、泣きながら、
その身体を抱き返した。
⸻
その光景を見て――
テュエルの顔色が、はっきりと変わる。
青ざめていた。
普段、どんな修羅場でも動じない彼が、
言葉を失って立ち尽くすほどに。
「……シャガルが……」
「そこまで……」
視線が、自然とレイラの足元へ落ちる。
足首。
そこには、くっきりとした掴み跡。
爪が食い込んだせいだろう、
赤く滲んだ血が、まだ残っていた。
それを見た瞬間――
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
怒り。
嫌悪。
そして、はっきりとした理解。
――妖界は、そういう場所だ。
レイラが、
どれほど危険な場所に引きずり込まれたのか。
言葉はいらなかった。
テュエルは、静かに拳を握る。
シャガルは、低く呟いた。
「……もう二度とだ」
「二度と、あの歪みに近づくな」
言葉の続きを、飲み込む。
それだけで十分だった。
⸻
その夜、
誰一人として、眠らなかった。
夜が明け、
陽が昇っても――
レイラは、目を閉じることができなかった。
引きずられた感触。
掴まれた足首。
暗闇の圧。
それが、身体から抜けない。
妖界の瘴気と、
魔鬼に触れられた衝撃。
戻ってきてからも、
レイラの体調は優れなかった。
顔色は青く、
呼吸は浅い。
震えも、完全には止まらない。
シャガルは、離れなかった。
抱きしめたまま、
身体を密着させ、体温を伝える。
「レイラ……余がおる」
「今は……休め……」
心配そうに、何度も顔を覗き込む。
レイラは寝台に横になったが、
目を閉じることができない。
テュエルも、すぐに駆け寄り、
体温を確かめ、毛布を掛け直す。
「レイラ様……」
「無理をなさらないでください……」
声が、わずかに震えていた。
張り裂けそうなほどの不安を、
必死で押し殺している。
レイラは、かすかに頷く。
「……すまない……」
「心配を……かけた……」
そして――
限界だった。
疲労と恐怖、
そして瘴気の影響。
気を失うように、
静かに眠りへ落ちていった。
⸻
だが――
一番厄介だったのは、心だった。
寝息を立てていたはずのレイラの顔が、
突然歪む。
眉が寄り、
唇が震える。
「……っ、や……」
「やめて……っ……」
次の瞬間。
「――――っ!!」
悲鳴とともに、飛び起きた。
息は荒く、
顔は涙で濡れている。
反射的に、足首を押さえ、
身体を丸めて震える。
「また……」
「掴まれた……」
「夢……なのに……っ……」
「レイラ様!!」
テュエルが即座に駆け寄り、
強く抱き寄せる。
震える肩を支え、
背を優しく撫でる。
レイラは、その胸元にしがみつき、
子供のように泣きじゃくった。
「大丈夫です……」
「もう誰にも、触れさせません……」
声は優しい。
だが、内心は凍りついていた。
「俺も、シャガルも……」
「必ず、守りますから……」
少し離れた場所で、
シャガルは拳を握りしめていた。
爪が食い込み、
血が滲むほどに。
「……くそ……」
「こんな思いを……」
声が、震える。
「させたくなかった……」
本気で、自分を責めている。
だが――
レイラがテュエルにしがみついているのを見て、
一歩、踏み出せずにいた。
(……今は……)
(……やつの方が、落ち着かせられるか……)
視線が、足首へ落ちる。
そこに残る痕。
夢にまで出てくるほどの恐怖。
シャガルは、低く呟いた。
「レイラ……」
「もう二度と……」
その声は、怒りではない。
「余の目の届かぬ所へは……」
「行かせぬ……」
それは、
王の命令ではなく――
失うことを、心の底から恐れた男の誓いだった。




