妻には内緒ですが、夫二人とも嫌な予感がしています
灯籠流しが終わり、
人々の声が、少しずつ夜に溶けていく。
祭りの熱は、
まだ身体に残っているはずなのに――
空気は、妙に静かだった。
馬車が止まり、
御者が低く声をかける。
「……到着でございます」
三人は、順に地へ降りる。
夜気が、肌を撫でた。
城門までは、わずかな距離。
だが、その道が、やけに長く感じられる。
自然と、隊列ができていた。
先頭を行くのは、シャガル。
無言で、歩調はわずかに早い。
その少し後ろ、中央にレイラ。
いつもなら並んでいた距離が、今は、半歩ほど空いている。
さらにその後ろ、テュエル。
視線は周囲へ、わずかも緩めない。
足音。
砂利を踏む感触。
衣擦れ。
夜風が、草を撫でる音。
それらすべてを、
テュエルは過剰なほど拾っていた。
(……静かすぎる)
ただの、城。
ただの、帰路。
それなのに――
(……さらに、暗い…)
――気配が、薄い。
前を行くシャガルの背を、
一瞬だけ見る。
(……あいつも……)
そう思ったが、
言葉にはしなかった。
城門が、近づく。
誰も、何も言わない。
だが、
三人の足取りだけが、
確かに、同じ方向を向いていた。
城門が見えた頃には、
三人とも、ほとんど言葉を交わしていなかった。
――――――
部屋に戻り、
浴衣を脱ぎ、丁寧に畳む。
布に触れるたび、
祭りの灯りが脳裏に浮かぶ。
水面を流れていく灯籠。
闇に溶ける、小さな光。
(……シャガル……)
問いかけた言葉。
返ってこなかった答え。
「……私が、踏み込みすぎたのか……」
ぽつりと、独り言が零れる。
だが、すぐに首を振る。
(……それでも……)
知りたいと思った。
彼のいる世界を。
その気持ちだけは、
嘘じゃない。
灯りを落とし、
寝台に横になる。
だが、目を閉じても――
すぐには眠れなかった。
――――
城の一角、
人目のない場所。
月のない空を、見上げる。
闇は、深い。
だが、何も見えない。
それが、逆に――
不安を煽る。
(……近い)
確証はない。
兆しも、はっきりとは掴めない。
ただ――
レイラの口から「妖界」という言葉が出た。
それだけで、
意識が、こちら側へ引き寄せられる。
(……余が、過敏になっているだけか……)
そう思おうとして、
思いきれない。
拳を、静かに握る。
(……用心するに、越したことはない)
再び、無言で闇を見つめ続けた。
――
城は、すでに眠りについていた。
祭りの余韻は、
城壁の内側までは届かない。
灯りが、一つ、また一つと消えていく。
夜警として巡回していたテュエルは、
回廊で、ふと足を止めた。
そこに――
腕を組み、壁に背を預けるように立つ
シャガルの姿があった。
「……珍しいですね」
静かな声。
「まだ起きておられるとは」
シャガルは、ゆっくりと視線を向ける。
その目は、冴え切っていた。
「お前もだろう」
「……念のためです」
簡潔な答え。
シャガルは鼻で息を吐いた。
(念のため、か)
(野生の勘とでも言うべきか……)
テュエルは一歩、距離を詰める。
少し、間を置いてから。
「……川辺での件ですが」
シャガルの表情が、わずかに変わる。
だが、否定はしなかった。
「少々……冷たすぎたかと」
責めるでもなく、
確認するような低い声。
「レイラ様、気にしておられます」
「“触れてはいけないことを聞いたのでは”と」
沈黙。
しばらくして、シャガルは視線を逸らした。
「……あれ以上、話すべきではなかった」
短い言葉。
それ以上は語らない。
テュエルは、深追いしなかった。
「……承知しました」
だが、そこで終わらせない。
「違和感があります」
声が、わずかに低くなる。
「言葉にするのは難しいですが……」
「ヒリつくような」
「毛が逆立つような感覚が、消えません」
シャガルは目を細める。
(やはり……)
(気づくか……)
「お前は、人だろう」
「はい」
「妖でも、巫女でもない」
「それでも、そう感じるか」
「……感じます」
即答だった。
テュエルは、少し間を置いてから続ける。
「それに……」
視線を落とす。
「馬天が現れた夜」
「…魄喰の件」
「……あなたが来たのも」
一拍。
「新月でした」
(やはり……そこに行き着くか)
人の理屈。
だが、結果は同じだ。
「確証はありません」
「ですが……条件が揃いすぎています」
そして、まっすぐにシャガルを見る。
「あなたは……」
「何か知っているのではないですか」
沈黙。
シャガルは、しばし口を閉ざしたまま――
やがて、低く口を開く。
「……余は」
「“来る”と決めつけているわけではない」
「お前と同じだ」
「確証は、ない」
一拍。
「ただ……」
「レイラの口から、妖界の話題が出た」
理由としては、曖昧。
だが、無視できない違和感。
「意識してしまっただけかもしれん」
「余の、取り越し苦労の可能性もある」
それでも――
「用心するに、越したことはない」
低く、静かな声。
テュエルは、すぐには返事をしなかった。
やがて、短く頷く。
「……同意します」
「俺も」
「“何かが起きる”とは言えません」
視線を上げる。
「ただ」
「何も起きないと、断言することもできない」
二人の間に、
言葉にしない理解が落ちる。
シャガルは、かすかに口角を上げた。
「……人間にしては」
「悪くない勘だ」
「……光栄です」
テュエルは肩をすくめる。
「レイラ様には?」
シャガルは、即答しなかった。
「……今は、まだだ」
「不安を与えるだけになる」
「何も起きなければ」
「それでいい」
それが、
護る者としての結論だった。
シャガルは、闇を見たまま、ぽつりと口を開いた。
「……レイラは、今――幸せそうにしておる」
テュエルは、何も言わずに耳を傾ける。
「まだ余らと婚姻を結ぶ前」
「……あの頃のレイラは」
「空気の変化にも、異変にも」
「真っ先に気づく女だった」
わずかな沈黙。
「だが――」
「その勘の良さが、少しずつ緩んでおる」
それは、否定でも後悔でもない。
事実を受け止めた声音だった。
テュエルは、低く答える。
「……はい」
「以前のレイラ様であれば」
「動物達の気配」
「木々の揺らめき」
「空気の流れ――」
「すべてを、俺達より先に察していたでしょう」
一拍。
「ですが」
「そうさせてしまったのは……俺達です」
自嘲でも、言い訳でもない。
「安心させた」
「委ねさせた」
「背を預けられる場所を作った」
「……だからこそ」
視線を上げる。
「俺達が、護り抜かなければならない」
その言葉に、シャガルは一瞬だけ目を細めた。
そして、短く――
「……当たり前だ」
否定も、躊躇もない。
さらに、低く続ける。
「それが出来ぬなら」
「最初から、側には立たぬ」
二人の間に、
言葉にしない誓いが落ちる。
「……失礼します」
テュエルは一礼し、回廊を後にする。
その背を、
シャガルはしばらく見つめていた。
回廊を抜ける風が、冷たい。
空には、月がない。
何も起きない夜であってほしいと――
誰よりも強く願っているのは、
きっと、シャガル自身だった。
その夜、
二人は眠らなかった。
テュエルは全方位に気を配り、
シャガルは――
レイラの気配を感じ取れる距離で、
壁に背を預け続けていた。




